第七百九章 エステルの出生
「や、やってみるわね」
と、覚悟を決めたようにマルグリットは呟くと、口を大きく開け、ハムサンドを頬張った。ハムサンドのパンは、あまり固いものを使っていない。噛み切れる固さだろう。
食べかけのハムサンドを皿の上に置き、彼女はしばらく無言で口内のそれを味わう。いつもは大きな瞳が、細められる。
やがて、一口目を咀嚼すると、
「こんなに美味しいものがあったのね……」
そう感動したように言った。
「ほら、アンリも、エステルも食べてご覧なさい?」
「もう食べているよ、マルグリット」
アンリは冷静に言った。
「美味しいね。ソースも独特で、パンも邪魔をしない。あくまでもパストラミと、生ハムが主役なのだなって思えるよ」
「私、昔食べた事があるかもしれません……」
エステルは言った。下町育ちの彼女だ、下町にすむものは、一度は食べた事のある味だろう。
「母が土産にと買ってきてくれて……共に食べた記憶があります」
「失礼だが」
と、俺は口を開く。
「エステル、君の母の職業はどう言ったものだ?」
目前でマルグリットが睨んでいる。大方、エステルの事を”君”と言った事だろう。己は突然お前だったのに。そのような具合だ。
いや、あなたと言った記憶はあるぞ?
さて、話を戻そう。
俺の問い掛けに、エステルは一瞬困ったような素振りを見せ、そうして小さな声で、
「春を売っていました。さつまいもの蜂蜜がけも、食べた事があります」
と、告白した。
「私は、私の父親を知りません。恐らく母を買った者の一人でしょう。母には心当たりがあったようですが、ついになにも私に話す事なく、私の初舞台を観ずに、過労で息を引き取りました」
中々ハードな育ち方をしているのだな。
「すまない、酷い事を聞いた」
俺は謝った。そうして、
「せめてものアドバイスだ。ここのカフェラテ
は美味い。束の間、忘れてくれ」
「私こそ、場の暗くなるような話をしてしまってすみません」
エステルは頭を下げる。
「大丈夫だよ、みんな寛容な方々だ」
すかさず、彼女のパトロンのセルジュが助け船を出す。
「オペラの世界に育ちは関係ないわ。皆実力でのし上がって行くものよ。私だって、貴族の特権とか言われているけれど、そんなものは関係ないわ。いかに客を満足させるか。それが問題よ」
マルグリットが胸を張った。彼女にしては、まともな事を言っている。
「あ、今私にしてはまともな事を言っているとか思ったでしょう? シャルル」
マルグリットに顔を読まれてしまった。思った事が顔に出る癖は、未だに治ってはいないようだ。
「すまん、すまん」
カフェラテを口に運びながら、俺は言った。エステルには不幸な話だが、ここは昼を食べている途中だ。謝罪しか、する事ができない。
「謝らなくて結構です、男爵様」
間を開けて、エステルは答えた。
「これが、私が生きてきた証なのですから」
「では、ピアフと言う名字は……」
俺が言葉を濁すと、
「恩師が名付けてくれた、芸名です。本当は、ただのエステルとしか名前はありません」
庶民でも、母親が娼婦だった事もあるのか、エステルは相当の底辺のようだ。アイリスが一番頭を抱えている問題に、俺たちは直面している気がする。全国民に名字を。それが、アイリスの理想なのだ。
「複雑みたいだねー」
既にハムサンドを食べ終えたフランシスが言う。お前が言うと、一気に気が抜けるな。もっとも、それが彼の良いところでもあるのだ。
「ごちそうさま。相変わらず美味しいね。またモーニングもしようね」
「あ、あぁ……」
モーニングに味をしめたか。思わず言い淀んでしまった。すると、顔がばれている大女優は言った。
「気に入ったわ。お忍びで来ようかしら」
お読みいただきありがとうございます。
評価(下にある☆を★で埋める)、ブックマークの他、レビュー、感想等よろしければ書いてくださると幸いです。日々の創作の糧になります!





