第六十六章 誘惑
夕食が終わり、片付けられて行く食器を見ながら、皆好き好きな事をし始めている。フランシスは毛づくろい、オリヴィエとマウロは賭けポーカーを、アイリスは出されたココナッツを抱え、中身をストローで啜っている。
俺はどうするか……部屋に戻るか。
「じゃあ、俺は部屋に戻るよ」
そう言って、俺は立ち上がりリビングをあとにした。えぇ、と確かアイリスは一階が良いと言っていたから、俺は二階か。二階と言っても、中二階のようなもので、数段の階段を上った先にある扉を開いた。
広く縁取られた窓に、月明かりが寝台を統べる。その横に、手紙を書くくらいのテーブルと椅子がある。三畳程の、長細い部屋だ。
「ふぅ……」
小さくため息を吐き、俺は寝台に座った。慰みの酒でも、持って来るべきだっただろうか。
蟻地獄って、中身どうなっていたのかな……などと下らない事を思考する。そのまま砂に埋葬してしまった為、ついに本体を見る事がかなわなかった。この世界には携帯電話は無い。検索する事もできないのだ。初めは少し不自由に感じたが、今はもう慣れてしまった。
扉が開かれる音がしたのはその時だった。扉、と言っても階段に繋がる扉だ。俺の部屋に続くものではない。アイリスが、入って来たのだろう。
しかし階段を上る足音は、二階を目指している様子だった。やがて、
「シャルル?」
アイリスの声がした。
「は、はい」
「入っても良い?」
これは断れない事を知っている者の言い方だ。
「どうぞ」
と、俺は言った。
「ありがとう」
扉が開く。声の主は、やはりアイリスだった。
「どうしましたか?」
俺は尋ねる。
「ちょっと寂しくなってしまって……」と、アイリスはもじもじとし、「また、抱きしめて欲しいなぁ、って」
「な……っ」
思わず目を見開いてしまった。なんて残酷な事を言うのだろう。しかし、アイリスはそれを悪意ととる者がいる事を知らないのだ。だが、心の中でそれを喜ばしく思う俺もいる事も、確かなのだった。
「わかりました」
そう言い、俺は立ち上がってアイリスを腕に抱いた。初めて抱き締めたあの夕暮れ時と同じように、耳へ軽く息がかかる。
「もっと、強く……」
抱きしめて、と彼女は言う。甘えているのだ。それはわかるが、俺としては色々な意味で限界だ。ぎゅっと一度力を込めると、そうして抱く手を離した。もふもふに触れた幸せから、座りこもうとするアイリスを己の寝台に座らせ、俺はその隣へと腰かけた。
「ありがとう……」アイリスは俺を見た。「久しぶりのもふもふだったから、幸せだったわ」
「そうですか……」
俺は聞こえない程度のため息を吐いた。今までの苦悩はなんだったんだ。この世界にはもふもふ好きが多いらしい。
「二階だと、こんな眺めなのね」と、アイリスは言った。「今夜は月が綺麗だわ」
その言葉につられて外を見遣る。赤く燃えるような月だ。ストロベリームーンだろうか。それを、星々が包むかのように輝いている。
「そうですね」
俺は言いながら、アイリスの肩に手を回した。そのまま、彼女を引き寄せる。小さな息を飲む声がして、アイリスは動かなくなった。もふもふに安心したのか、それとも俺の事を……いや、これは考えてはいけない事だ、と、俺は頭を振った。誘いをかけたのは俺かもしれないが、例えアイリスがその気だとしても、俺は、臆病者の俺は、踏み出す事はできない。
「──姫様、」
と、俺はアイリスの肩を掴み、引き離した。
「シャルル?」
どうしたの? と、その瞳は問うてくる。心なしか、とろんとしているようにも見える。まさか……
「姫様!」
慌てたようにオリヴィエが俺の部屋に入ってくる。
「どうしたんだ?」
「お前の部屋にいたのか、良かった」
オリヴィエは肩で息をしている。
「なにかあったのか?」
と、俺が聞くと、
「姫様の飲まれていたココナッツジュース、中身が強い蒸留酒だったんだ」
「はぁ!?」
俺は声を張り上げた。
良く気がつかなかったな。そうか、態度がおかしいとは思った。しかし、アイリスも気がついていない様子だったが。それにしても酒に強いアイリスでも、あの抱える程の大きさのココナッツの実に入った蒸留酒には屈してしまった訳か。
ふと、傍らを見ると、寝息を立てて眠るアイリスの姿がある。赤らんだ顔は、闇に隠れわからなかった。
「お前も同罪だ。一階のお部屋までおぶって行け」
オリヴィエが、言う。はいはいわかりました。俺はアイリスの腕を持つと、軽く引っ張り上げ、彼女をおぶった。
「大丈夫か?」
「軽いもんだ」
と、俺は答える。そうしてオリヴィエが開けた扉を通り、一階に下りた。そこも彼が扉を開けてくれた。優しいです、隊長。
一階も二階と同じような作りで、アイリスを寝台に横たわらせる。めくった掛布をかけてやると、小さい寝息が返された。
「ところでお前、姫様となにやってたんだ?」
と、オリヴィエが詰めよってくる。
「いや、色々?」
「色々ぉ?」オリヴィエは言葉を継いだ。「お前なぁ、護衛の役割は姫様に悪い虫が付かないように見張る役目もあるのだぞ?! わかっているのか?」
「わかってるよ、隊長」
本当に良くわかってます。
「例え姫様から望まれたとしてもだめだからな」
と、釘を刺された。
「よし、俺はリビングに戻るぞ。七並べでもやろうかとの話も出ているからな」
これは来いと言う事ですか。
「わかった」
俺は頷き、リビングへの扉を開いた。
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