第五十三章 メル・ハプナ皇子二
翌日目覚めると、布団がないことに気がついた。目を凝らすと、四角い石壁に、目の前には格子があった。高い天井近くに取り付けられた窓から射し込む太陽の光に、ここが牢獄だと知った。
何があったんだ……。
呆然としていると、先に起きたのだろうオリヴィエが、壁に寄りかかり、なにか考えているように俯いていた。
「隊長、」
と、俺が語りかけると、
「あの皇子様の仕業だな……」
してやられた──そう呟いた。
他の銃士たちはいまだ眠っている。猫は眠りが浅い。持ち上げられたらそれだけでわかる筈だ。薬を嗅がされた、それしか考えられなかった。
そう言えば、アイリスの姿が見えない。
「姫様は?」
「わからん」オリヴィエは首を振った。「恐らく、皇子のところだろう」
アイリスになにをする気だあの野郎。
「あれ? え、ここどこ?!」
フランシスが目を覚まし、慌てたような声を上げる。牢獄にこだましたその声に、マウロも目覚め、己の身に起きた事に混乱している様子で瞬きを繰り返していた。
「俺はなにも壊していないぞ!」
格子に手を掴みかかり、マウロは叫ぶ。そう言えば、彼は酒場で酔っ払って椅子を破壊して一晩警備隊のお世話になった事があったな。
その時、こちらに近付いてくる二つの影があった。影の主は、俺たちが入れられた牢屋を目指しているようだった。
やがて、それは格子の向こうに立った。
「おはよう、猫さんたち」
アイリスを連れたメル・ハプナは、にやりと嗤った。アイリスは両手首を縄で後ろ手に縛られているようで、もがいてもその腕を掴んだメルによって、動きを抑制されている。メルはその耳に口を寄せ、
「変な事はするなよ。護衛を一匹づつ反逆罪で処刑するぜ?」
と、俺たちに見せびらかすように舌を這わせた。びくり、と、アイリスの肩が揺れた。
「あなたに、そんな力もないくせに……」
アイリスが小さな声で言葉を紡ぐ。その言葉に苛ついたらしく、メルはアイリスを無理矢理振り向かせると、唇を重ねた。
「き、貴様ー!」
と、俺は幸い取られてはいなかったレイピアを手に、格子越しに叫んだ。しかしレイピアは届く事はなく、剣先だけが宙を舞った。狭い牢獄の道で、ぎりぎりレイピアが届かない位置にいる。この青年、ただのお坊ちゃんではないのかもしれない。
やがて唇が離されると、アイリスは腰が抜け、床にへたりこんだ。しかしメルを睨み上げる瞳の炎は燃えてはいなかった。
「花嫁は少々口が悪いようだ」
アイリスを立たせ、メルは言う。
彼女は不意をつき、牢に頬をつけ、言った。そうしてなにかを牢の中に投げ込んだ。幸い、それはマウロに当たり、音を消した。
「みんな、待っていて! 必ず出してあげるから」
「姫様が俺の妻になったら出してやるさ」
と、メルはアイリスを引きずり、牢獄を出ていった。
二人が去ったのを見届けると、俺たちはマウロの回りに集まり、投げ込まれた物を見た。
「鍵……か?」
オリヴィエが言った。マウロが拾い上げたものは、鍵のようだ。
「ここの鍵かな」
と、フランシス。
「兎も角合わせてみるか?」
俺は言う。
「そうだな」
と、皆賛成し、格子の端にある南京錠にいれてみた。かちゃり、と音がして、なんと鍵が開いた。
「これって奇跡?」
フランシスが俺に抱きついてくる。痛い痛い。
「静かにしろよ」
オリヴィエが睨む。別に俺が悪いんじゃないのに。
格子の扉を開き、恐る恐る外へ出る。幸運な事に、牢獄は一階にあるようで、看守も居眠りをしている。
「──行くぞ」
オリヴィエの合図で、皆音もなく駆け、看守の前を通り過ぎる。
青い空が、そこにはあった。
「ここはどこだ?」
オリヴィエが呟く。中庭を囲うように部屋が並ぶ、宿泊した宿のような建物だ。
と、兵士が通ったので、俺たちは牢獄から二つ隣の部屋に飛び込んだ。
「牢獄の猫たちは?」
「寝てるだろ」
いえ、起きてすぐ傍にいます。むしろそのまま見つかるリスクを考えれば、レイピアで胸を刺すことも考えています。
まもなく兵士の足音が遠ざかる足音と共に、前を見た。窓の広い部屋だ。その中心にある寝台に置かれたクッションに埋まれるように座った、琵琶を持った、金の髪の女が怯える事もなく、俺たちを見ていた。しかも、
「まぁ、可愛いお客様だわ」
などと、全く疑わず、逆に声を潜め言った。
「すぐに出ていきます。メル皇子の部屋を教えて頂きたい」
オリヴィエが彼女に跪き、尋ねた。
「あなたたちは?」
と、優しげな声がする。
「皇子に大事な者を拐われたものです」
「そうなのね……全く。困ったものね。わかったわ。ここから丁度反対側の部屋よ。疑われないように、誰だか聞かれたらアージュ様の使いの者ですと答えると良いわ」
「わかりました。ありがたい」オリヴィエは立ち上がった。「行こう」
「あぁ」
皆で頷き、部屋を出た。と、その前に……
「感謝します。よろしければ、あなたのご身分などお聞きしてもよろしいですか?」
俺は振り返り、言った。
「アージュ・ハプナ。メルは私の息子ですわ」
とんでもない人だった。
「たまにはお灸を据えてやらないと、どんどんわがままになってしまうわ」
よろしくね、と、アージュは答えた。
「シャルル、なにをしてるのだ、早く姫様を救いに行くぞ」
外からオリヴィエの声がする。俺はアージュに軽く礼をすると、部屋を出た。
道すがら、やはり獣人は珍しいので、幾度か兵士に呼び止められたが、アージュの使いと言う言葉で、全て上手く切り抜ける事ができた。目指す部屋が近付いた時だった。
「うわぁ!」
と、言うメルの悲鳴が聞こえた。救うのは果たしてどちらの方だろう。
「姫様!」
と、俺たちがメルの部屋に入ると、裸になったアイリスが、腰布のみのメルにレイピアの矛先を向けていた。どうやら朝から情事でも決め込もうとしたようだ。それを拒んだアイリスが、レイピアを持ち出したと言う訳だ。
やはり強いなぁ。
「これで懲りたかしら? 皇子様」
と、アイリスは言った。
「ひぃ!」
先ほどの悪役じみた姿はなんだったと思うほどに、メルは怯えきっている。
「ちょうど良かったわ。シャルル、私の服を取って頂戴」
「は!」
と、俺は脱ぎ散らかされた服の中から、シャツとヴェスト、パンツを取り出し、アイリスに差し出した。
「ありがとう」
と、彼女は微笑む。そうして、服を着ると、寝台から下り、オリヴィエによって取り押さえられたメルの顎を指で掬い上げ、
「良い事? 皇子様。世界が全て自分中心に回っているとは限らないの。思い知りなさい」
「は、はい……」
「で、ここから出るにはどうすれば良いの?」
メルは震えた声で、
「ここは後宮だから、門がある。門番にはメル皇子からの呼び出しだった、とでも言えば道を開けてくれるだろう……」
だから助けてくれよ、と、情けなく彼は言った。
「わかったわ。ありがとう。行きましょう」
アイリスは踵を返し、部屋を出る。俺たちも続いて部屋から出ようとした時──
急に腹の当たりに熱を持ったと思った。不思議に思い、手をやり見てみると、赤い血が見えた。ふと後ろを見ると、メルが短剣を持ち、笑っている。その短剣の先に付いた赤いものは、俺の血だろうか。
「シャルル!?」
アイリスの声がする。
「俺を裏切った罰だ! お前の大切なものを傷つけてやる……」
慌てる他の銃士の声と、メルの狂気じみた笑い声が聞こえる。その他にも、彼の声を聞きつけ、駆けて来たものの声もする。勿論、アージュのものもだ。
痛い。俺、このまま死ぬのかな。
死んだら、絵美、お前に逢えるのかな。
そんな事を考えながら、俺は俺を取り巻く喧騒に身を委ねた。





