第五十二章 メル・ハプナ皇子
マウロを御者に、再び馬車は町の外を走り出した。
「砂煙は大丈夫か?」
と、オリヴィエが心配する。
「大丈夫さ、隊長」
マウロはマントに付けられたフードを目深に被り、言った。
宿屋から貰った地図を広げると、改めてイアフ帝国の大きさがわかる。この大陸の半分を閉める砂漠の帝国を治める者とはどんな者なのだろう。少し興味がわいた。
帝都へは、昼過ぎ頃に到着した。そこは活気のある城下町で、白い壁に、市場には色とりどりの果実や野菜が並んでいる。人々の往来も多いもののようで、人間は色々な皮膚や髪の色をしていた。
「隊長、宿を探すんだよな」
フードを取り、マウロは問うた。
「そうだな。御者を変わるか?」
「大丈夫さ」
本当にマウロに任せて大丈夫だろうか。
その時だった。
「すまない、少し協力してくれ」
と、一人の青年が、馬車へと乗り込んで来たのだ。おどろいて、マウロは馬車を止めた。青年は金髪の、焼けた肌に、瞳はオッドアイのようだった。彼は置かれた毛布に姿を隠し、息を潜める。
やがて複数の鎖帷子の音が聞こえ、青年が本当に追われていることがわかった。
「メル様! どこにおられますか?!」
一人が声を張り上げる。
「この辺りで見失った。市場の雑踏に紛れたか……」
そんな会話が聞こえて来た。
「一度城に戻るか。案外いらっしゃるかもしれない」
「そうだな……全く、この脱走癖はなんとかならないのだろうか」
先ほど聞いた声がため息を吐いた。
やがて、鎖帷子の音が遠ざかって行き、青年も毛布から顔を出した。
「いやぁ、ありがとう。助かった」
「お前はなんだ」
と、アイリスを背中に隠し、オリヴィエは耳を畳む。
「そう怒るなよ猫さんたち」青年はキョロキョロと辺りを見回し、「旅人か……ん?」
アイリスを見つけた。途端、狭い馬車の中を歩き、アイリスの手を取った。
「美しいな──俺の妻にならないか?」
なんだって?! 今こいつなんて言った? アイリスもおどろいて動く事ができなかったようで、しばらくの静寂のあと、頬を叩く音がした。アイリスが、青年の頬を張りとばしたのだ。
「無礼な! 私をなんだと思って言っているの!?」
シャルルとして初めて逢った時と同じ剣幕だ。やっぱり怖い。
「痛た……だが、それが良い。気高い女性は好きだよ」
「答えになっていないわ!」アイリスは声を張り上げる。「私はクォーツ国の王位第一継承者、アイリス・ド・ラ・マラン・クォーツよ!」
すると青年は笑い、
「良いね良いね、相性も良い。俺はメル・ハプナ。この帝国の第一皇子さ」
は? と言う疑問が、皆の脳内に飛び交う。皇子だって? なんでこんなところにいるんだ。そんな事を考えている間に、メルはアイリスの顎を掴み、口付けをした。
ななななにをしているこの野郎!
俺の尻尾が膨らむのがわかる。思わずはしたレイピアを抜こうとする手を、オリヴィエが制した。
唇が離れた時、再び頬を叩く音がした。
「強いなぁ、俺と結婚したら更に良い子供が生まれそうだ」
「私にはもう婚約者がいます、諦めて頂きたいわ」
「両国の発展の為だと言っても?」と、メルはアイリスを覗きこむ。「それに、婚約者なんて親が勝手に決めた者だろう?」
振っちまえよ、と囁いてくる。相手の力が強いのか、握られたままの片手が離れる事はない。珍しい。アイリスが押し負けている。
と、その時、
「我が国の姫様にこれ以上の無礼を働いたら、皇族とは言え手段を選びませんよ」
メルの脇を後ろから抱え込み、オリヴィエが言った。その言葉に、メルはオリヴィエを睨み、
「クォーツ国だかなんだか知らないが、ここは俺の国だぜ? 猫さんこそ立場をわきまえたらどうだ? 皇族に手を出したら速攻首と頭が皮一枚で繋がる事になるぜ」
「オリヴィエ、彼を馬車から引きずり落として」
怒りに震えながら、アイリスは言った。オリヴィエはそれに従い、メルを抱え上げる。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ、言っただろう? ここは俺の国だって」
「正確に言って下さる? 皇子様。あなたのお父様の国でしょう」
「……うっ」
それを言われたら反抗もできないと、メルはオリヴィエを振りほどき、馬車を下りた。
「覚えていろよ、必ずお前は俺の妻になるんだ」
「馬鹿ではなくて? さっさとさっきの護衛に捕まって王宮に帰る事ね」
馬車からメルを見下ろし、アイリスは言った。
「あ、あそこにいらしたぞ!」
すぐに護衛らしき声がする。
「メル様探しましたぞ」
「早くお父上の元へ帰りましょう」
「俺を子供扱いするな!」
メルの声が遠ざかる。やれやれ、困ったものだ。
「姫様大丈夫?」
座り込んだアイリスに、フランシスが声をかける。
「え、えぇ……」少し元気がない。「ファーストキス、奪われてしまったわ」
なんだと、許せんメル・ハプナ皇子。
「しかしおどろきました」
オリヴィエが言葉の紡ぐ。後ろで、御者席にいたため、なにもできなかったマウロが垂れ布をめくり上げ、うんうんと頷いている。マウロさん見ていたのですか。
「兎も角宿でも探すか」
オリヴィエが言った。
「了解、隊長」
マウロはそう言って、垂れ布を下げた。
再びガタゴトと音を立てながら、馬車は進み、やがて止まった。見えないが、宿に着いたのだろう。
ラークの港町と似たような造りの宿だ。中庭を囲うように部屋が並び、柱が天上を支えている。斜陽に照らされた部屋の中で、簡単な夕食を食べる。そうして昨日と同じような部屋割りで、俺たちは眠りについた。
深夜、俺たちを連れ出す者たちがいることも知らずに。





