第五十章 南十字星
「でも、良かったー。安心したよ」
運ばれて来た水を飲みながら、フランシスは言った。ほんのりとレモンの香る水は、身体に染み入るように、喉を下って行く。氷の入ったデキャンタごと主人が持ってきたので、表面が汗をかいている。
「ほら、もっと飲みなよ」
と、デキャンタを持ち、フランシスがアイリスのグラスに水を注ぐ。からん、と、氷が音を立てた。
「ありがとう」
アイリスは頬笑んだ。
「俺にもくれよ」
と、マウロが言う。フランシスが軽く舌打ちしたのを俺は見た。
部屋は狭いので、二人と三人で眠る事になったが、夕食は、一つの部屋で食べる事にした。
メニューは白身魚のフライや、鳥とピーマンの煮物、モロヘイヤのスープが出た。フライはどこかスパイシーで、煮物は唐辛子が入っているのかと疑うくらい、ぴりりと辛い。スープは香草が良い味を出している。初めて食べる味が多かったが、美味しいものが多い。
特に美味しかったのは、モロヘイヤのスープだ。ニンニクの香りが口の中を広がって行く。それが香草と重なりあい、エキゾチックな味わいだった。
「旨いな」
と、オリヴィエが魚のフライを食べて呟いた。やはり猫。魚好きなのだろうか。少し聞いてみたいな……しかしきっと「馬鹿じゃないか」の一言で片付けられてしまうのだろう。
アイリスは俺と同じく、美味しそうにモロヘイヤのスープを口へと運んでいる。
「美味しいですか? 姫様」
と、俺が訪ねると、
「えぇ、とても」
と、嬉しげな答えが返ってくる。良かった、仲間がいた。
夕食を終えると、別の部屋になったマウロとフランシスが出て行く。フランシスが少し寂しそうだったが、もし盗賊などがあらわれた時に、一番頼りになるのが俺とオリヴィエらしい。満場一致で決められた。
「じゃあ、おやすみ」
フランシスは寂しげに言っていた。
「おやすみなさい」
アイリスは言った。
「おう」
マウロが片手を上げる。
再び夜が来る。そう言えば、アイリスが前に夜が怖いと話していた。気がした。
「俺たちも寝るか」
と、オリヴィエがランプの火を吹き消した。とたん、辺りが闇に包まれる。俺が布団を被ろうとした時──
「シャルル、起きている?」
と、アイリスの声が聞こえた。
「起きてますよ」
彼女と同じように声を潜め、俺は答えた。
「星を見ない?」
と、アイリスは誘う。
「……良いですよ」
誘いを断れる筈がない。オリヴィエは起きているだろうが、あえて空寝を装っている。ありがたいのか、そうではないのかわからないが、兎も角姫様と二人きりにしてくれてありがとうございます。
俺は起き上がると、アイリスと共に外へ出た。
外は虫の声が響き渡り、時折涼しい風が吹く。それが植えられた草花を揺らし、蛍のような虫がふわふわと辺りを飛び交っていた。
中庭に出て空を見上げると、地上になにもない夜空は、星で満ちていた。天上に横たわるのは、天の川だろうか。
「綺麗ね……」
アイリスが言った。
「そう、ですね」
俺は答える。
この空は、隼人だった時分と変わることがないのだろうか。いや、ここは異世界だ。しかし、南十字星や、夏の大三角すら存在するこの空はどうだろう? あの頃と、全く変わっていない。
「シャルルは星は詳しいの?」
アイリスが無邪気に問う。
「ある程度の事は」
まさか前世で天文学部部長でした、なんて言えない。鼻で笑われてしまうだろう。
「じゃあ、南十字星と言うのはどこにあるの?」
「あそこの小さな四つの星がそうです」
と、俺は指差した。
「クォーツ国からは見ることができなくて、本で読んでいつか見てみたいと思っていたの。星に詳しい者がいて良かったわ」
そう言えば、北の大陸じゃ見た事がなかった。
「それは何よりです」
俺は礼をした。
「もう最後の大陸なのね……」
早いわね、と、ふとアイリスは呟いた。
「寂しいですか?」
と、俺が問う。するとアイリスは強がるように、
「少し、寂しいわ。道中色々な事があって楽しかったもの」
と、言った。確かに、楽しかった。この時間が永遠に続いたら良いと考えた事があった。一国の姫と、銃士と言う肩書きのみのしがない庶民が、共に旅をしたのだから。
俺は、この旅を永久に忘れないだろう。
「姫様、そろそろ」
と、俺はアイリスを促した。彼女は頷き、俺に従った。
「おやすみなさい、シャルル」
部屋に入ると、アイリスは布団に潜り込んだ。
「姫様こそ、おやすみなさい」
俺は言うと、目を閉じた。





