第三十五章 砂漠越え
馬の水分補給が終わり、馬車は再び走り出す。汗が毛の下の皮膚を伝うのがわかってきた。アイリスは手を扇のようにして扇ぎ、ため息を吐く。
「暑いわ……」
なんとか捻り出した言葉だろう。
直射日光が馬車の屋根に照りつけ、その中はまるでサウナだ。ちらと見た地面にサソリが這っている。外がどのようなものなのか興味本位で外を見てみると、あちらこちらに砂の窪みが存在している。蟻地獄の巣だろうか。
あまりの暑さに、誰もが言葉を失い、ただだれているだけになっている。その中で一人、馬を操り蟻地獄を避けながら進むマウロはさすがだと思った。
やがて、日が暮れて来る。それと同時に、今度は寒さが襲ってきた。砂漠の夜は寒いと、どこかで聞いたことがある。本当の事だったなんて。
「今日はここまでにしよう」
オリヴィエが言って、馬車を下りた。
「マウロ、大丈夫か?」
外から声がする。
「あぁ、どうって事ないさ」
良かった、死んでいたらどうしようかと思った。俺も馬車を下りると、そこは小さな泉のあるオアシスだった。少ない草地に、蘇鉄の木が生えている。
「兎も角、火でも焚くか。フランシス、馬車の中に木の枝があるだろう」
取ってくれと、オリヴィエが言う。
「はーい」
と、フランシスは答え、枝を差し出した。
火打ち石で火を起こし、馬にはオアシスの水をやる。アイリスがフランシスと共に下りて来、火の回りに座り込んだ。
夕食は、幾日か前にもらったパンの残りだった。幸い、腐っていない。腐りそうなパンを先に食べたのが功を奏したようだ。
「馬車の中で寝るのが一番です。火でサソリが近付く事はないでしょう」オリヴィエはアイリスにそう言うと、俺たちを見、「俺たちは交代で火の番だからな」
厳しいです、隊長。猫団子になっていたいです。
そうして真夜中、やはりアイリスの傍らで猫団子になって眠っている時、オリヴィエから呼び出しがかかった。
「シャルル、お前の番だぞ」
「わかった」俺がそう言って馬車を下りると、オリヴィエは未だ砂の上に座ったままだった。「隊長、眠らないのか?」
俺が聞くと、
「昼間に眠り過ぎてな」と、昼夜逆転している引きこもりのような答えが返ってきた。「なぁ、せがれよ」
オリヴィエが言葉を紡ぐ。せがれと言われる程歳は離れていないが、彼は時折そんな言い方をするのだ。
「どうしたんだ?」
俺は首を傾げる。
「いや、見上げてみろよ。星が綺麗だ」
案外ロマンチックな返答だ。
「そうだな……」
俺も夜空を仰ぐ。数えきれない程の星が、月を囲うように輝いている。町では建物が邪魔をして、見る事ができないが、砂漠では遮るものはなにもなく、ただ地平線に星空が広がっている。
あ、星が流れた。
「願い事でもしたか?」
と、オリヴィエが尋ねた。
「……忘れてた」
俺は苦笑する。
「俺も、若い頃はなにも恐くなかったさ。故郷で、友と流れる星を追って走った事がある」
「流れる星を追って?」
俺がおうむ返しに問うと、
「あぁ、そうだ。当然追い付く事はなくて、疲れて草の上に寝転がってな。笑いあった記憶がある」
「そうなのか」
俺は相槌を打つ。
「その友人の一人が、俺の妻──いや、何でもない」
今妻って言った。絶対に言った。
「奥方がいたのか?」
と、俺は詰め寄った。
「いる事はいた。死んでしまった。やはり病で呆気なくな」
あまり詮索されるのが嫌なのか、早口にオリヴィエは言った。
「……そうか」
誰だって詮索されたくない過去はあるものだ。俺も絵美についてはあまり触れられたくない。
「まぁ、俺は寝るぞ。お前で最後だからな」
「わかった」
俺は頷いた。
夜明けと共に皆が起き出し、残りのパンを朝食にしたあと、フランシスを御者に、オアシスを出発した。
「少し寝ていていいぞ、お疲れさん」
オリヴィエが俺の肩を叩く。
「ありがとう、隊長」
俺はその言葉に従って、馬車の中で横になった。瞼が重い。
「あ、あ、あー! 見えたよ!」
些か興奮気味なフランシスの声で目覚めると、皆が手前の垂れ布を捲り、前を見ていた。
「ほらシャルル、見てみろよ」
と、マウロが場所を開ける。
それに礼をして、前を覗きこむ。砂丘の向こう側に、白い屋根と海が見えた。
 





