Ⅵ
ガタン、と電車が揺れ、スピードが落ちた。電車が傾き、緩やかなカーブを曲がっている。車内には誰もおらず、光がサンサンと射している。窓からは、空しか見えなかった。電車はいつもの高台を走っていた。ヘンが小さく一つ、くしゃみをした。私は、手の甲で涙を拭った。
電車は暫くゆっくりと走り続け、じきに見慣れた駅で止まった。扉が開いた。立ち上がり、ホームに下りた。空気が肌を刺した。寒かった。とても寒かった。笛が鳴り響き、電車は再び動き出した。隣の車両から下りたらしい背広を着た男が、忙しなく私の横を通り過ぎた。私も歩き出した。
改札を抜け、階段を下りた。そのまま歩いてすぐ目の前の公園に入った。子供が多かった。公園を抜け、いつものように喫茶店と小さな本屋の前を通った。本屋の前でふと立ち止まり、中に入った。誘われたように思った。そこで、本を一冊買った。ああ、その著者は偉大なお仲間の一人です、とヘンが言った。本屋を出て、商店街を抜け、暫く歩くと、家が見えてきた。玄関の扉を開けた。靴を脱ぎ、青いマフラーを取った。母が台所から顔だけ出して、お帰り、と言った。
「早かったわね。お昼食べる?」
ウン、ただいま、と曖昧に答えて、二階へと上がった。紺色のコートとブレザーを脱いだ。ベッドに腰を下ろした。長い間、ぼんやりと壁を見ていた。
あのう、と控えめにヘンが言った。
「わたくし、お腹がすいてまいりましたが」
「そう?」
「ハイ、とてもすいてまいりました」
ヘンは、私の肩のあたりでもじもじとしていた。変な生き物だ、と思った。
「じゃあ、下に行きますか」
「ぜひ行きましょう」
と、ヘンは嬉嬉として叫んだ。
立ち上がった。確かに、お腹がすいていた。そう言うと、学びましたからね、とヘンは答えた。階下へ行き、手を洗ってから台所へ向かった。台所では、母がサンドイッチを作っていた。
「アラ、今食べるの?」
「ウン。ヘンの分も作れる?」
「いいわよ」
母は手際よくサンドイッチを作り続け、作り終えると、流れるように切り分けた。それが終わると、湯を沸かして茶を淹れた。
「ハイ」
二つの皿が私の前に差し出された。ヘンが嬉嬉として飛び下りた。早速、顔中を口にして、サンドイッチを頬張っている。
「小さいのに、よく食べるのね」
「ウン」
私も、一つつまんで口に入れた。
「学校はどうだった?」
と、母が茶を飲みながら言った。
「ウン、楽しかった」
「受験、終わったものね」
「ウン」
「これからは楽ね」
「ウン」
その時、ヘンが、顔中をモグモグと動かしながら、
「大変美味しいのです」
と言った。
「出来ることなら、同僚のために一つ二つ持ち帰りたいのですが」
「いいわよ」
母は立ち上がって、サンドイッチを作り始めた。私は、残りのサンドイッチを口に入れ、茶で流し込んだ。ヘンは、茶のカップに手を突っ込んで、温度を確かめた。すぐに自分ほどの量を飲み干した。
「これでいい?」
と、母が包みをヘンの前に置いた。包みは、ヘンよりも大きかった。
「大変ありがたいのです。同僚も非常に喜びます」
と、ヘンは叫んだ。
立ち上がって、皿を洗った。
「アラ、もういいの?」
「ウン」
「そう?」
「ウン」
台所を出ようとすると、ご親切は忘れません、と言う声がして、ヘンが包みを抱えて追ってきた。
「まだここにいてもいいのに」
と言うと、
「イエ、もう、十分に楽しんだのです」
と、ヘンは答えた。
母が、また来てね、と言った。
二階に上がり、ベッドに横になった。両手を頭の後ろで組んで、窓の外を眺めた。空が青く、胸に抉られるような痛みを覚えた。本当に、ヘンのことも、ヘンの言ったことも、あの建物のことも、あの少年のことも、学んだことも、たくさんの同胞たちのことも、私が空に属する種族であることさえも、忘れてしまうのだろうか。今日だけが特別となり、明日からは、また昨日のような日日が続くのだろうか、と思った。痛かった。ヘンは大切そうにサンドイッチの包みを机の上に置いた。それから私のところに戻ってきた。私を見ると、
「アレ、もう眠りますか」
と、驚いたように言った。
「まだ眠りません。考えているんです」
と答えた。
「眠ると忘れてしまいますよ」
「じゃあ、なおさら眠りません」
「でも、まあ、どうせいずれ眠りますし、忘れますから、今でもいいです」
「いえ、もう少し覚えていたいです。だから眠りません」
「では、話しますか」
「いいですね」
「何を話しましょう」
「何でもいいです。本当は、今日のことを忘れない方法を聞きたいけれど、どうせ無理だろうから、何でもいいです」
「確かにおっしゃる通りなのです。教えて差し上げることが出来ればいいのですが、実は、わたくしも知らないのです。大変残念なことです」
ヘンは申し訳なさそうに言った。私は、窓の外を眺めた。暫くしてから、
「でも、もしかしたら、思い出さない方がいいかもしれない。中途半端に覚えていると、同胞が懐かしくて恋しくて、多分とても辛くなります。思い出したいことが思い出せず、もどかしくなります」
と言うと、ヘンは、非常に理性的です、と妙に真面目な顔で頷いた。
「総じて、」
とヘンは続けた。
「真理は、特別な場合を除いて、完全に思い出せることは少ないのです。また、人により思い出し方や表現の方法が異なりますから、一つの真理に対し、いくつもの見解があるのです。それに、土の人人の解釈がつくと、よりいっそうややこしくなります。土の方の人人には、言葉の指し示そうとする真理ではなく、言葉の意味のみを表層的に理解するものが多いからです。また、非常に正確に思い出す幸運に恵まれた故に、不幸になった空の人人もいます。完全な真理は、土の人人には妄想と見えるのです。簡単に理解できぬのですから仕方がありません。ですから、本当は複数の空の人人が寄り集まった方が、真理はより正確に美しく真理そのものにより近い形で再構築され表現されるのです。しかも複数のものによりますから、土の方の人人もおいそれと妄想呼ばわりすることが出来ません。一安心なのです。でも、簡単には出会えぬのですから、仕方がありません……」
眠るつもりではなかったが、眠たくなってきた。ヘンの声は、今では変な声ではなく、心地よいすきま風の奏でる音楽のようだった。……ですが、万が一に出会った場合、なんとなく同胞であることは分かるものです。たとえ、忘れていてもです。そういうものなのです……ヘンの声は続いていたが、眠かった。抗ったが、意識が遠のいていくのを感じた。