Ⅴ
白いプラットホームに降り、人のいない改札を抜けた。すぐに山道に入り、上へ向かって真っ直ぐに歩いた。途中、大きなオオカミが目の前を横切った。美しかった。それは去り際に立ち止まって頭を下げた。嬉しくなった。私も頭を下げた。オオカミは笑った。私も笑った。ヘンは上機嫌で歌を歌い始めた。諸人こぞりて、だった。ただ、よく聞いてみると、諸人のところを、空人と歌っているのだった。
私は、ひたすら上へと歩いた。気付いてみると、細い山道の前後を、学生服の少年たちがポツリポツリと歩いていた。皆、陽気な変な生き物を肩に乗せている。一人と目が合った。少年は、困ったように鼻を掻いて笑った。私も頭を掻いて笑い返した。ヘンは相変わらず、楽しそうに歌っていた。
空人こぞりて、むかえまつれ
久しく待ちにし主は来ませり!
主は来ませり、主は来ませり!
暫く歩くと、山頂に着いた。そこは広く平坦で、真ん中に白い巨大な建物が建っていた。近代的な学校のような建築物で、しかも古い神殿のようにも見えた。背の高い立派な門もあった。あ、着きましたね、とヘンが叫んだ。
門を抜け、二階玄関口へと続く階段を上がった。重いガラスの扉は開いていた。そのまま、立ち止まらずに中に入った。天井の高いホールは、清清しく、ガランとしていた。確か二階か四階です、とヘンが言った。私は四階だと答えた。
ホールを左に行くと、突き当たりに広く長い廊下があった。薄緑の廊下を右に曲がり、真っ直ぐに歩いた。私の他にも、幾人かの少年たちが廊下を歩き回っていた。先程会ったような学生服を着ているのばかりではなくて、黒い肌の少年や、金の髪の少年もいた。妙に懐かしい人人だった。すれ違うたびに微笑を交わした。やはり、同族の仲間なのだと実感した。とても安心した。この感じを味わうことは初めてのことだった。嬉しかった。
長い廊下の突き当たりに、明るい階段ホールがあった。迷わず四階まで上った。四階の、広く長い廊下を右に曲がり、四番目の教室が、私が属する場所だった。
教室に向かって歩きながら、ふと、どうして私の場所を知っているのだろう、と思った。ヘンに尋ねると、学びに来たのだから当然です、という返事だった。
「そんなものですか?」
「そんなものです」
私は、少し考えてから、きっとそうなのだと納得した。結局のところ、自分の居場所を知っている理由などどうでもいいのだ。知っているということが重要なのだ、と思った。
四番目の教室に着いた。引き戸を開け、中に入った。教室は広く、明るく、アッサリとした空気に満ちていた。向かいの一面は大きな窓で、窓から見えるものは空ばかりだった。窓際に少年が一人いた。足を机の上に投げ出して椅子に座り、窓の外を見ていた。音に気付き、こちらを振り向いた目は緑色だった。少年は笑って手を振った。私も笑って手を振り返した。そのまま歩いていって、窓際の席に腰を下ろした。少年は、座ったまま身体をひねって手を差し出した。私は、その手を取って握手をした。少年が何かを言った。聞き慣れない言語だったが、よろしく、と言ったのだと分かった。私も、よろしく、と答えた。ヘンはヒラヒラと飛び上がり、やはりヒラヒラと飛び上がった少年の方の変な生き物と親しげに話を始めた。きっと同僚なのだろう。
少年と私は窓の外の空を眺めた。少年が、又何かを言った。不思議だな、と言ったのだと分かった。不思議だね、と答えた。少年は笑った。少年の言葉は意味を成さない音の連なりだった。きっと、少年には、私の言葉がそうだっただろう。ただ、心が通じていた。不思議だな、と言った少年の言葉には、百以上の意味がこもっていた。不思議だね、と答えた私の返事にも、百以上の意味がこもっていた。互いにそれを理解した。嬉しかった。少年と見る空は果てしなく青かった。ヘンが、同僚と愉快そうに笑っていた。
いつしか、取り留めもなく少年と話し始めていた。頭に思い浮かぶまま、疑問と思索とをひたすら言葉にした。少年は、ウン、ウン、と頷いた。ヘエ、そんなこと考えているんだ、とは言わなかった。代わりに、様様な思想が返ってきた。私とは違う思想だった。反論もあった。私の思索の流れを分かった上での反論だった。成る程、と思いながら話し続けた。そのうち、どうやら同じものを右上と左下から眺めていたのだと気付いた。ものの見方が違う、とはこういうことなのだと初めて知った。それは、相容れない、ということではなく、互いの視野が広がるということだ。思考の対象や物事の本質が何かを互いにきちんと分かっていれば、同意はなくとも思想の交わしあいは意味を成す。悲しいのは、対象も本質も知ってはいない事を知らない人人との交わしあいだ。討論ふうの虚しいやりとりは、何も生まない。時間だけ喰う。そういう時間は無意味で、そこはかとなく悲しい。何度か経験したことがある。これからも経験するのだろう。
少年も話し続けた。私は、ウン、ウン、と頷いた。私とは若干異なることを異なるように考えていて面白かった。少年との交わしあいは、楽しく、美しく、ほっとして、知らない間に涙が流れてきた。空や風に勝るものがあるとすれば、それは同胞だ。空に属していようが、自然現象に近かろうが、人間と生まれたからには、心通じ合うものと共に時を過ごしたいものなのだ。心の通じ合うものに出会えないから、そういうことを忘れる。人嫌いになる。無関心になる。益益同胞に出会えなくなる。私は、そういう悪循環の中に囚われている。少年がジッと私を見た。大変なんだね、と言った。ウン、大変だよ、と答えた。僕のところはそうでもない。羊も牛も案外僕の言うことが分かる。人人は、僕のことを分からないけど、嫌いではないと思う。そのうち僕のところに来ればいいよ。君一人くらい住む場所はある。裏に誰も使っていない小屋がある。あれをアトリエにしよう。そこで、二人で考えればいいさ、と少年は笑った。少年は、私の片割れなのだった。
「あ、時間のようです」
と、カン高い声がした。ヘンの声だと思った。が、振り返ると、少年の方の変な生き物が話していた。少年は立ち上がった。じゃあ、と言って少年が掻き消えると、広い教室には、私とヘンだけが残った。
「まったくもって、」
と、ヘンは言った。生き生きとした声だった。
「同僚とは素晴らしいものです。言葉を交わし、色色なものを分かち合うのです。ホラ!」
ヘンは嬉嬉として手を差し出した。緑色の小さな手のひらに、丸いチョコレートの塊が幾つか乗ってた。ひとつあげます、と言うので、一つつまんで口に入れた。甘かった。ヘンは、残りを口に放り込んだ。モグモグと顔全体を動かしながら、続けた。
「大変美味しいのです。実際に食べているので、その美味しさがよく分かります。先程の同僚がくれたのです。つまり、先程の少年が同僚に与えたのです。わたくし、みそ汁と牛乳を独り占めにしてしまったことを、心から悔やんでおります」
私が、でも、あれは液体ですから、持ち運びにくいです、と返すと、ええ、非常に不運なことでした、とヘンは神妙な面持ちで頷いた。
「説明しても、同僚にはなかなかその美味しさが伝わらないのです。一度も食したことがないので、その美味しさの判断基準がないのです。ですから、美味しさが想像しにくいのです。わたくし、説明に身振りと手振りも加えたのですが、言葉は非常に二次的なものであることを、痛感いたしました。しかし幸運にも、双方共、美味しいものは美味しいと知っていたので、一安心でした……」
私は頬杖をついた。窓からは空しか見えなかった。心地よかった。ヘンは嬉しそうに何かを喋り続けていた。いつの間にか、ヘンのカン高い声を、私の耳は、さりげない風音のように聞いている。
暫くしてから、ふと、ここがヘンのいう「学ぶ」ところなのかしら、と思った。そうならばよい。ここが学校だったなら、きっと、考えることを放棄しなくてもすむに違いない。私は、こんなに考えることが好きだったのか、と驚いた。もしかして、空の方の種族の特徴なのかもしれないと思い、尋ねると、ヘンはその通りです、と答えた。
「以前、あなたは考えぬという能力に欠けると申し上げましたが、それは、空の人人に考えるという顕著な特性があるからなのです。この種族の人人の頭は、考えることを止めません。全体的に、比重が上の方にかたより気味なのです。仕方がありません。空に近いわけですから。又、身体以外の成分が大気に近いですから、思考は広がり続け、止まることを知りません。そういたしますと、意識が大気により近くなって身体のことを忘れがちになります。身体活動の基本は食べることですが、そういったことも、勿論忘れます。人間である限りは、身体が生きているから考えられるのであり、食べられるから生きられるのですが、そういった構造には、少少無頓着になるのです。あなたを含む多くの空の人人が、食べることを忘れない能力にも欠けるのは、そういうわけなのです」
僕の思考は空を飛ぶ、と言ったのは、T君だった。でも、それは格好のいい意味じゃないよ、と言った。その言葉を聞いてT君がとても好きになった。思考が広がり、肉体を凌駕し、それでも広がり続け、吐き気がするときがある。意識はどんどん大気に近づき、思考は音をたてて三次元から四次元へと広がり、どうにもならなくなる。この頭が、そういうことを考えるには小さすぎて、叩き割ってしまいたい衝動に駆られる。身体が、すべて散り散りになってしまえばいい。そうすれば、思考は心置きなく空を飛べる。T君は、そういう意味合いを言ったと分かったからだ。それは、清清しくも格好よくもない。身体的な、ドロリとした苦しみだ。仕方がない。いくら空の方に属するとはいえ、私たちは完全に大気と同じものなのではない。生物なのだ。こういうとき、思考すら血を流していると、私は思う。
「多くの空の人人は、」
とヘンは続けた。
「身体的土的欲求に非常に率直に従うことにより、精神的空的欲求とのバランスを取ります。食欲や快楽欲を満たすとか、そういったことによって、意識を分散させるのです。言うなれば、空の人人は、地と糸で繋がった風船のようなものです。その糸が、土的な部分です。その糸が切れると狂います。ですから、その土的糸をサッパリとキッパリと認めることが健康的に空の種族でいることになるのです。又、そこが土の人人との接点であり、理解される部分となりますから、土大多数の社会でも、生きていきやすくなるのです。先程も言いましたが、土的な身体のうちでも、男性のものの方が、空的です。自由がきくのです。ですから、土的部分や行動さえやや空的であり、性質の矛盾に苦しむことが少ないわけです。それに対し、女性のものはより土に近いのです。何故かと言われても、構造的にそうなのだから仕方がありません。そういう理由で、空の種族の女は総合的に大変なのです。矛盾が大きいのです。バランスを取りにくいのです」
ヘンは気の毒がるように言った。言っていることは少し抽象的だが、要するに、女の身体は、男のものほど自由ではない、ということだろう、と思った。なにしろ、異なる生命個体を宿すよう出来ているのだから、仕方がない。サッパリとキッパリと認めるには、生物としての比重が、重過ぎる。子供でいられなくなるのならなおさらだ。そういうことだと理解した。
だが、私の場合、血を流す思考を止めてくれるのは、身体的欲求に従うことではなくて、純粋な自然存在を認識することだ、と思った。こと、空が青いのを見ると、突然頭ではなくて、心の方が忙しなくなり、切なくなり、いつのまにか意識が分散される。まあ、いいや、と思う。何だか苦しいけれど、とりあえずここに存在しておこう、という気持になる。それから、何か現実的なことを考え始める。今までの思索を、一応書き留めておこう、というような。そんな繰り返しで上手くバランスを取り、私という存在は生きている。ふと、そうだと分かった。単純であるにこしたことはないと、いつからか知っているのはそのせいだ、と。
ヘンが急に、あ、と言って動きを止めた。すぐにヒラヒラと飛び上がり、私の横に止まって、
「時間のようです」
と言った。すると、唐突に視界が歪み始めた。水に流れ融けていくように景色が透明に揺らいだ。その揺らぎの向こうに少年が通り過ぎるのを見た。次の瞬間、視界が開け、ある空間に居た。「ある空間」としか言いようがなかった。その「空間」は、天空のようでもあったし、海底のようにも感じた。視界は澄み、彼方まで開けているのだが、その見える景色は草原のようでもあって、砂漠のようでもあって、また遠い街並のようにすら感じた。上方には星空が広がっているように見えたが、砂嵐とも、プランクトンとも、街灯りとも見えた。「居た」と言うのは、地に立っている感じがしなかったからだ。かといって、宙に浮いているようでもなかった。大体、そこに地があるのかどうかさえ、よく分からなかった。完全な宙というには周囲の密度が濃厚すぎる。水に囲まれているようでもあるが、それでは周囲の透度が高すぎる。要するに、奇妙な空間だった。
その空間の中に、はっきりと確実な存在が二つだけあった。一つは、驚くほど巨大な樹だった。幹は太く、強く、限りなく古かった。上方に高く枝を伸ばし、下方に低く根を張っている。しかし、よく見ると、枝と思っていたものが根で、根と思っていたものが枝のような気もしてくる。どこが地でどこが天かよく分からない空間にいるから尚更だった。枝にも根にも葉のようなものが生繁っていた。はっきりと確実な存在ではあるが、要するに、奇妙な大樹だった。
もう一つは、老人だった。老人という言い方では物足りない程齢を重ねている、という印象の老人だった。髪もヒゲも白く長い。何処かで見た水墨画の仙人のように見えた。何処かで見た古代の哲学者像のようにも見えた。長い杖を持っていた。その杖は、錫杖のようでもあったし、単なる古い棒切れのようでもあった。目は閉ざされていて、同時に開いているようにも見えた。要するに、奇妙な老人だった。
不思議なことが始まったのは、次の瞬間だった。老人が口を開いた。音が空間に解き放たれ、それはやがて私の耳に届いた。音は急速に意味を成し、すぐに、真理が語られていると気付いた。時の流れの重なりや、人間存在や、虚の在り方や、人間の地球上での全ての営みの構造や、そういったことの真理が語られていた。何と素晴らしいのだろうと思った。真理というものの圧倒的な美しさを知った。純粋である、究極の美しさだった。真理というものに理由はなく、ただそうだからそうなのだ、とも知った。解釈は、人間の真理に対する行為であって、真理がそこに存在する為に必要なのではない。
恐ろしい程の量の、恐ろしい程美しい真理が、圧倒的な速さで、次次と語られて、老人の口から私の耳へと流れ込んできた。しかし、納得すると言うことと、記憶すると言うことは、どうやら同じではないらしい。真理は耳を通り、頭に到達し納得されると同時に消え去ってしまう。必死でそれらを覚えようとした。が、覚えようとする間にも次の真理が語られる。覚えている暇が無かった。それを記憶という中に模写をしている時間がない。一つの真理を反復しようとすると、次の真理を聞き逃してしまう。しかし、ただ忘れてしまうのはどうしても勿体無い。必死で、頭の半分で聞くことに専念し、もう半分で覚えることに専念した。暫くの間躍起になって、老人の淡淡と語る速さと戦った。が、語られるスピードは、私の記憶するスピードよりも遥かに速い。到底かなわない。到底間に合わない。そのうちに、記憶することを放棄した。耳に到着した美しい真理の美しさに、畏れ、感嘆するに身を任せた。辿り着いた真理が、私の頭に理解されては、雪のように融け去っていく、そのままにした。……美しい。美しい。美しい……。
やがて疲れて、ゆっくりと眠りに落ちた。届けられた真理を聞き取るのに頭をフル活動させていたのだ。頭の活動が、これ程までに体力を消耗するとは知らなかった。真理はそこにあることに疲れはしない。真理を相対的に認識する存在だから疲れる。やはり私は人間という生き物なのだ、と思った。
気付いた時には、先程の教室に居た。机に突っ伏して眠っていたのだった。ヘンは私の肩のあたりで眠っていて、小さなイビキをかいていた。見回すと、教室には先程の少年がいた。窓際に座り、足を机の上に投げ出して窓の外を見ていた。窓の外というのは空で、空はやけに青かった。少年は、私が起きたのに気付くと、こちらを見て、やあ、と言った。同時に、少年の肩にいる変な生き物が、小さなくしゃみをした。
何を学んだ? と少年は尋ねた。少し考えてから、確か時に関することだな、と答えた。僕もだ、と返ってきた。存在の認識に関する虚と実とか、そういうこともだ、と少年は付け加えた。ウン、と私は頷いた。僕達がさっき話していたことの答えが全部あった。成る程と思ったのを覚えているから間違いない。アレ、よく思い出せるね、と尋ねると、少年は首を横に振った。どうやら私と同じ状態であるらしかった。漠然とした内容とその圧倒的な美しさと、納得した時の感動は覚えているが、真理そのものをきちんと思い出すことが出来ないのだ。あれ程の美しさを思うと、あの真理の群が、ただ消えてしまったのは、残念でならない、と思った。すると、
「それは違うのです」
という、ヘンの声がした。ヘンはヒラヒラと飛び上がった。目を覚ましたのに、気付かなかった。
「学んだことは、消え去ってしまったのではないのです。今、咀嚼され、体内に吸収されているところです。ですので、落ち着けばそのうち追追思い出します」
ヘエ、それはいいや、そのうち、っていつ?と少年が言った。
「さあ」
と、ヘンは答えた。ヘンの同僚が言葉を続けた。
「個人によって異なりますからねえ。すぐにいっぺんに思い出す人もいれば、ポツリポツリと長年かけて思い出す人もいます。その中間の人もいます。性格によるのですねえ。また、環境によっても異なりますから、いつとは分かりませんねえ。死ぬまで思い出さない人もいますからねえ」
思い出さないのは、勿体無いです、と言うと、しかし、全ての空の人人が、思い出す機会に恵まれているわけではありませんからねえ、とヘンの同僚は続けた。ヘンが言葉を継いだ。
「全くその通りなのです。与えられた真理とはひどく無縁の生活を送っている空の人人はたくさん居るのです。残念なことです」
どうして思い出さないのさ、と少年が尋ねた。不満そうな声だった。
「運です」
「運です」
カン高い声が同時に答えた。ヘンが続けた。
「本来共にあるべき同胞と回り会ったり、与えられた真理に適した才能と機会に恵まれたりする、そういう人人の方が思い出しやすいのです。又、時代や生まれた環境との相性もあります。やはり、全体的に適した時と処にいる方が思い出しやすいわけです。そういうことは、運によります。ですから、思い出す、思い出さないも運によるのです」
少年は顔を顰めて私を見た。じゃあ、僕らはどうしても、運に頼らずに会わなけりゃ、と言った。私もそう思った。帰ったら、すぐに裏の小屋をアトリエに改造しよう。君は、僕の顔を見て、忘れるな。絶対に忘れるな。北だ。僕はそこにいるから。君が僕を探し出せ。僕はそこにいるから。
「ああ、なんという決意!」
とヘンの同僚が叫んだ。感嘆の声だった。
僕らは、一番美しかった、時と人に関する何かを描きだそう。きっとそういうことが出来る、と少年は続けた。そうだ。もしも、人に生きる目的があるとするなら、私のそれはこの少年と何かを創りだすことだ。広がりの止まらぬ思考は少年のそれと合わさって一つの真実に辿り着く。私は手を差し出した。少年はそれをグッと握った。ひとのたましいに片割れがあるならば、私のそれはこの少年だと知った。私の創作欲は強く激しく、少年の意志は強く固く、私たちのたましいは一つだ。
「きっと会おう」
と少年は言い、
「勿論だよ」
と私は答えた。
素晴らしい響きあいです、とヘンは涙を流した。心を打たれますねえ、とヘンの同僚も涙を流した。ヘンは続けた。
「叶わぬかもしれないだけに、より一層悲壮感に溢れ、感動的です」
そうなのだ。この白い建物から出てしまえば、私は私の日常に戻り、少年は少年の日常に戻る。そして、
「本日の出来事は、本日の日が落ちると同時に記憶の底に沈みます。わたくしに会ったことも、この建物のことも、学んだことも、同胞のことも、あなたが空に属する人人の一人であることすら、明朝には覚えていないのです。覚えていることが出来れば、多くの空の人人の生き様は、少しだけ楽になるのですが、仕方がありません。そうと決まっているのです。お気の毒です」
と、ヘンが言うように、私は少年のことを、少年は私のことを忘れる。そういうことをなぜか漠然と理解していた。それでも私は少年を見つけ出すことをしよう。そういう決意を心臓に深く刻みつけておこう、と強く思った。少年の方がより苦しい決意を申し出ている。少年は私を待つという。
「全くもって、」
と、ヘンの同僚が言った。誇らしげな口調だった。
「空の人人にとって、一ッ処にただ止まっていることは、何よりも耐えがたい苦痛ですからねえ。それ故、そういうことをする能力のある土の方の人人に少なからず尊敬の念を覚えるのですねえ。しかし、それを決意する空の人は、より一層の賞賛に値します。素晴らしい同胞愛ですねえ」
ゴールが動かない方が、探求は易いだろう。僕が君を探すことも出来るけれど、君は動かないことをしない方がいい。君の今いなければならないその場所で、それ以上苦しむことをしなくてもいい。僕は狂うものか。君が辿り着くまで、そこに居よう。そうして、僕らは、あの美しい真理を必ず思い出そう。少年の言葉が、心臓に深く響いた。
ちゃちなロマンティシズムと笑うものは笑え。夢物語の実の無い苦しみと、嘲るものは嘲ればいい。あたりまえの日常の営みにのみ、痛みは実としてあるのではない。空に属する私たちの、空虚に見える世界にも、身体を突き刺すような痛みはあり、その中で心は血を流しもする。
私は、忘れるもんか、絶対に探し出す、と言った。生きてやる、と強く思った。あの美しい真理は思い出され、形にされるべきだ。私は、それをやらなければならない。それが、私の生きる意味だ。
「北だね」
「ウン、北にいる」
そう言って、私たちは力強く笑いあった。
「さあ、他の同胞に会う時間です、」
と、ヘンが言った。
「行きましょう」
少年も私も立ち上がった。ガランとして清清しい教室を後にし、屋上へと向かった。少年は歩きながら、僕は学校のグラウンドへ行く途中だった、君は、と尋ねた。私は、学校から帰る途中だった、と答えた。空の人人は大抵一人で歩いていますから、ここにやってくるのは大変楽です、とヘンが言った。
「たまに、たくさんの土の人人に囲まれている人を迎えに行く場合があります。そういう場合は、なかなか撒くのが大変です」
へえ、そんな人もいるんだ、と少年は言った。
「気の毒なことに、いるのです。たまたま、そういう環境に生まれてきてしまうからです。そういった場合、空人の意思に関係なく土の人人は囲みます。土の人人の中には、どういう訳か空の人の孤独の匂いに惹かれ、側に居たがるものたちがいるのです。孤独に惹かれるのですから、側に集まってしまっては本末転倒なのですが、そういうことは気にしないようです。好意である場合が多いのですが、心の通じぬものからの好意は、少少一方的ですので息苦しく、そういう中に孤立した空の人の孤独感には並並ならぬものがあります。しかも、そういう孤独は安らぎではないので、大変です。本来の安息の孤独が奪われた上、四方八方を好意によって塞がれていますから、たまらなくなりふと命を絶つ人もいます。純粋な拒絶反応です」
ヘンと私と、ヘンの同僚と少年とは、階段を上り、屋上へと続く鉄の扉を開けた。
「ですから、やはり集うのなら、同胞と集うのが一番です」
と、ヘンが嬉しそうに付け加えた。
「サア!」
目前に広がる屋上には、数多くの同胞がいた。一面見渡す限り、空に属するものたちなのだ。それぞれ、笑い合い、語り合い、互いの思想を交し合っていた。私たちの生きがいは、考えることだ。真剣に様様な真理を求めることだ。それぞれに求める真理は異なり、故に学んだ真理も異なり、その表現するやり方も違う。ただ、私たちは根本が同じだ。知識や解釈や、誰かによって考えられたものの伝達などには興味がなく、自らが経験することと、自らで考えることとを止めることが出来ない、そういう生き物だ。真理と思考とが生み出す芸術とか定理とか、そういうものを形作らなければならないと感じ続ける生き物だ。肉の愛や種の存続よりも、自然現象や真理の探求に心を奪われる生き物だ。私たちの種族は、何千年もの昔から、時にひっそりと、時に華やかに生きてきた。ただ、今はことさら、私たちの生きていきにくい時代だけれども。
「君たちの専門は?」
と言いながら、黒い肌の少年が寄ってきた。
「時だな」
と、私の相棒が答えた。私は頷いた。
「君は?」
「空間美だ」
「へえ」
「あいつとあいつもだ」
と、黒い少年は、遠くの二人を指さした。二人は気付いて手を振った。一人は、少女だった。嬉しかった。
「あそこらへんの奴らは、数だし、あっちは、身体を動かすことの仕組みをよく知っている」
「僕は戦術だ」
と、別の少年が言った。見覚えのある制服を着ていた。
「時代と場所と、相性が悪かった。折角素晴らしい真理を学んだけど、思い出す機会は無いかもしれないな」
鼻の頭を掻きながら、その少年は言った。
「大変そうだね」
と返すと、
「君もだろう」
と、少年は笑った。私も笑った。私たちは、生きていく辛さには無頓着だ。辛くて当たり前だから、嘆くだけ無駄だと分かっている。私たちが孤独を愛しむのはそのせいだ。辛さは孤独で癒やすことができる。
が、
「……僕らが、集うことが出来たなら、どれ程素晴らしいだろう」
と、私の相棒がポツリと言った。私も強くそう思った。
「今までにも、」
と、ヘンが言った。
「幸運にも、後後集うことが出来た人々はおります。そういった場合、大抵素晴らしいものを生み出しているのです。勿論、個個で美しいものを生み出した人々もたくさんおりますが、やはり同胞と集うにこしたことはありません。勢いがあります。幸せ感が違います。少少土の方の人々が混じっても安心です」
ああ、本当にこの同胞たちに出会えればいい。その先にあるだろう可能性と充実を思うと心が震えた。屋上にいる全ての仲間が、愛しくてならなかった。
「僕らは、会わなくちゃならない。そんな気がする」
と、私の相棒が言った。
「そうだね。そんな気がする」
と、私は答えた。周りにいた幾人かも頷いた。私たちの絆は深い。
その時、ヘンをはじめとする変な生き物たちが、一斉にヒラヒラと舞い上がった。舞い上がったかと思うと、光を放ち始めた。すると、今まで青く明るかった空が急激に黒味がかって、ヘンたちの放つ光が、星星のように見えてきた。アレ、と思い下を見ると、そこには既に屋上は無く、私たちは皆、大気の際に漂っているのだった。眼下には雲と海と大陸が広がり、上には黒い宇宙が広がっていた。皆、声も無くそこにあった。疑問も抱かず違和感も覚えず、同胞と共にその空間にあった。果てしなく孤独であり、そして限りなく心穏やかだった。私と同胞とそのあたりの大気とは同じものだった。涙が流れ、見渡すと仲間たちは皆涙を流していた。私たちは、どうしようもなく空に属するものたちだ。
次の瞬間、ヘンが私の肩に戻ってきて、私の身体はものすごいスピードで動き始めた。驚いて、慌てて上の方を見ると、幾つもの光が、散り散りに、流星群のように地上へと向かって進んで行く。私も、その光の一つなのだと知った。ヒュウッと音を立てて、私は地上へと戻った。それが、同胞とのあっけない別れだった。