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 ホールを右に行くと、突き当りは長い廊下の始まりだった。茶色い廊下を左に曲がり、真っ直ぐに歩いた。廊下には、沢山の黒い人影が屯していた。そのうちの一人が、おはよー、と言った。私も、おはよー、と返した。廊下の右手は教室群、左手は長い窓で、窓からは中庭が見えた。途中、黒い学生服にぶつかった。すいません、と言うと、舌打ちを返された。

 長い廊下の突き当りを左に曲がり、一番目の教室が、私のいるべき場所だった。引き戸を開け、中に入った。教室は騒がしく、いつも以上に浮かれた空気に満ちていた。向かい側に窓があり、窓からは中庭が見えた。その窓際に、私の座るべき席があった。いつものように席へと向かった。途中、マフラーを取りコートを脱いで、壁に掛けた。席につき、机の横に鞄を掛けて、腰を下ろした。頬杖をついて、窓の外を見た。ヘンが肩のあたりをぴょんぴょん飛び跳ねながら、見事です。見事に土の方の人々で一杯です、と興奮気味に言った。なるほどそうだな、と分かった。

 誰かが、

「久し振りィ」

 と肩を叩いてきた。振り返って、私も、

「久し振りィ」

 と答えた。

「ケータイのほうありえないし自分自身ってゼンゼン思うわけ?」と、言ったので、

「そうだねえ」

「やっぱりねぇ」

 その人は楽しそうに笑った。私は、ウン、ウン、と頷いた。

 何を言っているのかはサッパリ分からなかったが、そんなことはたいした問題ではなかった。やがて、誰かもう一人が、

「今さえよければ私らしさで楽な感じよ」

 と話し掛けてきて、二人は大笑いをした。私も合わせて笑った。二人はとても楽しそうに会話を続けた。私は、窓の外に目を戻した。ヘンは私の肩に留まって、二人を眺めているようだった。

 しばらくすると、教室の前の戸が開いた。教師が入ってきた。起立、と誰かが言い、全員が立った。続いて、礼、着席、と声がして、皆がそれに従った。私もそうした。

「受験の終わった者も、真っ最中の者も、結果待ちの者も、お疲れ様。今日は、出欠をとって、諸連絡をして、それだけだ。しかし、皆、学校がないからといって羽目を外さないように。特に、もう受験が終わった者は、解放感から軽はずみな行動をしがちだから、気をつけるように。ホームルーム修了後、合否の出ている者は、私に報告に来るように。じゃあ、A」

 ハイ、とA君が答えた。

「次、A」

 ハイ、と別のA君が答えた。

「ああ、大変残念なことです」

 と、ヘンがつくづくと言った。何が、と聞くと、あの人のことです、と教師を指さした。

「囚われています。危険です」

「A」

 ハイ、と違うA君が答えた。私は教師の分厚い眼鏡を見た。

「いいですか、」

 とヘンは続けた。

「人生を一本の長い線とします。人々はそれを一定方向へ向かってズンズンと進んでいくわけです。一個体が、全体的に総体的に絶対時間に沿っていくのです。しかし、時折、精神の方だけ滞る人がいます。滞ったまま、しかし実際物質的時間は進んでいくのです。そういう人は歪みます」

「A」

 ハイ、とA君が答えた。

「歪んだ上、絶対時間を認識することが出来なくなります。ある一定期間の先に、さらに時間が続くことを理解出来なくなるのです。誰もが若い頃に一度は陥り得る現象ですが、いつまでも囚われているのは大変危険です。歪みはいつか跳ね返るものです。わたくしが思うに、この建物に、こと精神的成長を止める作用があるようです。そして、大変残念なのは、」

 と、ヘンは厳粛に言った。

「そういう人々に指導を受けた人々は、大抵同じ道を辿るということです。一つの行き先しか知らない案内人が導く先は、たった一つなのは当たり前ですが、非常に不幸なことです」

「A」

 ハイ、と別のA君が答えた。

「若き日々と言うものは、大変居心地が良く美しいものですが、それを人生の目的とするのは、大変寂しいことなのです。美しいものは楽しんで、過ぎ去るべきなのです。過ぎ去れば、次の美しいものへと進みます。その繰り返しが人生です。少々、いろいろと痛むこともありますが、痛む方が健康的なのです」

「A」

 ハイ、と違うA君が答えた。私は教師の分厚い眼鏡を見た。その時、教師の眼鏡が鈍く光って見えた。ぞっとした。

 ヘンはそれきり黙ってしまった。その時、クラスメイトは皆、何故か浮かれていて、教室にはその騒々しさが抑圧されたような静けさがあった。何かが内側にどろりと凝縮されたような静けさだった。慣れた静けさであるはずが、その時、突然違和感を覚えた。

 が、そのうちに私も名を呼ばれ、いつものように、ハイ、と返事をして、その違和感を振り払った。

ホームルームが終わり、いつものような騒めきの中、大学合格を教師に報告した。

「良い大学じゃないか。よくやったなァ。おめでとう」

 教師は笑ったが、私は笑わなかった。何がめでたいのか、よく分からなかった。何科だと問われたので、歴史科だと答えた。

「そうか。イイね。らしいね。合ってる」

 はあ、と答えた。

 しかし答えながら、その時ふと、そうか、私の人生は歴史科を終わった後も続くのだな、と思った。とすると、今の私は、出発点となる決断をするべきで、こんなふうにひたすら先送りのままでは、これから過ぎ去ろうとしている目の前の四年間が、どうしようもなく空しくなるに違いない。

 ならば、今言われるべき言葉は、おめでとうでも、らしいね、でもなく、目を覚ませ、ではないだろうか。成長に抗っても、現実から目を背けても、時は私を置いてはいかない。しっかりしろ。覚悟を決めろ。そうだ。今の私には、そういう罵倒が相応しい。そう思った。途端に心がひやりとした。奇妙にいたたまれなくなって、助けを求めて教師を見た。しかし教師は笑ったままで、分厚い眼鏡の奥は見えなかった。

「大変お気の毒です。お察しします」

 と、ヘンがポツリと言った。

 教師に軽く頭を下げて、席に戻った。途中ちらと振り返ると、教師は、今はA君に笑いかけていた。A君は心から幸せそうに言葉を発しているように見えた。心臓のあたりが痛んだ。何故かはよく分からなかった。そこにある白昼夢は生臭い、と思った。

「気付かぬという能力は、時に非常に有効です。上手くいけば、滞った精神に気付かぬまま、その場しのぎの人生を渡りきります。成熟はしませんが、そこそこ平穏な場合が多いのです。時に未成熟と歪みが犯罪を引き起こしますが、当人は平穏なのです。残念ながら、あなたにはこの能力はありません。空に属しますから。気付かぬフリは出来ますが、そうしますと、苦しみます」

 ヘンは申し訳なさそうに言った。だしぬけに、時の流れというものの、どうしようもない絶対性と、「人」というものの、どうしようもない難しさを感じ取った気がした。背筋がひやりとした。堪らず窓の外を見た。幸い、空が青かった。

 急に心が軽くなった。何とかなるだろう、今は、ヘンもいる、と思った。コートを着てマフラーを巻いた。鞄を持って教室を出た。

 いつものように廊下を歩き、ジュースの自動販売機の前を通った。ヘンが興奮気味に、あっ、と叫んだ。ヒラヒラと飛び上がり、そちらの方へ飛んでいった。

「あのう、」

 私を振り返って、控えめにヘンは言った。

「わたくし、喉が渇いてまいりましたが」

 牛乳を買い与えた。すると、自身で選んだくせに、とても偽物くさい味です、とヘンは文句を言った。仕方なく、別にイチゴ味の牛乳を買い与えた。それは気に入ったようだった。ヘンは、潔い偽物感でクセになる味わいです、悪いものは潔く悪い方が美味しいのですと言って一気に飲み干した。もう一本買ってやった。ヘンは嬉々としてストローを吸っている。緑色の変な生き物だが、案外好ましいものかもしれない、と思った。

 通りすがった生徒の幾人かが、奇妙なものを見るように私を見た。ふと、ヘンの姿は、他の人間にも見えるのかしら、と思った。尋ねると、いいえ、普通は見えません。同様の通告を受けている空の人々だけです、とヘンは答えた。

「うちの母は?」

「食事をくれる人なので、特別です」

 ヘンは、小さなゲップをした。それから、まあ、見ようと言う気になれば土の人々にも見えますから、と付け加えた。イチゴ牛乳を飲み終えると、じゃあ行きましょうか、と朗らかに言った。

 昇降口を抜け、階段を下りた。校舎から離れ、校門へと歩いた。途中に大きな欅の木があった。スラリと枝を上方に伸ばした、とても美しい欅の木だった。この学校を後にすることには何のためらいもなかったが、この欅を毎日見られなくなるのは残念だ、と感じた。一寸立ち止まって、ジッと眺めた。眺めると、やがて確実に来る別れがいっそう惜しくなった。

 と、突然後ろから声を掛けられた。振り返ると、級友の一人が立っていた。確か、B君だか、C君だか、D君という。

「俺、今話したいきぶんで」

 と微笑みながらB君は言った。

「せっかく思い出したことがあるからやっぱり」

「ああ、うん」

 と返事をすると、

「何か良いかんじ?」

 と尋ねてくる。

「ああ、うん」

「やっぱり俺と同じカンジだ」

「そうだね」

「いつもそういうことってタイセツじゃない?」

「そうだね」

「俺は俺だけでトクベツな俺だし」

「そうだね」

「やっぱ思い出作りって後悔しないため?」

「うん」

「だよね。で、どこ行く?」

 ヘンが肩のあたりで、

「だめですよ、今かから学びに行かねばなりませんから」

 と言った。もう行かなければならないと告げると、

「……それ、よくわかる。君も俺も、むしろ個性的だし?」

 と、D君は悲しげに答えた。それから、

「でも、つまらないことがスゴク大切だってことも知ってる」

 と続けた。

「ああ、うん」

「で、一緒に駅へは行けるの?」

 と微笑みながらC君は言った。

「ああ、うん」

 C君は、駅までの道のりを陽気に喋り続けた。その陽気さは、ねっとりとしていた。そのうち駅に着いた。改札を抜けたあたりで、B君は、

「じゃあ、絶対タイセツにするから、忘れないで。いつでも応援してる」

と締めくくって手を振ると、右側のホームへ下りていった。

 私は左側のホームへと下りた。電車を待っていると、

「好意を抱かれているようですね」

 と、ヘンが言った。

「へえ、そうですか」

「そのようです。大変、無謀なことです。もう少し、見る目があってもよさそうなものです。まったく気の毒な方です」

 ムッとした。やはり失礼な生き物だと思った。私だって誰かに好かれてはいけないということはあるまい。もしかして、ある日突然私の方もD君に対しそんな心持になるかもしれない。そう言うと、ヘンは大声をたてて、さも可笑しげに笑った。

「大変なカン違いです」

 ヘンはさらに体をよじりながら笑った。本当に失礼だと思った。

「元々、空に属する人々に理解し難いものが、そういった類の感情なのです。男女の愛や恋といったものです。それらは、非常に土的な現象なのです。好奇心や生物的必要性から、興味深い分野であると判断し、そういった現象に身を投じたりする空の人々もいますが、大抵上手くいきません。空の方の人の興味や愛情が続き、上手くいく場合もごく稀にありますが、その場合は、大抵相手の土の方の人が、驚くほど寛容であるようです。しかし、そういう寛容さは土の方の人々に稀ですので、やはり空の人々は、そういったことに疎遠なのです。一人で自然と戯れるか、同胞と共に自然と戯れるかが好きなのです。仕方がありません。そういう性質なのです。向き不向き。適材適所。それで良いのです。無理強いはよくありません」

 ヘンの言うことは、いちいち思い当たるフシがあり、バツが悪い。確かに興味が無いことも無いが、あまり正確に理解できないのがそういった感情なのだった。しかし、簡単に認めるわけにはいかない。イヤ、私にも、顔を見るとわけもなく嬉しかったり、近寄ると胸が高鳴ったりするような人が一人だが居たことがある、と反論した。が、

「明らかに同胞愛です。空の人々の同胞愛は非常に強いですから」

 と、あっさりとヘンは返した。その証拠に、その気持は、自然現象や風景に対する気持と同種類のはずです、と続けた。

「元々、空に属する人々は、身体以外は大気や自然現象に近いのです。雲や、雪や、風や、嵐や、そういったものの方により共感出来るのです。当然です。同じような成分でできているのですから」

 そう言われてみれば、確かに、同胞だと思われるN君やM君に対する気安さと、木木を抜ける風に感じる気安さはとてもよく似ている。特別に好きだと感じたT君への思い入れも、空を思うそれと同じだ。そうと気付くと、そうか、T君も同族だったのか、そうか、そんなものか、とあっさり納得した。

「それが、空の人々の思いの在り方であり、行方であるのです」

 じゃあ、そういった好意に興味がなかったり、そういう感情が理解出来なかったりしていいのか、と尋ねた。

「良い、悪いではありません。単なる性質の違いの問題です。例えば、あなたは欅の木に非常に心を動かされますが、土の方の人々は、そういったことに比較的無関心な場合が多いのです。同じことです」

 成る程、と思い、嬉しくなった。欅に対する思い入れならば、確かによく分かる。ならば、感情がないだとか、人非人とか、心が冷たいとか、そういう私の今までの悪名は、今後是非返上しなければならない、と勇んで言うと、意外にもヘンは、

「何ですって!」

 と深刻な様子でキーキーと腹を立てた。

「そういった意見は、全くもって土の人々の勝手な意見です。多数は多数なだけであって、真理ではないのです! 人非人! 何たる侮辱! 感情がない! 何たる無知! 肉の愛欲のみを愛や感情とする実に土的な偏狭さが窺える意見です!」

 ヘンは怒りで、黄緑色になった。

「例えば、果てしない草原を目の前にした時の心の震えや、風にざわめく木々の緑を見た時の心臓を潰されるような愛しさの痛みと、一個の人間を愛しいと思う気持とは、まったくもって同質のものです。夏雲の湧き立つのを見て心躍るも、恋のやり取りで心躍るも、変わりはないのです。又、空の人々の愛しむ心は、対象こそ違え、土の人々に負けず劣らず深いのです。まったく、空の人々が、そのように間違った理由により侮辱を受けるのは、わたくし我慢なりません!」

 私の肩のあたりで地団太を踏みながら、ヘンは叫んだ。嬉しいことを言う、と思った。ならば、あの、ふと空を見上げた時に襲われる、胸を抉られるような痛みと、懐かしさと、愛しさとが、誰かが言う恋しいという気持ちなのだなと思った。失恋の痛みとは、完全にはあの自然の一部になれないと思い知る時の、あの拒絶への絶望のようなものなのだ、と。そして、恋の喜びとは、ふと風に身体を取り巻かれた時のあの限りない安らぎのことをいうのだ。受け入れられたと感ずる、あの一瞬の錯覚が心に与える、果てしない喜び。それならば私にも分かる。私は、冷たい人間でも、人非人でもなかったのだ、と安心した。

「多数というものは、傲慢であり、排他的なのです。土の方の芸術。土の方の思想。土の方の愛情。そこに属さなければ、軽いだの、深みがないだの、理解がないだのと言うのです。その上、異なるものを放っておくということがないのです。大変ねっとりとしています。空の種族には、生きにくい環境です。お気の毒です」

 ヘンがそう付け加えたところで、電車が滑り込んできた。まだ午前中だったから、電車はとても空いていた。目の前の扉から乗り、誰もいない車両まで歩いて、座席に腰を下ろした。


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