Ⅱ
目覚めると、目の前に緑色の奇妙なものが浮かんでいた。
裸眼だとよく見えないので、最初は何だかよく分からなかった。起き上がり、眼鏡をかけてよく見ると、手のひら程の大きさの妙な生き物だった。全体に薄い緑色で、眼が大きく青黒い。人間のような五体をしているが、皮膚は爬虫類のようだった。トンボのような羽も生えていた。ジッと眺めると、ジッと眺め返された。
しばらくして、
「あの、もし、」
とそれが言った。すきま風のような声だった。
「あなたは、空に属するんですよ」
返事はしなかった。ただその変なものを眺めた。何だかよく分からないときは、ジッと黙っているに限る。
「分かりますか。空に属するんです。そういう種族なんです」
と、変なものは続けた。
「ふうん、それで」
と答えると、
「イヤ、それだけです」
と変なものは返した。
なら、まあいいや、と思ってベッドから抜け出し、着替え始めた。その日は学校に行かなければならなかった。
すると、すぐに緑色のそれが、
「あれ、乳房がありますね」
と不思議そうに言った。
「あたりまえです」
「女性ですか?」
「あたりまえです」
それは、フーム、と唸って黙り込んでしまった。
ワイシャツを着てスカートをはいた。フック式の偽物くさいネクタイを着けてベストを着た。
「それが、そうあたりまえでもないんです」
と、その生き物が、再び神妙な顔つきで口を開いた。
「空の種族は、男が多いです。それがあたりまえです。この種族の女はよりいっそう大変です。お気の毒です」
変な生き物から奇妙な理由で、お気の毒です、と言われるのは気分が悪い。失礼な、と思った。思ったけれど、黙っておいた。
カーテンを開けた。晴れていた。空が青かった。空が青いとすぐに気分が良くなる。単純と言われればそうかもしれないが、単純であるにこしたことはない。
部屋を出て、トイレに寄ってから洗面所へ行き、顔を洗った。外見を然るべき形に整えて部屋に戻った。と、変な生き物は、まだベッドの上のあたりに浮いていた。
「行きましょうか」
と、変な生き物が言った。
「どこへ?」
鞄を用意しながらおざなりに答えた。ノート一冊と、筆記具だけを鞄に入れた。今日は授業があるわけではない。
「学ばなければなりませんからね」
と、それは言った。
「今日は学びません。ホームルームだけですから」
と返すと、
「勿論学びます。わたくしが一緒に行きますから」
と言って、それは私の肩にとまった。
「さあ、行きましょう」
ついて来るのか、と思った。迷惑な話だ。しかし、肩に引っ付いているのだから仕方がない(シッポのような部分を引っぱってみたが、取れなかった)、学校に連れて行くしかない。
それは偉ぶって、
「わたくしは、エラトステネスアリスタルコスと言うのです」
と名乗った。確かそんなふうに聞えた。でも、もしかしたら違うかもしれない。私の耳が、奇妙な音の連なりをそう都合よく解釈しただけかもしれない。まあ、いい。覚えるつもりもない。
変な生き物なので、ヘンと呼ぶことにした。そう言うと、ヘンは不服そうにヘン、ヘン、と咳払いをし、
「そんな呼ばれ方は心外です。屈辱です」
と言った。が、気に止めなかった。何しろ、私から頼んで来てもらったわけではない、名前くらい呼びたいように呼ばせてもらう。
しばらくしてヘンは、ため息を吐き、
「……仕方がありません。空の人々は、最初はそういうものです。他の人の気持が分かりにくいのです。無関心なのです。性質です」
と言った。
階下の台所に行った。朝食の用意は、いつものように出来ていた。父は既に出かけたようだった。
ご飯を盛って席につくと、母の手がみそ汁椀を差し出した。湯気が勢い良く立ち上っていた。
「肩に変なものが付いてるわよ」
「知ってる。ヘン」
「ヘンって、名前?」
「ウン」
「変な名前ね」
「ウン」
頷いて、みそ汁をすすった。
「あのう、」
と、ヘンが言った。
「わたくしにも一つ、朝食をいただけませんか」
母は、
「いいわよ」
と言って、小鉢にご飯をよそった。
ヘンは早速食卓の上に飛び下りて、手づかみで嬉々として食べ始めた。
「主婦とは、」
咀嚼の合間に、ヘンが言った。母がみそ汁の椀をコトン、とヘンの前に置いた。
「たいそう、難しい、職業です。何よりも、的確な才能が、必要です。誰にでも出来る、というものでは、ありません。何しろ、生きることそのものを、生業とせねば、なりません。最も困難な、生業です。それゆえ、自然は、比較的、多くのものに、その才能を、与えるのです。立派に、困難に打ち勝つ人々が、多いにこしたことは、ありません」
「あら、特に目立つ才能のない人が主婦になるんだと思ったわ」
茶を注ぎながら母が言った。ヘンは、ご飯の最後の一口を飲み下してから厳かに言った。
「大変なまちがいです」
言いながら、ヘンは手をみそ汁に突っ込んだ。温度を確かめているようだった。
「まず、深く考えぬ、という能力が必要です。これは、生き物の生きる真理を理解しているということです。諸行に疑問を抱かず、自らの存在意義を疑わず、ただ、目前のトウフを切るに専念する。ジュウタンが汚れれば、その汚れの存在理由を問うことなく、掃除機をかける。ひたすら生きることに専念しているのです。非常に素晴らしい才能です」
「トウフのみそ汁を作ることが、そんなにたいそうなことだとは知らなかった」
と、母が茶を飲みながら、感慨深げに言った。
「それ、ごらんなさい。その無心。あなたが、立派な、『考えぬ』という能力を、自然の内に体得している証明です。誇るべきです。仏僧をごらんなさい。その能力を生まれもってこなかったが故に、一生涯をかけ厳しい修行に耐え、その会得に励むのです。人間幸福を追求する上では、最も重要な能力なのです。確かに、割合多くの人々が持つ能力ですが、誰にでもある能力ではありません。例えば、残念ですが、この人には、その能力はありません。空に属している人ですから」
ヘンは私を見て言った。とても失礼な生き物だ。
「アラ、でも、この人、とても無関心よ」
母は私を見て言った。私は黙ってご飯を口に入れた。
「無関心と無心は違うのです」
「アラ、そう?」
「まったく違うのです。なにしろ、構造が違います。無心は裏を返しても無心ですが、無関心は裏を返すと感受性であることが多いのです」
母は、へえ、と言った。私は、ひじきの煮つけをつついた。ヘンはみそ汁に首を突っ込んだ。そして自分の身体ほどの量を、あっという間に飲み干した。
「さらに、」
ヘンは、母から手渡されたティッシュで、顔を拭きながら続けた。
「主婦には、食べることを忘れないという能力も必要です」
「そんなこと、忘れる人いないわ。常識ですもの」
「大変なまちがいです」
ヘンは厳粛な調子で言った。
「常識と思えるのは、あなたがその能力に恵まれたからです。人間が一つの生物に過ぎないという真理を本能で理解しているのです。とても幸運なことです。食べなければ、死ぬのです。朝ごはんを作り、昼ごはんを作り、夜ごはんを作り、すべて食べる。おやつを食べもする。つまみ食いもする。買い食いすらする。そして、他の人々にも同じことを勧め、その世話をしてやる。そういった行為が常識であると思えるからこそ出来る活動です。さらに、その行為や活動を楽しむということとなりますと、これはもう円熟した人間精神を有することの証明に他なりません。比較的多くの人々がこの能力を持っている為に、非常に優れた能力であるにもかかわらず、そうと認められていないのです。嘆かわしいことです。決して万人に与えられる能力ではないのですから」
「本当に食べることを忘れる人がいるかしら?」
と、首を傾げながら、訝しそうに母が言った。
「本当です。この能力に欠ける人は案外に多いのです。能力のある人から世話をされているうちに、ずうずうしくもそれが自分の能力であると勘違いするので、あまり欠落が露呈することがないのです。しかし、能力のある人々がストライキをすれば、多くの人々の無能がすぐに証明されます。世話をされなければ、自らの無能に気付いた頃には死んでいるという人が非常に多くいることでしょう。例えば、残念ですが、この人にもこの能力はありません。空に属している人ですから」
ヘンは私を指さして言った。ムッときた。全く失礼な生き物だと思った。
「食べるのを忘れようが、それで飢え死のうが、私の勝手です」
と、言うと、ヘンは、
「ホラ、ごらんなさい。食物と生と思考の連鎖に無頓着なものの典型的な反応です。この能力に欠けるからです。大変気の毒なことです」
と、重々しく答えた。
「美味しいのに」
と、母が言った。
「まったくです」
と、ヘンが言った。
「しかし、この人の場合はどうにも仕方がありません。そういう種族ですから」
「そう?」
「そうなのです」
ヘンはさらに重々しい調子で頷いた。
私は、
「ごちそうさま」
と言って席を立った。二階へ上がって、ブレザーと紺色のコートを着た。鞄を持って階下へ行くと、母はまだヘンと話をしていた。
「……従って、」
と、ヘンのカン高い声がした。
「主婦という職業をまっとうするには、人間生物としての能力に大変恵まれていることが絶対条件なのです。この形態としては比較的近年設定された職業ですが、その重要性はあまり正しく認識されていないようです。主婦の能力に欠けるエセの人人が主婦を名乗っているせいです。残念なことです……」
台所に、顔だけを出した。
「行ってきます」
母がこちらを見た。
「アラ、行ってらっしゃい。今日は午前中だけね」
すると、
「あ、行きましょうか」
と言って、ヘンが飛んで来た。当然のように私の肩にとまった。学校についてくることを忘れていなかったようだ。残念だ。
青いマフラーを巻いて外に出た。外は、眩く、寒かった。
「どちらから行きましょうか? 左? 右? 後ろ?」
答えずに歩き出した。駅に行くには、真っ直ぐ前と決まっている。ヘンは、ヘン、ヘン、と咳払いをしてから、
「まあ、前の方でもいいです」
と言った。
「あなたは、空に属しますから、これくらいのひねくれ具合こそ普通です」
商店街を抜け、駅までは十五分ほどだ。
途中出会った少年の肩に、ヘンのようなものが留まっていた。少年の顔を見たとき、不意に妙に親しみを覚えた。驚いてジッと見つめると、困ったような笑顔を返された。限りなく懐かしい気持になった。そうなると、不意に心臓と目頭が熱くなって、慌てて誤魔化すように首を振った。それから笑い返した。少年もまたニッと笑った。そのまま互いに立ち止まることなくすれ違った。数分経ってから、会ったこともない少年だったと気付いた。驚いた。あの懐かしさは何事だろうと思った。
「同胞愛です」
ヘンが人の心を見透かしたようなことを言った。
「案ずることはありません。空に属する人々は、一見淡白ですが空なりに情深いのです。同胞への愛はことさら強いです。会えばすぐに心が通じ合うのは当然のことです。また、心が震えたからと言って慄く必要もありません。あなたが普段無感動なのは、無意識の自己防衛です。特に、あなたは並の人々よりも深いようですから」
何が深いのかと尋ねると、ヘンは私の無知を蔑むような調子で返した。
「深いと言えば心に決まっています。常識です」
それから、ヘン、ヘン、と咳払いをして、
「通達が通常より二年遅いのも、きっとそのせいでしょう」
と続けた。
「遅いんですか?」
「遅いんです。普通なら十五です」
「そうですか」
「そうなのです。しかも女ですから大変です。お気の毒です」
自分がそうと生まれついただけの事実を、そう気の毒がられるのは、心外だ。
「女だといけませんか」
「いけないことはありませんが、大変です」
返事はしなかった。いつものように小さな本屋と喫茶店の前を通った。すると、
「元々、」
とヘンが続けた。
「身体というのは土の方に属するものなのです。男のものと女のものでは、女のものの方がよりそうです。何故と聞かれても、そうだからそうなのです。大方の人は、その他も大方土の方に属するので安心ですが、空の種族に限ってはそういうわけにはいきません。何しろ、身体の他が全体的に空の方に属するわけですから。ただ、土の方に属する身体の中でも、男のものは、やや空寄りです。何故と聞かれても、そうだからそうなのです。ですから、空の種族には男が多いのです。よく出来た仕組みです。性質の矛盾が少ないわけです。ですが、あなたの場合女ですから大変なのです。分かりましたか」
「分かりません」
「変ですねえ。どのあたりが分かりませんか」
「全体的に、です」
ヘンは、成る程、と言った。
「それは、具体的に全体的に、ですか」
「具体的に全体的に、です」
「なら安心です。そのうち全体的に具体的に分かります。空の人々の理解の方法の基本です。全体をなんとなく把握してから、具体的な理解に入るのです。一安心です」
何が一安心なのかよく分からなかったので、煙にまかれたような心持になった。釈然とせず、黙ったまま公園に入った。
が、いつものように噴水の横を通り抜けた時、ふとあることを思い出した。
数年前、奇妙に身体が重く、足の裏や腰や背中が、やけに地に近く張り付いていると気付いた時があった。幼い頃から仲の良かったN君やM君が、不意に軽やかに私の前から走り去った瞬間があった。何とも言えない絶望に襲われ、愕然として悔し涙が流れた。理由は分からなかった。私は、大変だと思った。何が大変なのかは分からなかった。しかし、以来、近しかった彼らとは疎遠になった。
ヘンの言うことに照らし合わせると、あの時を境に私の身体は土の方により近くなった、ということだ。彼らのものは、ならなかった。多分、N君とM君は私と同じ種族だ。きっと同種族同士だったから、余計切実にその違いを肌で感じ取ったのだろう。そうと思い当たって、先程言っていた大変というのはこういうことか、とヘンに尋ねた。すると、正にその通りです、とヘンは答えた。
「非常に具体的です。自己認識によるその大変な驚きは、大変象徴的です。性質的分離現象が起こるわけです。大変なはずです。空に属する女性に、初期に顕著に起こる現象です。時には、激しい拒絶反応により死ぬこともあります」
それは怖いですね、と言うと、ヘンは、
「ああ、あなたは大丈夫です。深いですから」
と、ケロリと返した。
「心が深いんですか?」
すると、ヘンは私の無知を怪しむように答えた。
「深いと言えば、欲に決まっています。あなたの場合創作欲です。創作の源はたましいですが、物質的に創作するものは身体です。ですから、分離現象が起こっても、身体を手放すようなことは出来ないわけです。欲が深いですから」
「そんなものですか?」
「そんなものです」
思い当たるフシが無いでもなかったので、そのまま黙って歩き続けた。
公園を抜けた。公園の出口のほぼ目の前に駅があった。駅舎に入った。改札口に向かう階段を上っているときに、
「でも、その欲に対して情熱的ではないです」
と言った。
「仕方がありません、あなたは空に属しますから」
とヘンは答えた。
「一般的に認められている情熱的という概念は土的なのです。どろくさく、ねばりがあるのです。そして、針穴的に凝縮気味です。あなたは空的に非常に情熱的ですが、なかなか一般的にそうとは解されません。水蒸気的に分散気味だからです。一般的とは土的なのです。土に属する人々は多いですから、多数決でそうなったのです。そんなものです。しかし、あなたはサッパリと大雑把に情熱的です。大丈夫です」
「そんなものですか?」
「そんなものです」
何となく、胸のあたりがスッキリとした。きっと、腑に落ちる、と言うのは、こういう現象のことを言うのだ。スッキリとしたまま、いつものように改札を抜け、右の階段を下りた。
「あれ、どこに行くんです?」
と、ヘンがカン高い声を出した。驚いたような声だった。
「今日は学びに行くんですよ」
「そうです。学校に行くんです。だから、こっちのホームでいいんです。三年近く通ったんだから、間違えるはずがありません」
「そうですか、学校ですか。楽しそうです。ぜひ行きましょう。学ぶのは後でもいいですから」
「後も先もありません。今日はホームルームだけです。学び終わったことと、これから学ぶ先を報告に行くだけです」
ヘンは、ああ、非常に土的なことです。あなたにはまったくお気の毒なことです、と神妙な面持ちで言った。それから、楽しそうに、
「まあ、いいです。サア、行きましょう」
と付け加えた。
ホームに下り立つと、すぐに電車がやってきた。扉が開き、いつものように、いつもの穴を見つけてその中に収まった。ヘンは、私の肩から頭の上へ移動した。ヘン、ヘン、と咳払いをしながら、非常に密集的です。土的に安心行動であり、空的に拷問です。成る程、そういうわけで、無関心を積極的に助長させたと言うのですね。効果的な自己防衛方法です。感心しました、と呟いた。私は窓の外を眺めた。空が青かった。空の青は美しい。車内はシンとしていた。ヘンはずっと何かを呟いていた。……それにしても騒がしいものですね。五感中の四感に対して確実に騒がしいです。個人によっては五感全てに対して騒がしいです。成る程、あなたにはなかなか難しいわけです。お気の毒です……。ヘンの呟きには気を止めなかった。そのうち、呟きすら聞えなくなった。窓の外は、空の青は、いつでも、美しい。
目的の駅に着き、いつものようにいつもの改札を出た。左手の階段を下りた。駅舎を出て光の中に入っていくと、皮膚がようやく呼吸を始めた。空気は外のものに限る。そのまま勢いをつけ早足で駅前の商店街を抜けた。黒い集団をいくつも追い越した。学校に続く直線道路に出ると、あたりが急激に清々しくなった。前後左右に空間が出来たところで、歩調を緩めた。その途端、
「孤独は、」
と、変な声が頭の上から聞えてきた。びっくりして飛び上がった。ヘンが、目の前をヒラヒラと横切り、私の肩にとまった。驚いた。ヘンのことをすっかり忘れていた。頭の上に乗っていたのだった。
「孤独は、」
とヘンが重々しく繰り返した。
「空の人々の好む嗜好品です。中々甘美な香りがしますが、口にすると中々苦いものです。コーヒーのようなものです。土の方の人々には、元来好まれません。ただ、土の方の人々にも、好むフリをするのがいますが、所詮はフリなのでみじめです。好きでもないものを自らに無理強いするのは毒なのです。一方、空の人々の中には、好きが昂じ摂取しすぎて、中毒になるのがあります。そういった場合も、やはりみじめです。嗜好品は過ぎると毒なのです」
「はあ」
と、気の抜けた返事しか出来なかった。何しろ驚いたので、ヘンの言葉に集中していなかった。頭を振った。
その時、自転車に乗った女の人が、私の横をすり抜けていった。必死にペダルをこぐ黒いハイヒールの足が、やけに鮮やかに目に飛び込んできた。
「そういった嗜好品は、正直に、かつ適度に生活に取り入れることが重要なのです」
とヘンは続けた。
「大変成功した空の方の人で、自分は孤独が安らぎであるからこそ、孤独を生業にはしないことにした。同胞との交わりは容易なばかりではないが、自分にとって何ものにも代え難い大切なものである。そして、それが時折噛締める孤独を、一層甘美なものにする、と言った人があります。実際のところ、まったくそうなのです。非常に潔く、健康的な孤独の愛しみ方です。ただし、こういう方は、甚だ幸運です。空の人々と土の人々は、ある程度の理解をしあうことが出来ますが、やはり本当の繋がりは同種類の性質の人間同士に芽生えるのです。何故と言われても、そうなのだからそうなのです。空の人々は、絶対数が少ないですから、同胞にめぐり会える機会は稀です。ですから、先のような方は大変幸運で、一方、孤独に溺れ、中毒となる空の人々は比較的多いのです。そうなると、内にこもり外の世界に出ませんから、余計に同胞に巡り会う機会は減ります。さらにみじめになります。まったくの悪循環です」
「それは何となく分かります」
「何となくだけですか」
「何となくだけです」
ヘンは不服そうに、
「まあ、いいでしょう」
と言った。私はそのまま、真っ直ぐ道を歩いた。横断歩道が校門の斜前にあって、青信号で渡った。
その時、背広を着た男の人が、横断歩道を、下を向きながら、私とは逆方向に歩いて行った。重そうな鞄をやけに深刻そうに抱えている。なぜか胸がぞっとした。
校門を抜け、二階昇降口へと続く階段を上がった。
ふと、フリをしてみじめなのと、中毒でみじめなのとの違いは、傍目に見て分かるのかしら、と疑問に思った。ヘンに尋ねると、勿論だという返事だった。
「火を見るよりも明らかです。一方は陶酔的表層的みじめであり、一方は絶望的みじめです。絶望的と言うのは真実的ということです。総じて、真実的みじめは芸術を生み、後世に残りがちです。他方は、決してそういうことがありません」
「どちらがどちらですか?」
ヘンは驚いて、分かりませんか、と言った。
「非常に明らかなことですが」
「そう言われると、明らかなような気がします」
「全く明らかです」
ヘンは満足気に頷いた。私も自分の判断に自信を持った。
重いガラスの扉は閉まっていた。扉を開け、中に入った。下駄箱に革靴を入れ、上履きを出して履いた。昇降口のホールは、薄暗く、生徒でごった返していた。二階ですか四階ですか、とヘンが言った。私は、二階だと答えた。