なろう小説の面白さをヒト・モノ・カネで分析してみたよ!
面白いなんて概念は情動の話なので、幻想に属する物事であって、結局のところ精密に書けば無限、シンプルに書けば快・不快原則に帰するのは当たり前です。
要するに受け取り手の感度がよければ、いろいろな面白さを味わうことができるし、馬鹿舌だったら面白いかどうかという二択にならざるをえないわけです。
で、わたしが前のエッセイで書いたヒト・モノ・カネという三タイプは読者にも当てはまります。
ヒトタイプ=人的関係に価値を見出すタイプ。
モノタイプ=世界観に価値を見出すタイプ。
カネタイプ=金とか権力とか名誉とか増大するものに価値を見出すタイプ。
本来は、わたしにとってよくわからない神様みたいな存在の、『他者』に対して、規定する装置なわけですから、三タイプはわたしにとって最も有用なものさしなわけです。
皆様はそれぞれが一番好きなものさしを採用すればよろしいと思ってますが、そんなふうに冷たく考えてしまうのも、わたしは他人のことがわりとどうでもいいモノタイプだからなわけですね。
とはいえ、わたし自身はまだまだ柔らかい幼女作家を自称してますので、このタイプはわりと簡単に変化します。
そんなわけで、わたしの場合という注釈つきでありますが、なろう小説の面白さを三タイプで分けてみます。
それなりに面白い分け方なんじゃないかなと思いますし、価値観からして、どうやって書けばどうウケるかが卑近ですが見えてくると楽しいと思います。わたしはモノタイプなので、そうやって世界を解釈するのが楽しいんです。
さて、なろう小説をざっくりと分析していきましょう。
『追放・復讐系』
この系統は情動の完遂こそがすべてなわけです、追放する側は主人公視点で嫌なやつであり、その人に対して、復讐を完遂するのは甘美なわけですから、人的関係がメインになっているのは言うまでもありません。
読者は『主人公が報われ、追放した者が歯噛みする』という点に面白さを感じているに違いないのです。
したがって、この作品群が面白いと感じる読者はヒトタイプであろうと思われます。
わたしが面白いと感じるのは、こういったヒトタイプが実は同じくおもしろく感じるのは、人情モノだという点です。
例えば、奴隷少女がご主人様に優しくされてこんなヒトはいなかった素敵抱いてとなることに面白さを感じるのはヒトタイプです。
追放系は実際には勇者なりあるいは王子だったりするわけで、それよりも地位や名誉や金の点で上回らなくてはならないわけですから、同時にカネタイプの価値観も満たしていることが多いといえます。
したがって、例えば復讐は悪いことだろうかとか、復讐することで報われるなんて間違ってるだろうかとかは考えません。モノ的な考えはほとんどはずされているのです。考えてもいいんでしょうが、なろう小説ではあまりそういった例は見当たりません。
ともかく、追放・復讐系で必要なのは、人的情動を補完すること――例えば、多人数から認められ、追放した側の判断が間違っていたと公的に解釈されることや、地位や名誉において相手側を上回ることが求められることになります。
『ひたすらレベルアップ系』
蜘蛛とかがそのタイプにあたるのかなと思ってます。
こういった作品に求められている面白さはおそらくはカネタイプ的なものです。自分の権勢がひたすら拡大することに対する面白さが作品の価値を裏打ちしています。ヒト的な面白さは劣後するため、例えば主人公が外道的なことをしたとしてもたいして面白みが減殺されません。
が、レベルアップしたということを客観的に示すためには、ヒトから恐れられるというのも有用だったりするわけで、ヒト的な面白さがまったくないわけではないということになります。モノ的な面白さはどうなのかというと、世界観的に倫理や道徳やその他のこうあるべきという規範はほとんどないでしょう。ありうるとすれば、主人公は生存したいという原始的な欲求であることが多く、死の恐怖によって読者は連帯します。
『ハーレム系作品』
ハーレム系作品の面白さというのは、キャラクターの背景事情を捨象してもよい点にあると思います。あってもいいがなくてもいい。例えば、盲目の少女をチートヒールで治すという事象を考えてみましょう。ヒロインは目を治してくれたということで感謝する。それが背景事情として主人公を慕うようになるという情動はヒトタイプ的ではありますが、実際には、そういった事象は打ち捨てられていても問題が無い。はっきり言えば、そこらの盗賊に襲われていたのをチートで助けるという身もふたもないような事情を導入しても、背景としては成立してしまう。ゆえにハーレム系はヒトタイプにもなりうるが、カネタイプでもありうるといえるでしょう。
客観的な主人公の権勢をあらわすバロメータとしてハーレムが形成されていくという考え方です。
リゼロとかを考えると、主人公の行動がモロにレムをひきよせてると考えれば、ヒトタイプなんだろうなと思います。したがって、ハーレムがイコールトロフィー美少女という考え方は妥当ではなく、単にカネタイプに寄せただけだといえます。ヒトタイプにもなりうるんじゃないでしょうか。
『スローライフ』
これはモノタイプとカネタイプの混合作品だといえます。立身出世的な要素が加わるとなんとヒトタイプでもあります。
スローライフは三つのタイプにまたがってますから、実際は全然スローライフじゃありません。ものすごく忙しいのはわかりますよね? スローライフ全然スローライフじゃない問題はここに原因があるんです。
例えば、司書を目指す有名な作品は、最初期には本を創りたいというのを目標に掲げます。そのために、まずしたことは、本で囲まれた生活を夢見るというモノタイプ的な発想です。そのあとに、それを実現するためにお金を貯めて人脈を作ることに腐心することになります。
ただ、スローライフでも純粋な形であれば、モノタイプ的な発想に近づいていくとは思います。例えば、究極の本とは何かとか、単に畑をたがやしていくとは何かとかそういう発想です。問題はそこに立身出世的ないわゆる内政要素が加わると、カネタイプ的な価値観がどうしても混入してしまうということです。
わたしが一読者としてみた場合、スローライフはやはりカネタイプな面白さのほうが大きいのかなという印象です。少しずつできることややれることが増えていく内政的な面白さがあるのかなと思います。
『チート』
チート自体は、実をいうとカネタイプではないのです。というか、タイプ自体に分類されるわけじゃありません。
チートはヒト、モノ、カネを達成する手段であり、その手段を短絡するための方法論です。例えばヒトについて言えば、盗賊をぶっころばして慕われるというときにチートを使えば、十数年とかの剣技の練習をすっとばせるわけですけど、チートがあったからといってヒトタイプとは限らないのはわかりますよね。
つまり、チートはタイプとは無関係なのです。逆にいえば、どのタイプとも=どの価値観とも接続しうるものです。
言うまでも無いですが、チートは近道であって、それらの価値観を手っ取りばやく達成するための手段でしかありません。
問題なのは例えば、モノタイプであり、努力なき力はよろしくないという価値観だったら、チートは排斥すべきということになります。ただ、そういった価値観に共感する読者はあまりいないのが、なろうの現状です。
少なくともヒトタイプやカネタイプを重視する場合は、チートはつけていたほうが速度的な意味で有利です。だって、その価値を達成するというときに面白さを感じるわけですから、ひたすら茨の道を進むということに価値を見出す=モノタイプ的な思考は弱いからです。
『オーバーロードについて』
なろうで当たったということで、この作品を考えると、ヒトタイプ・カネタイプだとわかります。なろう小説の通常パターンは多くはヒト・カネタイプなのかもしれません。
ヒトということで考えると、NPCやシモベたちからの賞賛があります。ここには勘違い要素もあって、コメディとしての面白さもあります。コメディとはヒト的な価値です。キャラ萌えだからです。
そして、カネタイプなのは、ナザリックとその頂点としてアインズが頂点に立つことに、その権勢が他を圧倒するところにその価値があります。イキっていると思われる危険もありますが、しかし、そこに面白さを感じている読者もいるはずです。
『スライムについて』
基本的にはオーバーロードと同じく、ヒトカネタイプです。スライムである主人公はヒトとのコミュニケーションを重視しているし、部下であろうが人外であろうがヒトであることに変わりはありません。
ここに仲間としての価値を至上に置いている節がある以上、第一義的にはヒトタイプであるといえます
そして、自陣の勢力を増やすことに面白さを見出しています。自国を作るというのはその際たるものであり、カネタイプであるといえます。
『なろう小説でウケがよいのはヒト・カネタイプ?』
ヒトから慕われ、権勢が増大していくタイプが基本的にウケがよいのかもしれません。主人公が内心において何を感じ、何を考えたのかという点についてはさほど重視されないので、さらりと流したほうがよくて、あるいはコメディタッチとしてポンコツ化・きょとん化・やれやれ化したほうがいいということになります。うじうじと内心を厳密に書いていくことにさほどの価値を見出していないのではないでしょうか。
だって、そんな文学的な書き方に興味はないし。
という読者が多いような気がします。
『結局のところ面白さとは?』
それぞれのタイプごとにどこにフックがかかるかはわかりません。
しかし、作者としては自分の作品の強みがどこにあるのかは知っておいたほうがよいかと思います。
前にエッセイで、なろう小説の主人公はサイコパス的であると書いたことがありますが、そう考えると、自身の内心には無頓着である一方、他人からは承認されるように書くというのが非常に有利な書き方ということになります。
また、その内心を客観的な意味で裏打ちするような権勢をカネ的に保証するとウケがいいのではないかと思います。
さーそういう作品を書くぞ!
って思っても、わたしはモノタイプなので、若干躊躇してしまうのでした。
わたしは消しゴムにすぎなかったのです!
そういう考えもあるのか的に思われたら最高にうれしい!
ヒト的な発想ですけどね。