1.二度寝妄想(アナスタシア)
薔薇の香りがする。少しだけ開かれた小窓から、春のそよ風に乗って運ばれてきているのだろう。小鳥たちが、朝の歌を歌っている。
私は目を開ける。
朝日を受けたシルクのレースは春風に揺れている。まるで、満天の星空と共に宙に浮かぶオーロラのよう。
朝だ。
待ちに待った朝。今日は貴族学園の入学式だ。待ちに待った日。厳しかった冬を耐え忍び、柔らかに注ぐ太陽を浴びる大地。
やっとウィンツ様とお会いできる。私の婚約者。
夜会で出会ったウィンツ様。ダンスを一緒に踊ったウィンツ様。ダンス会場を抜け出し、テラスで永遠の愛を囁き会ったウィンツ様。
ウィンツ様と私の婚約が国王様より発表されたときは、天にも舞い上がるような嬉しさでした。運命の女神様ですら嫉妬をしてしまいそうなほどの幸運。乙女であれば誰もが憧れるウィンツ様。騎士の中の騎士。貴族の中の貴族。そして私が生涯唯一愛する男性。そして、私の夫となる人。
ですが、婚約が発表されても、ウィンツ様と逢瀬を重ねることは難しかった。でもそれは仕方が無いこと。私たちは貴族ですもの。
私は淑女で、ウィンツ様は紳士。お茶会でお会いしても、私の左手にウィンツ様の唇を当てるだけの短い挨拶。
ウィンツ様も私のことを考えていてくださるかしら……と、満月を眺めながら過ごした孤独な夜も終わりだ。
今日から、王立魔術学園に私とウィンツ様は入学するのだから……。今日からは、学園で毎日お会いすることができるのだから……
だけど、もう少しだけ寝ていたい。冷静に考えると私は入学式である今日という日を、雪解けを静かに待つ雪下の花のように待っていた。
ウィンツ様とこれから毎日会える、そのことを考えただけで私の胸は高まり、眠ることができなかった。
「アナスタシア様、朝の御したくの時間でございます。お目覚めください」
メイドのアンの声。
「もう少しだけ寝かせて」
「何をいいますか。あれほど心待ちにされていた入学式の朝でございますよ。ここ数日、戦で勝利して都へと凱旋している騎士様たちに歓喜して、花びらを撒き散らす町娘のようにお騒ぎになっていたのに、今日は深い森で眠られているお姫様のようですわ」
「意地悪を言わないでアン。本当に眠たいの」
「ダメです、アナスタシア様。起きてくださいませ。それに、ウィンツ様もきっと学園でアナスタシア様とお会いできることを心待ちにしていらっしゃいます。このアンが、美の女神ですら恥じらってお隠れになるほどアナスタシア様を美しく着飾ってみせますわ」
「ありがとう……でも……本当に眠たいの……」
ピピピッ。
「お願いよ、アン。あと半刻ほど眠らせて……」
ピピピッ。
ピピピッ。
ピピピッ。
って、私はバッサっと起きる。
目覚まし時計が鳴っている。携帯の目覚ましも鳴っている。
やばい! もうこんな時間! 妄想し過ぎた!
私、超ダッシュ。猛ダッシュ。マリオじゃないけどBダッシュ!!!
朝の身だしなみを必死に整える。
やばい、冷蔵庫の中、何も入ってない! 朝ご飯、どうしよう。冷凍の焼きおにぎりもない。
あっ。電子レンジの上に置いてある、赤い包装に包まれた箱。チョコレートの箱だ。
結局……バレンタイン・デーに渡そうと思って渡せなかったチョコの箱だ。もう、今日は十七日。せっかく、数年ぶりの平日バレンタインだったのに、渡せなかった。
一昨年のバレンタインは土曜日。休日。まるで世紀末。
去年は日曜日。ノストラダムスの大予言が遅れて実現すれば良いと思った!
今年のバレンタインは火曜日だった。待ちに待った平日! キリンのように首を長くして待った平日!
だけど、三年振りの平日バレンタイン。チョコを渡すには少し、リハビリが必要だった。
今年、チョコレート、渡せませんでした……。義理チョコは沢山配ったけどね!
ってそんなことより朝ご飯だ! えぇい! もうどうせ渡せないし、このチョコを食ってやる。どうせもう渡す見込みなんてないのだから。
チョコレートの包装を破る。そして、中身を朝ごはん代わりに口に入れる。
美味しいけど……。朝食としては……甘すぎる。
もうこんな時間。会社に遅刻してしまう!!