歪な願い
妻が死んでからもう30年は経つ。あの時からわたしの心は死んでいたのだ。
妻は15の時にわたしに嫁いできた。当時わたしは若くして将校となったばかりだった。そして、わたしには想い人がいた。幼い頃、社交界で一度だけみた栗色の髪を持った人。その人がいつまでも忘れられなかった。
「旦那様…」
妻の声を好いていたはずだったのに。わたしはその声に応えることはついぞなかった。
「わたしが死んだら妻を貰ってくれ」
4つ離れた弟にそう言ったりもした。あの人を好いていたから。幸せになって欲しかったから。
「じゃないとあの人が可哀想だ」
弟は肩をすくめて一言「わかった」とだけ言った。
その日は木漏れ日がさしていた。うららかな日だった。
わたしと敵対していた男が銃を片手に目の前に立ちふさがった。
銃弾を覚悟し、わたしは瞳を閉じた。しかし、いつまでたっても痛みはやってこなかった。
かわりに弟の声を聴いた。
「義姉さん!!」
わたしの妻を呼ぶ声だった。
そっと瞼を開ける。其処には妻がいた。妻はわたしをかばって銃弾に倒れたのだった。
妻はそれから3日生きた。その間に妻こそがわたしが昔恋焦がれた人だとわかるには十分だった。
「旦那様、愛しておりました」
妻はあの声で最後の言葉を言い亡くなった。
「なんで義姉さんの事、もっと大切にしてやらなかったんだよ!」
弟に殴られるのを甘んじて受け入れた。弟も妻の事を好いていた。だからこそ手放そうと思ったのに。妻は自らわたしを生かしたのだ。
あれから30年。再婚するつもりはないというわたしの我が儘を弟は尊重してくれた。家督を継ぐべき弟の息子も、妻の名を受け継いだ弟の娘も大きくなった。もう老人は消えるべきだ。
妻はわたしが死ぬとき迎えにきてくれはしまい。
「旦那様」
妻の声を聴いた様な気がした。そして、わたしは最後の吐息をもらした。