妄想オヤジ 自己啓発編
妄想オヤジの第二弾です。
「下村さん、最近元気いいですね。仕事、順調なんですか?」
社員食堂で、森嶋高志は寮で一年先輩だった下村直人に話しかけた。
「うん、まあね。」
下村は、照れたような笑いを浮かべながら答えた。
それは、森嶋高志が社会人になって六年目、二十八歳の頃だった。六年間、埼玉県の電子部品製造の東亜無線株式会社で半導体電子回路の設計技術者として頑張り、仕事ではかなりの実績を残していた。時は、バブル景気の真っ只中。しかし、高志にバブルの恩恵は全くなく、安月給で役職はヒラのまま。そして彼女いない暦二十八年、激しい妄想癖のある暗い青年だった。
下村直人は、高志が入社時にしばらく住んでいた社員寮での一年先輩で、気は優しくて力持ち。筋肉モリモリの肉体だが性格は温厚で、頼りになる先輩だった。また、県は違うが同じ北陸の出身ということで、高志の面倒をよく見てくれていた。職場は別の事業部だったので頻繁に会うことはなかったが、その分利害関係がなく、良好な先輩後輩関係が続いていた。
そんな下村が最近元気ハツラツしているので、高志がからかったのだった。
[下村先輩にも彼女ができたんかな?]
高志は羨ましかった。
* * * * *
ある日の残業中、
「森嶋君、来週の水曜の夜、空いてないかな?」
と、藤村課長が話しかけてきた。
「はぁ、別に用事はないですけど、なんでしょう?」
藤村課長は、一年前からの直属の上司だが、それまで一度もアフターファイブに誘われたことはなかった。
「ちょっと面白い集まりがあってね。参加してみない?」
「はぁ、はい。」
高志は権威に弱く、役職が上の人には常に従順だった。
「表参道に会場があるんだ。午後七時から始まる。女の子も来るよ。現地で待ち合わせ。大丈夫?」
「はい!」
高志は、〈表参道〉〈女の子も来る〉という言葉に敏感に反応してしまい、思い切り承諾した。藤村課長は、紙切れに会場の住所とおおまかな地図を書いて、高志に渡した。高志の妄想スイッチはオン。
[表参道か、いっぺん行ってみたかったんやって。]
[やっぱぁ~コンパやろな。東京の女の子かぁ~、えぇんでねぇんかぁ~。]
妄想するときはいつも故郷の言葉だった。高志は、北陸の二流大学を卒業して、東京に憧れてなぜか埼玉に来たのだが、まぁその理由は置いといて。とにかく彼女いない暦二十八年だけあって、東京の中でもお洒落な街には、全く行ったことがなかったのだ。たまに一人で東京に出るが、池袋と秋葉原が関の山だった。
[東京の女の子、いっただっきまぁ~す。]
とても文章では表現できない過激な妄想が、高志の頭脳を支配した。
[俺にも、遂にバブル到来か?]
この半年前、中学時代の同窓会で、片思いをしていた女の子に深手の傷を負わされていたのだが、そのことはもうすっかり忘れていた。
指折り数えた翌週の水曜日、高志は一路表参道へ。職場からは、最寄りの北武鉄道下福島駅まで徒歩二十分、電車三十分で池袋、JR山手線で原宿駅まで二十分、そこから徒歩十五分。乗り継ぎを考慮すると、二時間はみておかなければならない。午後五時の終業のメロディと同時に退社し、生まれて初めての表参道へたった一人で意気揚々と向かった。藤村課長は、その日は東京へ出張しており、現地で待っている。まるで、この日の集まりそれ自体が仕事であるかのように。
慣れない表参道を、田舎者らしくきょろきょろしながら、ようやく現地に辿り着いた。十五分の遅刻だった。
[あかん、先手必勝や思たんやに]
と焦ったが、会場の入り口には四人の男女が満面の笑顔で出迎えてくれた。その中に藤村課長の姿もあった。
「ようこそ、セミナーは七時半から始まりますので、まだ大丈夫ですよ。」
その中の一人の女性が、微笑みながら言った。
[セミナー? なんじゃそりゃ。コンパでねぇんか?]
藤村課長をはじめフレンドリーな四人に安心感はあったが、〈セミナー〉なる予想外の言葉に、思考回路が停止してしまった。そして、その場の雰囲気に流されながら会場の中に入った。
会場は百人は入れそうなゆったりしたスペースで、中にはすでに三十人ほどの人がいた。ホワイトボードと演台が置かれ、それに向かって折りたたみ椅子が何列かあり、そして、それを取り囲むようなコの字形で別の椅子が置かれていた。案内の女性は、
「どうぞゲスト席へ。」
と演台向きに並んでいる折りたたみ椅子の席まで案内してくれた。高志は、コの字形に並べられた椅子の方に座りたかったが、
「あちらはホスト席ですので。」
と静止された。
訳も分からず椅子に腰掛けていると、さらに人数が増えて、開始時刻には会場は五十人ほどになった。待っている間、パンフレットのようなものが配られた。タイトルは、〈現在そして未来の自分のために〉だった。そのときは、もはや高志の妄想回路の働く余地はなくなっていた。
「では、始めさせて頂きます。」
三十五歳くらいの男性が演台に立ち、話し始めた。
「今日はお忙しい中ありがとうございます。」
ありきたりの前フリの後、自己紹介。
「私は、海崎ノビスコの人事部で働いておりました。」
海崎ノビスコといえば、超有名な菓子メーカーである。
「その中で私は・・・(云々)」
サラリーマンとして、毎日同じような生活の繰り返しだったこと、自分を見失っていたことなど、会場に集まった全ての人に当てはまる話題で、共感を得ようとしているようだった。高志も共感したが、ちょっと気になることがあった。演台の男性の目が〈逝って〉いることだった。講演慣れしていて全体に目配せをしてはいるものの、焦点はどこか別の世界に合っているように感じたのだ。
自己紹介が終わると、今度はこのセミナーについて語りだすかと思いきや、
「ここで、ちょっと面白いゲームをやりましょう。」
と、とんちクイズのようなことをやり出した。ホワイトボードに幾つか点をうって、
「さあ、この点を一筆書きの四本の直線で結んでみて下さい。」
単純に考えれば五本は必要な点の配列だった。ゲスト席にいる人たちは皆、首をかしげて考え込んでしまった。その中で即座に手を挙げた人が、一人いた。・・・高志だ。激しい妄想癖のある、言い換えれば〈素晴らしい想像力のある〉高志にとっては、お茶の子さいさいだったのだ。演台の男性は、高志に近寄り紙に答えを書かせ、小声で、
「正解です。・・・少し待ってて下さいね。」
その後、何人かは手を挙げたがいずれも不正解だった。十分ほど考えさせ正解を示した。
さらに趣向を変えた幾つかのクイズが出されたが、すべて高志だけが正解を即答した。
演台の男性は、話の持って行き方を邪魔されたようで、少し不機嫌そうにしたが、
「さあ皆さん、これまで見えなかったことが、ちょっと視点を変えれば見えるようになることが、お分かりになったでしょう。」
と、あらかじめ用意しておいたた話を続けた。
このころには、高志はすっかり平常心を取り戻していた。なにせ、お得意の妄想力が生かせて有頂天になっていたからだ。会場全体を見回す余裕もできた。ゲスト達は、二十代、三十代の年齢で、みな会社勤め風の純粋そうな人達だった。女性は、東京の女性は・・・、高志の中では、東京の女性は洗練された美のオーラを放っているのだが、そういう女性は一人もいなかった。・・・がっかり。
ホスト席は、藤村課長をはじめ皆が微笑みを浮かべていた。ただし、彼らの目は〈逝って〉いた。
演台の男性は、ゲスト達に中学生のお楽しみ会でやるようなゲームをさせたり、知らない者同士で自己紹介をさせたりして、会場の一体感を作り出そうとしていた。
[なんかあんな? もしかすっと・・・あれかも知れん]
すでに、余裕を持ってセミナーの進行を見守っていた高志は、妄想力を使うまでもなく感づいた。その当時(バブル期)に社会問題になった自己啓発セミナーだ。バブル期は大金持ちが大量発生した。その反面、まったくバブルの恩恵に与れない二十代、三十代の会社勤めの人達が、自己啓発セミナーに参加して充実感を得ていたのだ。大金を払わされた挙句に、洗脳されていたとも知らずに。
高志は、後輩の一人がそれに犯されていることを噂で聞いていた。
[どやって大金、払わすつもりなんやろか。お手並み拝見。ほやけど、まさか藤村課長が・・・。]
図星だった。
演台の男性の講演が終わると、ホスト達は椅子の配置を変えはじめた。一人のゲストに三人のホストが囲む形だ。
高志の正面には藤村課長、両脇に女性のホスト(女性だからホステスさん♡)が座った。藤村課長が口を開いた。
「どうだった? 楽しかった?」
と言うと、新たなパンフレットを差し出した。タイトルは、〈現在そして未来の自分のために TBDセミナー〉。セミナー入会の勧誘開始だ。
「今まで見えなかった自分って、居るんですよねぇ。」
「私もこのセミナーで、気づいたことがいっぱいあったんですぅ。」
両脇の女性達が自分の経験談を語りだす。
「TBDっていうのは、ザッツ・ア・ビューティフル・デイの頭文字からきてるんだ。俺も参加したんだけど、良かったよ。すっごく良かった。」
藤村課長の目の焦点は、どこか別の世界に合っているようだった。〈逝って〉いた。両脇の二人の女性も、
「良かったです。すっごく良かった。」
「良かったです。すっごく良かった。」
三人とも全く同じ目をして、同じ事を言うのには参った。
[完全に洗脳されている。]
高志は立場上、藤村課長の機嫌を損ねることはできない。今後、会社での仕事がやりづらくなるから。そこで、適当に相槌をうって、
「へぇ~、そうですかぁ。」
などと関心ありげに誤魔化していた。すると、三人はおもむろに本題に入ってきた。
「このパンフレットを見て頂けますか。ベーシックコースとアドバンスコースがあって、最初は一週間のベーシックコースから。これだけでも、新しい自分の発見があります。アドバンスコースにご参加頂けますと、今とは全く違う自分の発見、そして新たな自分の可能性が見えてくるんです。」
「継続してご参加いただけるコースもございます。」
両脇の女性達が、とてもフレンドリーに優しく勧誘を始めた。金額を見てみると、ベーシックコース二十万円、アドバンスコース三十万円となっていた。高志が、金額に目をやっているのに気づいた二人の女性は、
「これは、自分への投資です。この先、何十年も生きてゆく中で、自分の中に眠っている可能性を見つけるための投資なんです。さあ自分を見つける旅、ご一緒しませんか?」
もし、この二人が高志の妄想スイッチをオンにする素敵な女性だったら、〈旅、ご一緒しませんか?〉のフレーズに即答OKだったに違いない。しかし、幸か不幸か二人は残念な女性達だった。
「森嶋君、今の自分に満足してる? 自分自身に投資してみようよ。」
藤村課長がしつこく迫ったとき、高志は答えた。
「僕には夢があるんです。アメリカ合衆国のシリコンバレーに行って、技術力で世界を相手に勝負したいんです。そのためには、今、まとまったお金と時間が必要なんです。」
これは、講演中に考えてあった断りの決めゼリフだった。狙い通り、藤村課長への強烈なカウンターパンチとなり、あえなくダウンした。粘着質な勧誘攻撃をかけてきた女性たちも、おずおずと引き下がったのだった。
ちなみに、シリコンバレーがどういうところで、アメリカのどこか、高志が全く知らなかったことは、言うまでもあるまい。
次の日、藤村課長と顔を合わせるのは、さすがにしんどかった。なにせ、上司が洗脳されていると分かったのだから。洗脳された人間というのは不思議なもので、自分が洗脳されているとは全く思っていない。それどころか、妙な自信家となり、目が座り〈逝って〉いる。藤村課長も典型的な洗脳人間だ。昨日のことなど何もなかったように、自信に満ちて仕事をこなしている。
高志は、仕事をしていても気持ち悪くて仕方なく、誰かに昨日のことを話さずにはいられなかった。
[誰に話せばえぇんやろか? まわりの連中も藤村課長に勧誘されて、もう洗脳されてるかもしれんしなぁ。ほや! 下村先輩や!]
とは思ったものの、事業部が違うので、社員食堂でたまに会う程度だ。
[まずは、久藤さんに探りをいれてみるか。]
久藤さんとは、高志のはす向かいに座っている女性の久藤良子だ。高志の二年先輩だが、短大卒なので同い年の二十八歳。顔は普通、スタイルも普通、服装はダサく、性格はおとなしいが大ざっぱ。おとなしい性格なので、意気地なしの高志とは合わないと思い込んでいた。そのため、入社して一年間は一度も言葉を交わさなかった。初めて話してみると意外と馬が合って、入社六年目の今では、一番話しやすい人になっていた。そして、高志にとって、生まれて初めての東京の女友達(≒埼玉の女友達)だ。
「久藤さん、きのう藤村課長に誘われて表参道に行ったんだけど・・・」
「えっ、私も先月行ったよ。」
「で、どうだった?」
「断ったよ。興味ないから。」
[よっしゃ~。仲間じゃ~。]
思わず、心の中でガッツポーズ。
「でも、あんまり大きな声で言えないんだけど、この課でセミナーに入会した人、たくさんいるみたいだよ。」
ありがたいことに、課員の中で入会した人の名前を教えてくれた。なんと六人もいた。高志と久藤良子を差し引くとほとんど全員だ。名前の出なかった一人は、百田智彦だ。彼は高志の一年先輩で、久藤良子と付き合っていると噂されている男だ。
「百田さんは?」
と訊くと、久藤良子は決まり悪そうに、
「入ったみたい。時々お手伝いにも行っているみたいだよ。」
寂しげな久藤良子の様子から、百田智彦と付き合っていることは間違いないだろう。しかし、破局は近いのかもしれない。
[よっしゃ~。別れろ~。]
思わず、心の中でガッツポーズ。
久藤良子とは、ただのお友達。と表面上は装っていたが、実は、高志は良子との間に、入社から六年間で累計三百八十七人の赤ちゃんを作っていた。妄想の中で。
[よっしゃ~、今夜は三百八十八人目の赤ちゃんを作ちゃるぅ~]
興奮する高志だった。
* * * * *
数日後、高志は社員食堂で下村直人と出会った。自然な流れで一緒に食事をとった。
[下村先輩にも、藤村課長の洗脳のこと話しておかんとなぁ]
高志は語りだした。
「下村さん、このあいだうちの藤村課長に誘われて表参道に行ったんですけど。」
優しい下村は、微笑みながら聞いてくれた。
「それが、ひどくてねぇ。自己啓発セミナーって聞いたことあります? あれだったんですよ。藤村課長だけじゃなくて、うちの課ほとんど全員洗脳されているんです。アホですよ。大金払ってあんなセミナー通うなんて。」
高志が怒りを込めて、一気にそう話すと、下村は微笑んだまま優しく言った。
「えっ? 良かったよ。すっごく良かった。」
高志を見る下村の目は〈逝って〉いた。
洗脳は怖いです。現在もブラック企業という名の洗脳集団があります。
気を付けましょう。