はじまりとおわり
どんな結末を望みますか
百とある結末の中から
楽観主義者とあざ笑われても
つねに幸福な結末を望みたい
幸福な結末を信じ続ける
愚か者で私はありたい
「おぉ、目を覚ましたか。」
笛吹き童子は、水桶を脇に置くと、男の傍らに膝をついた。
男は、状況がつかめないのか、ぼんやりした顔で笛吹き童子を見ると、不思議そうに目をしばたいた。
「ここは何処じゃ。」
「ここは、山の奥。
山神様のご寝所じゃ。
まぁ、寝所と言っても、山神様がお目覚めになることはもはや無いが。
これが、山神様の木じゃ。」
笛吹きはそういうと、天高く伸びる木を誇らしそうに指さして見せた。
「山奥に、童とは、奇怪な。
下の里の者か?父や母はどうした。戦火に追われて、ここに来たのか?」
「里の者では無い。
人でも無い。我は笛吹き。
この山の笛吹きじゃ。」
笛吹き童子はそういうと、帯に挟んだ笛を叩いて見せた。
「それよりも、腹が減っておるじゃろう。三日三晩、ずっと眠っておったのじゃから。」
笛吹き童子は、集めておいた木の実を割ると、男の手に握らせる。
男は、恐る恐る口に含むと、その瑞々しさにむさぼるように食べ始めた。
「良かった。食べる力があるということは、生きる力があるということだ。
けれど、そんなに慌てて食べると、体が驚くのではないか。」
笛吹き童子の言葉のとおり、男は木の実の汁に咽込むと、まだ治りかけの着ずに酷く響いたのか、うめき声をあげて体を丸めた。
「何やら、忙しそうじゃのう。
苦しい上に痛いのか。
しばらくは大人しくしておいた方が良いと思うぞ。」
笛吹きの言葉に、男は居住まいを正すと、礼儀正しく頭を垂れた。
「っ、ごほん。世話をかけた。」
笛吹き童子はきょとんとした顔をすると、得意そうな照れ笑いを浮かべた。
「我は山神様や狗たちに世話ばかりかけていたが。
よその世話を焼いたのは初めてじゃ。
さぁ、世話焼きついでに、背中の傷を洗って、薬草をとりかえよう。」
男は笛吹き童子の言葉に首をかしげつつも、笛吹き童子の言葉に従い、仰向けに横になった。
「我は良く転んでは怪我をしていたので、この手の傷には慣れておるのじゃ。
ちぃとばかし、この方が酷いがのう。
この薬草は傷の治りを早くする。
我もよく膝小僧や、脛に貼りつけてもらったものじゃ。
今は遊ぶ相手もおらんので、傷をこさえることも無くなったが。」
「一人でいるのか。こんな所に。憐れな。傷が治れば、里へ連れて行ってやろう。」
男の言葉に笛吹き童子は、違うのだと首を振った。
「だから言うておろう。我は、この山の笛吹きじゃ。どれ、聞かせてやろう。」
笛吹き童子は、男の手当てを終えると、手ぬぐいで手を拭いてから、帯に挟んだ笛を取りあげ、ふぅぃと息を吹き込んだ。
調子はずれの笛の音が、高く低く響き渡る。
男は、驚いた目で笛吹き童子を見ていたが、くすりと口の端に笑みを浮かべた。
「なんとも調子はずれな笛の音じゃ。けれど、不思議と心地いい。」
男はそう言うと目を閉じる。
やがて、男の呼吸は静かに落ち着き、男はそのまま眠ってしまったようだった。
男は自らを捷武と名乗った。
よく鍛え上げられた体と瑞々しい山の気のおかげで、傷は見る間になおっていった。
「ふむ。どうにも、納得はゆかぬが、お主が人の子と違う事は信じざる終えん。」
高い木の梢から、綿毛のようにふうわりと飛び降りてきた笛吹き童子を見て、捷武は不承不承言った。
「幼き頃、寝物語に、鬼や化生の話は聞いていたが、よもや本当に在るとは思わなんだ。
だが、人外の者は、もっぱら悪さをすると話にはあったが、助けられるとは。」
笛吹き童子は首をかしげると捷武に聞いた。
「悪さとは何じゃ。」
「人を騙したり、人をくろうたり。怖ろしい事じゃ。」
「そんな事はせんよ。意味がなかろう。
確かに森の獣が人を殺すことはあったが、それは人が縄張りを荒らしたからだ。
意味無く殺すことは無い。
山神様も、森の生獣たちも、笛の音が好きで、笑って踊ることを何より好んでいた。」
そう言うと、笛吹き童子は懐かしそうな顔で、さっきまで上っていた大木を見上げた。
捷彦もつられて、空を割る見事な木を見上げる。
「そうして、この木が山の神だというのか。
大層立派な木ではあるが。
残念ながら、私には只の木にしか見えぬ。
お前のように目の前におらねば不思議の者を信じられんのだ。」
笛吹きは木を見上げると寂しそうに笑った。
「黒狗も似たようなことを言うていたなぁ。
これは山神様であったものではあるが、只の木にすぎないのか・・・。
しかし、やはり、この木がかつては山神様であった以上、我はここから動けないのだ。
お傍にいたい。
我は山神様の笛吹き童子なのだから。
傍にいなければ、我は何物でもなくなってしまう。
のぅ、捷武殿。
たった一本の木じゃ。ほんの一欠けの土地じゃ。
人は沢山の木も、沢山の地面も手に入れたではないか。
ここだけは、静かに踏みいらんでは、いてくれぬか。」
捷武はしばらく思案すると、渋い顔で言った。
「恩人の頼みじゃ。聞いてやりたい。
しかし、たった一本の木、ほんの一欠けの地でも欲するのが人の性なのだ。
私が約束をしたとしても、別の人間がいずれ、足を踏み入れるだろう。」
「強欲じゃ。
それでは、いつか伐る木も削る地面も、無くなってしまうではないか。
そうなった時、人はどうするか。」
真っ直ぐな瞳で問いかける笛吹き童子に、捷武はうぅんとうなると、腰の剣を抜き放った。
刀身は綺麗に磨かれ、木漏れ日をうけてキラキラと輝く。
「創るのだと思う。
人は欲が深い。
もっと強いものを、もっと美しいものを
求めに求めて、鍛え上げられたのがこの剣だ。
鍛冶師が鍛え、研ぎ師が研ぎ、細工師が細かな細工を施した。
奪い破壊しながら、人は創りつづけるのだと思う。」
笛吹き童子は、きららと光る剣を見ると、ほぅっと感嘆の息を吐いた。
「そうか。
創る・・・のか。
なるほど。
それは、それで、尊いことだものな。」
笛吹き童子はそういうと、帯の間に挟んでいた笛を取り出すと、ふぅいと息を吹きこんだ。
何度も奏でた音色を、繰り返し、繰り返し。
笛吹き童子は吹き続けた。
正円からわずかに欠けた月が、天上に上っていた。
捷武は、寝所にと使っていた洞の中から出ると、うんと伸びをした。
笛吹き童子が山神だと言っていた木は、まっすぐと伸びあがり、月にまで届こうかと言う勢いだった。
「・・・それでも、やはり私には只の木にしか見えない。
神は語りの中の住人に過ぎないし、神聖さを感じるには、あまりにも多くの血にまみれてしまった。
だからであろうか。
幼い童が、例え人でないのだとしても、このような山奥に、ただ一本の木とともにあるためだけに、縛り付けられているのはむごいと感じてしまうのだ。」
捷武は剣を鞘から抜き放つと、上段にかまえ、えぃと気合を入れて振り下ろした。
すぱんと、乾いた音とともに、大木から枝が一本切り落ちた。
捷武は足元に落ちた枝をひろうと、木の元に腰をおろし、小柄を取り出した。
笛吹き童子は夢を見ていた。
山神様が木になられた、直前の過去を夢に見ていた。
「神世から人世へ時は流れたのだ。わたしは人世で生きるために、木として生まれ変わるらしい。
お聞き、笛吹き童子。生は途絶えたとしても、命はね、形を変えながら、連綿と続いていくものなのだよ。
狗に喰われた兎の生はそこで尽きるが、兎の命は狗の生につながるのだ。
あまたの命を喰らい、生きた狗もやがて、命を終え、地に横たわるだろう。
狗の生はそこで終わるが、狗の躯は大地にとけて恵み豊かな土壌となる。
そこに、ある日、種が落ち、長い年月をかけて木となるだろう。
木は果実をつけ、ほら、お前に喰われて、今、お前となった。
全ての命は連綿と繋がっているのだ。
お前の中には沢山の命があり、お前の生が果てた時には、お前の命は同じように、あまたの命と溶け合い、拡散し、次の生へとつながるのだ。」
「けれど、山神様はいなくなってしまうのでしょう。」
山神は輪郭すらもう覚束ない。ゆらりゆらりと、陽炎のように、姿が揺らぐ。
「そうだね。私はいなくなるけれど。
この木には、私の命が宿るのだよ。
お前とこうして言葉を交わすことは無くなるけれど、木となった私は、きっとお前の笛の音に梢を揺らして笑うだろう。
笛吹き童子。
世界がね懐かしく温かいのは、世界がね愛おしいのはね。
それはね、世界は失った愛しい人の命で溢れ、世界はお前がこれから愛する人の命を繋いでいるからなのだ。
だから、広すぎるこの世界で、小さすぎる命でも寂しくは無いのだよ。」
山神はそう言うと、ふわりと大気に消え去った。
そしてその後に、頼りなげな若木が一本、立っていたのだ。
山神は木になったのだ。
つんと鼻が痛くなって、笛吹き童子は目を覚ました。
何度も何度も繰り返し夢に見ているのに、夢でその瞬間を繰り返す度に、涙がやはり溢れるのだ。
笛吹き童子は、濡れた頬を拭うと、捷武の様子を見るために、山神の木の梢からひょぅいと飛び降りた。
「あれ?捷武殿?洞ではなく、何故このような所に。
人の子の身で夜外で過ごすには、あまり良い気候ではないであろう。」
捷武はうぅんと伸びをする。
木の元で座るように眠っていたせいか、こわばった体がぱきぱきと鳴った。
捷武は、ぶんぶんと腕を振り回したり、腰を捻ったりして体を動かしてから、笛吹き童子に言った。
「笛吹き殿。この通り、私の体は治ったようだ。そろそろ、お暇しようと思う。」
笛吹き童子は目をぱちくりとしばたいた後、寂しげな様子で言う。
「もうしばらく、いてはどうか。下は酷く荒れている。
もうすぐ冬だ。ああも田畑が荒れていれば、食料もままならないだろう。」
「だからこそ、行かねばならん。
冬になる前に、決着をつけねば。
私の兵達だけでは無い、この国の罪なき人民も、飢えにあえぐことになる。
決着をつけ、東の我が国から、必要な資材・食料を調達せねば、多くの命が失われる。」
笛吹き童子はもう一度目をしばたくと、小さく頷いた。
「捷武殿は、己の成すべきことを知っておるのだな。
ならば、行かねばならんのだろう。
私は、笛を吹いて見送るとしよう。」
帯の間に挟み込んだ笛をとろうとする笛吹きの手をとめると、捷武はにっこりと笑い、懐から真新しい笛を取り出して、笛吹き童子の手に握らせた。
笛吹き童子は目を丸くすると、新しい笛と捷武を交互に見比べる。
「これは?」
「この木から枝を一本拝借して刳り出した。
笛吹きどの笛は随分と古い。調子が外れているのも、古いせいかもしれん。
私には笛吹き殿の望まれることを成すことはできない。
だから、せめてものお礼に、これをと思うたのだ。」
笛吹き童子は震える手で、捷武から笛を受け取ると、そっと頬にあてた。
「山神様は木となられ、そして今、笛となられたのですか・・・懐かしい、温もりがする。」
笛吹き童子は、笛を唇にあてると、ふぅいと息を吹き込んだ。
ひぃぃぃ
高く澄んだ音色が大気に溶ける。
「あぁ・・・愛しい、音がする。」
笛吹きは、唇をあてると、ふぅと息を吹き込む。
ひぃぃぃぃ ひぃぃぃ ひぃりりりりぃぃぃ
「うむ。やはり、とても良い音じゃ。」
捷武は腕を組むと、笛の音を楽しむように目を閉じた。
ひぃぃぃぃ ひりりりぃ ひぃぃぃぃぃ
ひぃぃぃ ひりぃぃぃぃ
存分に新しい笛を堪能すると、笛吹き童子は捷武の袖を引いて、晴れやかに笑った。
捷武も笑みを返すと、静かに言う。
「笛吹き殿。
その笛を持ち、この地を去られよ。
この地には、哀しいけれど、笛吹き殿の笛の音を聞くものはもうおらんのだ。
傲慢な勝手を申しておるのは、百も承知じゃ。百も承知ではあるが・・・。」
笛吹き童子は、笑顔のままふるふると首をふると、さっと身を翻すと、笛を吹きながらゆっくりと、踊るように歩き去る。
その背中は、次第に大気に溶け、森の中に隠れる前に、ふぅっと溶けるように消えてしまった。
捷武は目をしばたくと、頭を激しくふった。さぁっと風が渡る。
「消えた・・・。長い、夢でも見ていた気分だ。」
けれど捷武の手の中に残された古い笛が、笛吹き童子は確かにいたのだと、教えていた。
捷武は確かめるように笛に口をあてると、静かに息を吹き込んでみる。
すぅぅぅぅ
罅の入った古い笛は、音を奏でることは無かった。
捷武は、もう一度首を振ると、微かに笑って、音の成らない笛を帯に挟み込んだ。
それから、顔を引き締めると、人の世の戦いに決着をつけるべく歩き出した。
高い木の梢に留まり、まぁるい、黒い賢い瞳で、全てを見ていた烏が、くわぁと一声鳴いた。
「笛吹き童子は解き放たれた。
何も変わらず、何も生まない神世の者では救う事しかできなかった、笛吹き童子の魂が、破壊と創造を性とする人世の者に解き放たれた。
神世と人世の交差点。
そこには、つまらぬ悲劇しかないと思っていたのに。
幕が引かれる前に、全ての役者が舞台から降り、自由になると言う結末があろうとは。」
烏はもう一度、くわぁと鳴くと、大きな翼を広げ、ばさりと空へと飛び立った。