未来と今と過去
笛吹き童子は山神の木の元で、今日も笛を吹いていた。
山神様と笑うため、山神様を守るため、吹いた笛ではあるが、ともに笑う人もおらず、守る力も無いと知れた今、もはや何のために吹いているのか笛吹き童子にもわからなかった。
けれど、笛吹き童子にすがれるものは、山神の与えてくれた笛しかない。
だから、ひたすらに意味もわからずに吹くしかなかった。
かさり、と草を踏む音に、笛吹きは笛を吹く手を止めると、音の鳴った方をみやった。
獣にしては、重い足音に、笛吹き童子はおそるおそる、藪の中へと声をかける。
「誰じゃ。そこにおるのは。誰じゃ。」
笛吹き童子の誰何に答えるように、藪がごそりと切り取られ、満身創痍の武将が血にまみれた剣を杖に姿を現した。
男は鷹のような目で、虚空を睨むと、ばたりと草原に倒れ伏した。
笛吹き童子は慌ててかけよると、男の傍に膝をつく。
男は全身に刀傷を受けているようであったが、何よりも背中を一文字に切り裂いている傷の酷さに、笛吹き童子は息をのみ眉をしかめた。
「こんな傷を負って、よくも人里からここまで来たものだ。何者だというのだ。」
ばさばさと大きな羽音とともに現れた烏は、笛吹き童子の肩にとまると、くわぁと一声鳴いた。笛吹き童子は烏をみると、不思議そうに目を丸くする。
「烏殿。最近、よく会う。」
烏は、黒い賢い目をつるりと光らせると言った。
「見ておりますから。この悲劇の結末を見逃さないために。」
烏の言葉に、笛吹き童子はきょとんとした顔で首をかしげた。
烏は、もう一度、くわぁと鳴くと、倒れ伏している男へと頭を巡らせた。
「あぁ、かれは。
東の王の末子です。
この山へ押し寄せてきた兵隊たちを率いてきたのが彼です。」
「とすると、この国が東の国に勝ったのか。」
烏は首を振ると言った。
「裏切りですよ。彼が率いてきた兵の中に裏切り者がいたのです。
東の王の末子は、武に秀でたりと聞こえ高い。
敵に背中をばっさり切られるはずもない。
背中を預けていた者に、ばっさりと切られたのです。
大方、2人いる兄皇子達のいずれかの仕業でありましょう。
東の王の末子は、兵とよく言葉を交わし、武を高め合い人望篤い。
また、気さくで朗らかな人柄は民人にも好まれている。
この遠征を成功させ、鉄の生産を一段と飛躍させたならば、当然、父王の覚えもよくなり、下手をすれば家督相続ということもありえましょう。
ありきたりな、権力にまつわる、兄弟同士の命の取り合い。」
笛吹き童子は、烏の話を聞き終えると、里の方角をじっと見据え、耳を澄ませた。
「しかし、里からの悲鳴はやまない。
大将がいなくなったのだから、戦は終わったのではないのか。」
烏は笛吹き童子の横顔を見ると、面白くもなさそうに言った。
「統率する者を失った兵は、山賊か盗賊です。力
の使い方を知らず、我が物顔に逃げる民人を襲っているのです。」
笛吹き童子は立ち上がると、沢へと足を運んだ。
「何をしておいでか。」
後を追いかけてきた烏の問いかけに、笛吹き童子は沢に生えている草を摘み取りながら言った。
「薬草を摘んでいる。山神様に教えていただいたのだ。
この草は血止め草と言ってな、その名の通り、血をとめる。」
「助けるのですか、あの男を。」
「放ってはおけまいよ。
どこぞ山中で朽ちてもいいのに、我の前に現れたのだから。
我に出来ることをせよ、ということであろう。」
「あの男が回復すれば、この国は、この山は確実に東の王の手に落ちますよ。
それほどに、あの男は戦上手。
戦はたちまち、収束し、ここらは東の王の手中に納まる。
東からはあまたの人足が押しかけ、奴隷となったこの国の者とともに、この山はあっという間に、食い尽くされましょう。」
笛吹き童子は、薬草を摘む手を止めると、ぽつりと呟いた。
「恐ろしい話だ。けれど、それはまだ訪れていない未来でもある・・・」
「未来はね、そうだね、夜の闇のようなものなのだよ。
思いめぐらし、怖い怖いと、先ばかり目を凝らしていれば、足元に地面なんか無いように感じてしまう。
四方八方暗闇で、その中にぽつねんと取り残され、闇に浮いているような不確かであやふやな気分になってしまう。心はくるくると闇の中へ墜ちて行ってしまう。
だけどね、足元をよく見てみれば、何てことは無い。
ちゃんと、両の足は地面を踏んでいるんだ。
だから、未来を恐ろしく感じるときほど、今、この瞬間を良く見て、大事にしなさい。
そうすれば、例え恐ろしい未来に行き着いたとしても、過ごした今が過去として残るから。
それは、錨となり、標となるだろうよ。」
力が衰え、じっと座っていることが多くなった山神は、膝に縋り付いて泣く笛吹き童子に言った。
「けれど、山神様が死んでしまえば、我は一人になってしまう。」
「私はまだ、死んでいないし、お前は、ほら一人では無いではないか。」
山神の言葉に答えるように、心配性の狗たちがするりと笛吹き童子に体を寄せた。
「まだ訪れていない未来を怖がり、この時を無為に泣いて過ごすのかい?
そんなこと、勿体なくて仕方ない。
ほら、見てご覧。
月は満月、花は盛り。
泣いて過ごすにはあまりに勿体ない。
笛を吹いてはくれまいか。
私は、今、お前の泣き声ではなくて、笑い声が聞きたいよ。
今この時を、お前たちと楽しく愉快に過ごしたいのだ。」
山神の言葉のとおり、天上にはまぁるい月が昇り、大気は花の薫にみちていて、それは美しい宵であった。
「今・・・」
「そう、今なのだよ。
私たちは今を生きているのだから。
未来のために生きているのではない。
今あるから、今を生きているのだ。
今、お前は何がしたい?」
笛吹き童子は頷くと、笛をとりだし、ふぅいと息を吹き込んだ。
調子はずれの笛の音に、月がきゃらきゃらと笑った。
山神も狗たちも、わははと笑い手を叩いた。
「・・・我は、あの時、我は笛を吹けて良かった。
あの時、我は笑えてよかったと思うのだ。
あの宵は、過ぎ去りはしたけれど、思い出す度に、幸福な気持ちになれるから。
あの時過ごした“今は”、一人である“今”、我の錨となり、標となっている。
起こってもいない未来を恐れ、何もせずにいるなどできないのだ。
だから、今は、あの男を助けようと思うのだ。
今生きている、私が、今、傷ついている男を見て、助けたいと思うから。」
からす:傍観者
人世のもの(人)と神世のもの(神や笛吹き童子、黒狗)の間に立つ者。
獣である一方で、知恵もつため、人とその他の者のせめぎ合いの結末を見届ける存在となる。