おわりのはじまり
ひぃぃぃ ひりぃぃ りぃぃ
ひぃぃ ひりりぃぃ
ひぃぃ ひぃぃ ひりりりぃぃぃ
この山の一番高い木の一番高い梢の上から、今宵も笛吹き童子の笛の音が、夜風にのって、山から里へと吹き降りる。
調子はずれの笛の音は、気味が悪いと言うよりも滑稽で、どんなに厳めしい顔の者でも、ひとたび耳にすれば、思わず口角を緩めるであろう。
そんな笛の音に誘われてか、この山一番の強者の黒狗がのそりと闇から姿を現した。
黒狗は、よぉく聞こえる大きな耳をしばらく笛の音にすませると、鼻尻に皺を寄せる。
それから、こらえきれなくなったとばかりに破顔して、うひゃひゃと笑い声をあげた.
黒狗は、高い木の一番高い梢をみあげると、親し気に声をかける。
「笛吹きよぉ。笛ふきよぉう。」
黒狗の呼ぶ声に、笛吹き童子は笛を吹く手を止めると、笛を大事に帯の間に挟み込み、ふぅわりと梢の上から地面へと舞い降りた。
「何ぞ用か?」
「うむ。相変わらず、下手糞な笛じゃ。」
黒狗の言葉に、笛吹きはむっとした顔をすると、ぽかりとその頭を叩いた。
「そんな事を言うために呼んだのか。」
「いや、違う。違うがちっとも上手くならんお前の笛に、つい言葉が口をつくのだ。」
「教わる相手がおらんのだ。上手くなるはずもない。」
そう言ってから、笛吹き童子はしゅんと項垂れた。
笛吹き童子をこの世に創りだした、山神が一本の木となってからもう幾年月。
最初は若木であった拙い木は、今はでこの山一番の巨木へと成長した。
そんな、永い永い時を経たというのに、笛吹き童子が山神を忘れることは無い。
黒狗は笛吹き童子の心中を察してか、慰めるように大きな体を小さな体にすりよせた。
しかし、黒狗にしてみれば優しく体をすりよせたつもりでも、その体格の差に、笛吹き童子はどぉんと吹き飛ばされると、地面に尻もちをついた。
「何をするか!」
「おう、しまった。慰めるつもりが怒らせてしまった。すまぬ、すまぬ。怪我しとらんか。」
黒狗は笛吹きをのしりと押さえつけると、怪我をしていないか確かめるように、ふんふん、すんすんと臭いを嗅いで回る。
笛吹き童子はくすぐったさに、への字で怒りを表していた唇をゆがめると、降参したように声をあげ笑い出した。
「もういい、もういいよ。なんともない。それより、黒狗、何の用だ。」
黒狗は本来の用向きを思い出すと、行儀よくちょこんと座りなおし、背筋を伸ばすと、おもむろに神妙な顔をつくった。
「笛吹きよ。とうとう、わしらもこの山を去ることにしたんじゃ。
この辺りの人の群れは酷く大きくなってきた。
山に分け入っては小獣を狩り、山を削っては田畑に変えている。人も群れを維持するためだ。
せんない事だが、山は日に日に小さくなっている。おかげで、俺たちの食物も日に日に足りない。
これではわしらの群れがままならん。
人をおうか、わしらがおわれるか。強いものが残り、弱いものが去る。
個ではわしらの方が強い。
だから、勘違いをして多くの同胞を見送った。
個ではわしらの方が強いが、群れでは人の方が、どうやら幾倍も強いらしい。
ようやっと、気が付いた。
気が付いたからには、もはや、争うことは無為だ。
残った群れをまとめて、わしらは去る。この森を去る。
北へゆく。北の地は、まだ人踏み入らず、豊かと聞いた。
わしらの群れも、あるいはそこで、新たにつなげるかもしれぬ。
だからのぅ。笛吹き。
お前も供に来い。
わしらが去ればこの山は人のものになろう。
人のものになれば、山はすぐにでも田畑にかわるだろう。山はなくなる。
だから。のぅ。笛吹き。
わしらと供にゆこう。
新しい山を見つけに。供にゆこう。」
笛吹きはよぃっと立ち上がると、今まで自分がこの山で一番高い木を仰ぎ見た。
天を割るかのような勇壮な姿。
立派な古木。
尊い人の面影などどこにもないというのに、それでも尊い木。
笛吹きは、しばらく静かに木を仰ぎ見た後、小さく笑って微かに首を振った。
「我は、ここにいる。」
「この山には山神はもうおらんのだぞ。」
「それでも。それでも、離れられぬこともあるのだ。」
黒狗は、ふぅとため息をつとく、後足で耳の後ろを、かかっかと掻いた。
「山とともにゆくか。
お前の応えは予想してはいたものの、予想が外れて欲しいとも思っていたのだ。
お前はこの山の・・・この山の山神の笛吹きだものなぁ。
わしは実際に山の神に会ったことは無い。
だから、山神がお隠れになったという、この木も、立派ではあるとは思うが、それでも、只の木にしか見えぬ。
だから、只の木とともに、お前までゆくのかと思うと、なんとも言えぬ気持ちになる。
なんとも言えぬ気持ちにはなるが、けれど、笛吹き。
お前の眼には、この木も別のものにうつるのだろう。
それを、わしは知ることは無い。だから、仕方あるまい。
お前の笛を懐かしんで、わしらは去るとしよう。
うむ。
あぁ。
寂しくなるなぁ。
わしらは、お前の笛が大好きなのだ。その下手糞で愉快な笛の音が、大好きなのだ。」
黒狗はそう言うと、大きな耳をぱたぱたと動かした。
笛の音が聞こえているかのように。
笛吹きは、困ったような、寂しいような、それでいて嬉しいような、不思議な貌をした。
「・・・音は風に乗るよ。
風はどこへとも吹く。北の地へも吹く。
お前たちの耳はとてもよいから、きっと聞こえる。
懐かしむことなどないよ。わたしは毎夜笛を吹くから。」
笛吹き童子の言葉を受けてか、そより、そよりと夜風が流れた。
そより、そよりと流れた夜風は、黒狗の立派な毛皮と、笛吹き童子の真黒い髪を、ふわり、ふわりと優しく揺らす。
「確かに。風は吹く。どことへも。そして、わしらの耳は良い。
とても良い。」
黒狗はそう言うと、ごろりとその場に横になった。
笛吹き童子は、黒狗の体にもたれるように座り込むと、帯に挟み込んだ笛を唇にあて、そっと息を吹き込んだ。
ひぃぃ ひりぃ ひぃぃぃ ひりりぃ
ひぃぃ ひりぃぃいぃ ひぃぃいいりぃぃ
調子はずれの笛の音は、柔らかい夜風に乗って、山をふわりと包み込み、やがて、どこぞへと笛の音を運び去っていった。
黒狗は、風の行く先を確かめるように鼻をひくつかせると、やがて満足したように、黄色く光る目を閉じた。