6.望み
「本当に全く答えになってないけどな。じゃ、質問を変える。君はここで何をしてんの?」
「何って……本を読んで、世界のことを学んでる」
「学ぶために、ここにいるってこと?」
「ううん。そうじゃないよ。わたしはここにいなければならないのだけど、ただいるだけではわたしが嫌になってしまうから、学ばせてもらってるの」
「ここに、いなければならない……?え、と、それはつまり、ここにいることってのが先に立つわけ?」
「うん。それが第一義だね」
事もなげに言ってのけるセシェルの笑みは、全くの暗さがない。だが、その明るさこそが異常なのだと、ようやくアサトは気づいた。そしてさらに、浮かんだ疑問を恐る恐る口にする。
「ちなみに、“ここ”っていうのは、この“天上の教会”って意味だよな?“この部屋”って意味じゃなく」
「この部屋に限定するわけなんてないでしょう」
にっこり笑ってそう答えるセシェルに、アサトはほっと息をついた。だが、続けられた言葉に凍りつく。
「隣の部屋にも、好きな時に出入りできるよ」
「え――」
「隣は書庫になっているんだよ。すごく広くて、世界中の書籍が集められてるんだって、前に僧正様が」
「ちょっと、待て」
どうやら自慢らしい書庫について、嬉しそうに語られる言葉を、アサトは青い顔で遮った。
「今、何て言った?」
「世界中の書籍が集められてるんだって――」
「その前」
「隣は書庫に」
「その前!!」
「隣の部屋にも、好きな時に出入りできるよ……?」
「隣の部屋にも?」
「うん。世界のことを色々知りたいって言ったら、僧正様は書庫の続きのこの部屋をくれたの」
「つまり、君の行動範囲はこの部屋と、隣の部屋だけ?」
まさか、という思いで口にした問いに、セシェルはあっさりと頷いた。
「そうだよ?」
それがどうしたの?とでも続きそうな口ぶりだった。
「外に、出たことないのか……?」
「まさか」
そう笑って見せるセシェルだったが、アサトは最早騙されなかった。きっと、また言葉を字面の通りにしか受け取っていない。きちんとした確認を取るためにはもっと、確かな言葉が必要なのだ。
「でも、一人で、好きな時にこの二つの部屋の外へ出たことはない。違うか?」
「あ、うん。それはそうだね。わたしが外へ出る時は僧正様が連れて行ってくれる時だから」
「…………何だ、それ……」
思わず頭を抱えたアサトを、セシェルはきょとんと見やる。きっと、なぜ彼がこんな風に打ちのめされているかなんて、想像もできないのだろう。生まれてからずっとこんな地下に閉じ込められているという自分の境遇を、全く不思議とも思っていないこの子供なら。
「何で、そんなことに……」
呻くようなアサトの声に、返ってくる答えは簡潔だった。
「そのように定められているから」
そこには、諦めの色すらなかった。諦めるためには、その前提として希望がなくてはならない。目の前の子供は、その希望を持つことすらなかったのだと、その声から思い知った。
次の瞬間、湧き上がってきたのは怒りだった。
「ふざ、けんな……!」
「え?」
「何だ、それ!定められてるって、誰にだよ!こんな地下の、穴倉みたいなところに子供を閉じ込めて、それが当然だと?ふざけんな!!!」
吠えるように叫んだアサトに、セシェルは驚きに目を丸くして固まった。その表情を見て、アサトは我に返る。
「あ、悪い。その、別に、君に怒ってるわけじゃない」
我に返り、努めて冷静な口調を心がけながら、アサトは言う。
「でも、おれは君の扱いはおかしいと思う」
対するセシェルは不思議そうな顔のままだ。
「おかしい?」
「だって、さっき言ってたよな?世界のことを学びたいって僧正様に言ったって」
「うん。この世界には、わたしの知らないことがたくさんあるんだよ。わたしはそれを、できる限り知りたい」
自分が友に告げたのと全く同じ言葉に、アサトは目をみはる。続いて出てきた言葉は、ほぼ反射に近かった。
「本の中の知識だけでいいのか」
自分にも覚えのある感情だから、分かる。実感の伴わない、ただの言葉の羅列だけで、満足なぞできるわけがない。
「それは――」
案の定、その言葉に初めてセシェルの顔が曇った。そこへ、アサトは淡々と続ける。
「ある程度は、想像で補えると思う。でも、焼けつくような日差しにも、骨まで凍りそうな風にも、柔らかくて温かい土にも、むせ返るように生い茂る草にも、触れたことのない君の想像力なんて、たかが知れてると思わないか?」
冷たく切りつけるような言葉だと思う。何も答えないセシェルの顔から、一切の表情が消えている。自分は、ひどく残酷なことをしているのだろうと自覚しながら、でもやっぱり、この子を――この美しいけれどいびつな子供を、そのままにしておきたくなかった。
「本物を、見たいと思ったことはないのか?そう思うことは悪いことなのか?悪いことだからと我慢させて、こんな地下牢みたいな所に閉じ込めているのが、本当に正しいのか?」
そんなわけがあるものか。もしも世界の定めがそれを正しいというのなら、その定めが間違っているのだ。
「わたしには、分からないよ……」
言って、アサトを見上げた瞳は、思いがけないほど強かった。
「正しいか間違っているかなんて、わたしには分からない。でも、アサトは間違ってると言うんだね」
真っ直ぐにこちらを見る緑の瞳が、アサトを射抜く。それに感じたことのないような高揚を覚えながら、アサトはゆっくりと頷いた。
「うん。何度でも言う。何が定めたか知らないけど、君がこんなとこに縛り付けられてるのは、絶対におかしい」
「そんなこと言った人、初めてだよ」
「まったく、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだな!」
改めて憤慨しながら、アサトは目の前の瞳を見据えて、言った。
「じゃあもう一つ。これもきっと、誰からも言われたことないだろうから、おれが言う」
セシェルの瞳は揺るがない。その瞳を見ながら、やっぱり綺麗な子だな、と場違いな思いが頭をかすめる。だが、この美しさはこんな地下に人形のように後生大事にしまわれていたせいで、人間らしくなれなかったせいだとも思う。この人形のような子を、きちんと人に戻してやらなくては、いけないんじゃないだろうか。アサトを突き動かしているのは、そんないかにも少年らしい思いだった。
「ここから出たいと、ここを出て、世界中の色んなものを見て回りたいと、思わないか」
問われたセシェルは、今度は面白そうに笑う。
「本当。そんなこと言った人も、初めて」
くすくすと笑う姿に、アサトはやはりな、とため息をつく。
「だろうと思った。で、どう?」
「どうって?」
「だから、ここから出ていきたいと思わないの?」
「…………考えたこと、なかった」
「じゃ、今考えてみれば。世界の色んなものを、実際にその目で見てみたくはない?」
問われて、しばし押し黙る。しかし、そのセシェルの逡巡も、長くはなかった。
「思っても、いいのかなあ……」
「何が?」
「ここを出て行くってこと、考えても」
「いいに決まってるだろ。だいたい、僧侶でもないのに、寺院にずっといること自体がおかしいじゃないか」
「そうかもしれないけど。でも、わたしは外のことを本の中の知識以外、何も知らないよ?出て行っても、きっと何もできないよ」
「じゃ、おれが連れてってやろうか?」
軽く、あまりに軽く出てきたその提案は、アサトの友人たちが聞けば、驚倒しただろう。彼のその言葉は、寺院を捨てると同義なのだから。だが、セシェルにはその言葉の重い意味は分からない。だからこそ、彼の言葉に目を輝かせた。
「本当?」
「うん。おれと、一緒に行こうか。そうしたら、君はここを出たい?」
歳相応の少年の顔で、アサトは問う。セシェルはそれに、嬉しそうに頷いた。
「うん。アサトと一緒にここを出て、世界中の色んなものを見てみたい」
「よし、じゃあ――」
「そこで何をしている?」
静かな声が響いたのは、その時だった。
はっと振り向けば、そこには二人の僧侶が立っていた。
青の衣を着た、アサトの記憶が確かなら、この寺院の僧正。一人は感情のうかがい知れぬ冷徹な目で、もう一人は怒りに顔を赤らめて、こちらを見ていた。
「僧正様」
人を疑うことなど知らぬであろう、セシェルの声が聞こえる。だが勿論、アサトがそれに倣うことはできない。万事休す、だ。
「そこで何をしている、と問うたはずだが」
冷たい声でそう繰り返す僧正に、セシェルが首をかしげる。
「何を、とは?アサトとは話をしていただけですが」
「そなたに訊いているのではない。わたしはそこの者に問うている。答えよ。なぜ、ここにいるはずのない者がいる」
「わたしは――」
言いかけて、アサトは言葉を失う。
何を、言えばいいのだろう。
好奇心に駆られて、この場所まで来て、出会ったこの子と話をしていました。
その真実を口にすれば、間違いなく自分は処分されるだろう。
表立って僧侶が処罰されることはないが、不信心者は例外なく処分される。それは、子供とは言え上級僧侶へと駆け上がってきたアサトが見てきた、寺院の裏の顔だ。
「どうした、答えられぬのか」
冷たい言葉に、セシェルが不思議そうにアサトの腕をつかむ。その華奢な手を見て、アサトは素早く頭を巡らせる。今この場で、できる限りのこと、どうすればいいか。
「はい。答える言葉を持ちません」
瞬時に考えをまとめ、真っ直ぐに二人を見返してそう答える。その答えに、二人はそろって目をみはった。
「……ゆっくり、聞く必要がありそうだな」
冷たい言葉に、アサトは薄く笑う。
そう、答える言葉は今はない。
自分の先は見えた。けれど、やらなければならないことがある。
それをやりきってから、処分されようと心に決めて、彼は寺院きっての神童らしく、泰然と二人の僧正を見返していた。