4.扉
アサトが天上の教会に入って、瞬く間に四ヶ月が過ぎた。その間に一つ歳をとり、入った時よりも少しばかり背が伸びた。
日々変化する身体に戸惑いながらも、この地での生活に慣れてきた、ある日。
普段は踏み込まない宿坊の奥で、彼は一つの扉を見つけた。
「扉、だよな、これ……?」
思わず立ち止まってそう呟いたのは、それが壁とほぼ同化していたからだ。いわゆる、隠し扉というやつである。
「なんでこんなとこに隠し扉があるんだろ?」
そもそもが、あまり人が立ち入ることの少ない一画。彼がそれに気付いたのも、偶然だ。
「何があるんだろ」
覚えたのは好奇心。こんな、いかにも隠してありますという顔をしていれば、覗きたくなるのが人情というものではないか。
「誰も、いないよな?」
そっと、辺りを窺うが、人の気配はない。
「よし」
決断は、恐ろしいまでに早かった。
ゆっくりと隙間に手をかけ、引いてみる。
すると、彼が屈んで入るのがちょうど位の大きさの扉が、音もなく開いた。
覗き込んでみれば、中は暗い。どこかにつながっているような通路である。
「隠し部屋かと思ったら、通路か……どこにつながってるんだろ?」
逡巡することすらなく、彼はそのまま通路に足を踏み出す。
その時だった。
「――っ?!」
問答無用の力で僧衣を掴まれ、後ろ向きに引き倒された。首が締まって、一瞬息が詰まる。
「何――?」
誰だと思って相手を見れば、そこには険しい顔をしたメイユの姿。
「……メ、イ……ユ……っ」
咳き込みながらその名を呟くと、メイユは素早くその隠し扉を閉めた。そしてそのまま、猫の子でも掴むように、彼の首根っこを掴んで歩き出す。
「ちょ、メイユ!なに、何?!一体何だって言うんだよ?ちょ、痛いよ、放して!」
回復した喉を駆使して盛大にわめき立てたが、メイユの手は緩まない。そのまま自室まで連行され、ぽいっと部屋に投げ入れられる。
「痛いって!何すんだよ?!」
訳が分からないままのアサトに構いもせず、そっと自室の扉を閉めると、表情を消したままアサトに向き直る。
「な、何……?」
全く感情の読めないメイユの顔に、アサトもさすがに及び腰になった。なまじ整った顔立ちの分、黙って立たれると大変に怖い。
「あそこで何をしていた?」
問われる声は、いつもより低くて小さい。何かをはばかるようなその声音に、さすがのアサトも眉をひそめた。
「何をって、何か隠し扉みたいだったから、何かなって思って」
さらりと言ってのける彼に、メイユは珍しく大きなため息をついた。
「お前な……」
「何だよ、いけなかった?」
「悪いに決まってるだろう。寺院は祈りの場であって、好奇心を満たすための場所ではないと教わって来たんじゃなかったのか」
知りたいという欲求は、寺院の根幹を揺るがす。それを分かっていた始祖は、知識欲を悪だと断じた。そして、今では「知的好奇心が強い」と見なされれば、それは宗教裁判にかけられるほどの、大罪だった。
「知ってるよ、それくらい。メイユだって初めて会った時に言ったじゃないか。純粋培養だって。おれは、一番の正道と言われるツェン派の寺院で育ってきたんだよ?取り巻くものに疑問を持つな。神はそれをそうあるべく作られた。そのことに感謝こそすれ、疑問を持つなど身の程を知らぬ思い上がり、神の恩寵を疑う大罪である。そう言われてることくらい、百も承知」
「だったら」
「でも、その言葉に大人しく従ってたら、おれはここにはいなかったよ」
「おれが、周囲の人たちが驚くくらいに階位を上げて来られたのは、この知識欲ゆえだった。ただ、知りたい。この世の理を。成り立ちを。全て、余すところなく、知りたい。焼けつくようなその欲求だけが、おれの中にあるんだ」
淡々と話す言葉は、今まで誰にも告げたことのないものだ。
だが、自分を突き動かしてきたものを、どうしてもこの友に知っていて欲しかった。
初めて、自分を同等のものと受け入れてくれた、この友に。
そんなアサトの固い意志を読み取って、メイユは再び大きなため息をついた。
「滅多なことを言うな」
「でも、事実だ」
「事実だったとしても、そんなものは墓場まで持って行け」
言うと、メイユは奥の椅子を示す。
「とりあえず、座れ。お前の覚悟は分かった」
「あの扉の奥がどこにつながっているか、おれも知らない」
大人しくメイユの前に腰かけると、彼は厳しい表情のままそう切り出した。
「だが、おそらくあの扉は寺院最大の禁忌だ」
思いがけず、大仰な言葉が出てきて、アサトは軽く目をみはった。
「禁忌?寺院最大の?」
「ああ、おそらくな。あの扉に触れられるのは、この寺院の僧正以上だけだ」
「青の衣をもらったら、あの向こうに行けるってわけじゃないんだ」
「それだけでは駄目だろうな。本当に一握りの人間だけに、明かされるもののようだ」
「みんな、あれに気付いてないの?」
「さあ、それはどうだろうな。気付いている者もいるにはいるだろうが、興味を覚える者は少ないんじゃないのか」
「……それなのに、メイユは何でそんなこと知ってんの?」
「おれはお前のように短絡的じゃないからな。気になる、よし行こう!とは思わない」
「短絡的って!」
「短絡的だろうが。気になるから行ってみようって、お前は下町の悪童か。寺院始まって以来の神童の名が泣くぞ」
「別にそう呼んでくれっておれが頼んだんじゃないよ!」
「あんな滅多に人も通らないようなところに、しかも明らかに隠し扉だと分かる形であるんだぞ。そんな場所を覗いたらどうなるか、少しは考えてから行動しろ」
全くもって、正論である。さすがに返す言葉もないアサトに、メイユは言う。
「確かにお前はまだ十六だが、天上の教会にまで来たんだ。人の裏ぐらい、今までにも見てきてるだろう。それを考えてから、行動に移せ」
それは、まぎれもなく、アサトのことを思いやっての言葉、だった。
「ありがとう」
「分かったなら――」
「でも、次に同じことがあっても、おれ多分同じことすると思うよ」
「アサト」
「メイユの言いたいことは分かる。それが、おれのために言ってくれてるんだってことも、勿論解ってる。でも、さっきも言ったけどこれって理屈じゃないんだ」
真っ直ぐな瞳を向けられ、メイユは深く深くため息をついた。
「お前が、本当に馬鹿だということがよく、分かった」
淡々と告げられた言葉に、アサトは唇をかむ。これで、とうとう友にも見捨てられた。そう思ったのに、続けられた言葉に、アサトは耳を疑った。
「分かったから、おれか、キースをきちんと頼れ」
「…………え?」
「お前は、今までのことからすれば当たり前かもしれないが、人に頼ることをしなさすぎる。まだ子供なんだから、もう少し周りの者に頼ってもいいだろう」
「たよ、る……?」
そんなの、どうしていいか分からない。あからさまにそう顔に書いて固まった少年に、メイユは軽く笑う。
「一人で暴走するな。次の機会があった時、その言葉だけ思い出せ」
その温かな言葉に、アサトはゆるく笑う。
彼の言葉は、涙が出そうになるくらい、嬉しかった。
アサト自身をそんなにも気遣ってくれた人など、今までほとんどいなかったから。そしてその言葉が、口からのでまかせなんかではないと信じられたから。
でも、同時に涙が出そうになるくらい、辛かった。
信じられると分かっているのに、自分はその言葉に頷けない。そんな自分のあさましさに、アサトは言葉もなく、ただメイユを見返すしか、なかった。
その機会が訪れたのは、呆気ないほど唐突だった。
初めてその扉を見つけてから、三週間ほどがたった後。
その日、アサトは外から持ち込まれる喜捨物の対応に大わらわだった。何しろ、一週間後が大僧正の生誕日だったからだ。
大僧正の生誕日は特別である。この世にただ一人、神と始祖に最も近しいとされる人が生まれたその日は、神の嘉したもうた日と特別の典礼が行われるのだ。それに合わせて、世界各地の領主たちが“典礼での使用を求めて”さまざまな物資を送って来るのである。
『要するに、賄賂だろ』
簡潔に、冷めた目でアサトは言う。年上の友人たちは苦笑を返すのみだったが、その目は何故だかほほえましげだった。
昨日の、そんな彼らを思い出す。
場所は、例の隠し扉の前だ。
贈り物を大僧正の部屋へ届けた帰りに通りがかり、そして周囲に誰もいないことに気付いた。いつもなら、必ず誰かと一緒になるのに、その日はたまたま一人だった。そして、同じように雑務でうろつくものも、他にいない。
好機だ。
そう、閃いたのは一瞬。
そして次の瞬間、友の言葉が甦る。
『次に暴走する前に、おれかキースを頼れ』
この扉は、禁忌だから。禁忌に触れて、その先無事にいられる保証なんてないから。
言葉は少なくても、彼が自分のことを心から心配してくれているのは分かっている。頼ったところで、きっと嫌な顔一つしないだろう。
でも。
「ごめん、メイユ」
アサトはひっそりと、友に向けた言葉を呟いた。
心配してくれているのに。
思ってくれているのに、無視して、ごめん。
でも、この心の欲求は、どうしても収まりそうにない。
あの日、友に訴えた言葉は、真実。
飢えを満たすように貪欲に、知識欲を満たして生きてきた結果が、“寺院始まって以来の神童”。その欲は、どこまで行っても満たされることを知らず、それが彼を天上の教会まで連れて来た。いったん火がついてしまえば、それに抗うことなんてできない。
きっと、そう訴えれば、彼らは自分を止めはしないだろう。
そして、その火はきっと、あの友人たちまでも焼いてしまう。
だから、友の信頼を裏切っても、この扉に触れるのは自分だけでなくてはならない。
少年ならではの周りの見えない潔癖さで、アサトはそう決意してしまった。
そして、そっとその扉に手をかけ、開いた扉にためらいもせず滑り込む。
きっとこれが運命の扉なんだと、どこか冷めた頭で考えながら。