3.問答
僧侶たちの一日は、典礼に始まり、典礼に終わる。
一人一人が個別に行う個人礼が夜明け前に始まり、礼拝堂に全ての僧侶が集まって行われる全員礼が午前と正午、夕刻に一回ずつ。個人礼はさらに午後と就寝前に一回ずつ。本当に僧侶たちは、日がな一日祈りに身を捧げているのだ。
天上の教会へやって来た翌日、夜明け前を告げる鐘の音でアサトは目を覚ました。
「さすがに、今日はきつい……」
いくら若いとはいえ、長旅の後だ。疲れが取れきっていない中ではさすがにこたえるが、それでも何とか寝台から引きはがすようにして起き上がった。そのまま、同室者に目をやったアサトは、思わず目をむいた。
「メイユ……!?ちょっと、個人礼の時間だよ?」
眠気も吹っ飛ばす勢いで驚くアサトの視線の先には、起きる気配の欠片もないメイユの姿がある。
「メイユ――メイユ?!」
「朝から騒々しいな、お前は」
うっすらと目を開けてそう呟いたが、相変わらず起きる気配はない。
「いや、だって、夜明け前……」
「おれには関係ない」
「はい!?」
「おれの宗派では夜明け前の個人礼の習慣はない。だからおれには関係ない。お前をがやってるのを止めもしないがな」
そう言うが早いか、再び眠りに落ちるメイユである。
「マジかよ……」
呆然と呟くアサトの声に、応える声はもちろんない。
「今までの同室の人にもそう言ってたのかな」
宗派間の違いなど認めない、お堅い同室者だったら、さぞや大変なことになっていただろう。
それでも、この人ならばあっさり無視して眠っている気がする。そのさまを想像して、アサトはくすりと笑みをこぼした。
そんな風に始まった天上の教会での一日目。目の回るような一日を過ごしたアサトが、ようやく一息をつけたのは、夕食も済んだ頃だった。
「………………疲れた……」
慣れない場所。今までとは比べようもないくらいに長く儀典化した典礼。そして、与えられる雑用の数の多さ。全てをこなしたアサトは、げっそりとそう呟く。
「これ、慣れる日が来んの……?」
独り言のようにこぼれた言葉に、メイユが笑う。
「そのうち慣れる」
「本当に?」
「十日もすればな」
「――十日かあ……」
思わず遠い目になったアサトである。そんな彼に、さらに声をかけようとしたメイユだったが、それよりも早く部屋の扉を叩く音が響いた。
「メイユ、アサト、良いかい?」
そう声をかけながら現れたのはキースである。
「一日目はどうだった、アサト?」
にこにこと人の良さそうなキースの笑みに、アサトは苦く笑ってみせる。
「もう、何が何だか、って感じで。メイユは十日もすれば慣れるって言うけど、そんな日が来るとはとてもじゃないけど思えない」
「最初はね、皆そう思うものだよ。ここは典礼も長いしね」
「あ、やっぱり長いよね?あれ?って思ったんだ。いつもより丁寧な気がして」
「何しろ“天上の教会”だからね。他では略されている物も全てやるから、どうしても他の寺院よりも長くなるんだ」
「へえ、道理で。さすが天上の教会だな」
「で、何の用だ、キース」
「ああ、今日から問答やるかなと思って、それの立ち会い、だね。メイユだけに任せっきりにするなとモラレス様に釘を刺されてしまったから」
にこにこと告げられた言葉に、アサトは目を丸くする。
「え、問答……?!」
それは、上位の僧が下位の僧への指南の一環として行うものである。始祖の定めた簡素な教義を、日常に落とし込むために、上位の僧が様々な状況を仮定して問い、下位の僧が答える。そうすることで、教義の進化と相互共有を図っていくのである。
「メイユがおれの問答をするの?」
思わずアサトがそう確認したのは、その性質上、同位の者同士で問答が行われることは普通ないからだ。その驚きを理解したうえで、キースは笑って頷く。
「うん。こう見えて、メイユは優秀だからね。だいたい、こいつは赤の衣を着ていることも不思議なくらいなんだよ。蒼の衣を賜っていいくらいの、本当の逸材なんだけれど、面倒がって考査を受けないから、そのままなんだ」
「考査を受けない?!そんなこと、できるの!?」
「思いつきもしなかった、って顔だな」
年長の同輩たちは、揃って同じような笑みを浮かべてみせる。にやりと表現するのが何よりもふさわしい彼らの笑みは、決して僧侶のそれではなかっただろう。
「まあ、やろうと思ったらできるよ。やってる人はほぼいないけどね。というか、メイユ以外はわたしも知らない」
「へえ…………昇位、しなくても良かったんだ……」
「したくなかった?」
「え?」
「昇位、したくなかったかい?ここに来たくはなかった?」
何気なさを装って問われた言葉に、アサトは虚を突かれたように黙り込んだ。
来たくなかった、わけでは決してなかった。
位を上げれば、与えられる知識が増える。それを貪欲に飲み込むことが、彼の生きる意味とも言えたからだ。
だが、同時に失ったものもたくさんあった。
知識欲を満たす喜びと、失った物たちを天秤にかけた時、自分の心はどちらに傾くのか。その答えは、自分でも分からない。
「おれ、は――」
続ける言葉を見つけられないアサトの頭を、ぽん、とメイユが叩いた。
「それほど深刻に取るな」
「……メイユ」
「そうだよ。たとえ来たくなかったとしても、それをここで言えるわけもないってことも解ってるから。悪かったね。今のはちょっと、意地悪な質問だった」
苛めるつもりはなかったんだけど、と頭を下げるキースに、アサトは慌てて首を振る。
「来たくなかった、なんて思ってないよ。ここへ来て、メイユやキースに会えただけでも、来られて良かったと思ってる」
率直な物言いに、二人は驚いていたが、アサトはさらに続けた。
「あの、こんな風に言うのはおこがましいかもしれないけど、おれはずっと、歳が近い同位の人たちに会ったことなかったんだ。おれを認めてくれる人なんて、誰もいなくて。だから、昨日二人が言ってくれた言葉が、すごくすごく、嬉しかった」
言って、にこりと笑んで見せる姿は、十五という歳相応のもので。それを認めた二人は、どちらも彼をからかうように笑った。
「寺院が始まって以来の神童にそんな風に言ってもらえて光栄だなあ」
「純粋培養だな」
「メイユみたいにひねくれて育ってもおかしくないのにねえ。よっぽど素晴らしい僧正様に育てられたんだね」
それは、キースにとっては何の含みもない言葉だった。だが、その瞬間、アサトは自分の顔がこわばるのが分かった。それは、まだ触れられたくない、彼の傷だ。
だが、彼らはそれについては何も触れなかった。ただ、メイユがすっと表情を改める。
「では、問答を始めようか」
その言葉に、アサトも反射的に背を正した。
「はい。よろしくお願い致します」
一瞬で歳相応の少年らしさを捨て去り、メイユに向かって頭を下げる。下町の悪童のような顔が消えれば、そこにいるのは寺院始まって以来の、神童。その静謐に、メイユは驚くでもなく、淡々と向かい合う。その姿もまた、神秘を思わせるものだった。
目前の二人の変貌に驚くでもなく、一人変わらず穏やかなキースの前で、メイユはゆっくりと口を開く。
「では、問う。始祖とは?」
「…………………………へ?」
間の抜けた反駁をしたアサトの顔からは、神がかった静けさが剥がれ落ちている。思わず素に戻ってしまうほどに、その問いが初歩的なものであったからだ。それこそ、寺院に入りたての子供に対するかのような。
「答えよ。始祖とは?」
アサトの驚きに気付いていても、メイユは顔色一つ変えない。見守っているキースもそれは同じで、それに気付いたアサトはすぐに表情を引き締めた。
何の意図かはわからない。だが、試されていると感じる。それに今、彼は応えなくてはならなかった。
「神の声を聞き、その声をあまねく世界に知らしめた、神の代理人」
――と、名乗ったペテン師。声には出さずにアサトは内心でそう呟く。
ここへ来たかったのも、来れたことに喜びを感じているのも、嘘ではない。だがそれは、信仰ゆえではない。そのことは、彼だけが知っていれば良い真実だ。
「神とは」
アサトの内心を知ることもなく、淡々としたメイユの問いが続く。
「唯一にして絶対の、この世の理」
(と、ペテン師が作り上げた幻想。)
「世界とは」
「神の恩寵のもたらす平安」
(に見せかけた、ペテン師の箱庭)
「寺院とは」
「平安を守るもの」
(そう、箱庭を守る監視者)
「僧侶とは」
「平安を守るものの手足」
(ただの獄卒)
「我ら僧侶の、掟を」
「我ら全て、始祖の子にして、その継承者。神の代理人の意志を受け継ぎ、次の子へ渡すのが我らの務め。神の御言葉は絶対。始祖の意志は唯一。その志こそが世の理を護る寺院の根幹にして無二の掟」
(そうしておれたちは、この世界を縛り付ける罪を負うんだ)
「さすが、模範解答だね」
初めて口を挟んだキースの言葉に皮肉が混じる気がするのは、アサトの後ろめたさゆえだろうか。心を寄せられる気がした人たちに語った表面だけの言葉は、ひどく口に苦かった。
「これくらい当然だろう」
相変わらず感情の読めないメイユの言葉が、今は冷たく聞こえる。
「ま、そうだね。初歩の初歩だから」
言って笑ったキースは、ぽん、とアサトの肩を叩く。
「しばらくメイユの知識を学ぶと良い。特に彼は薬の知識が豊富だから、きっと役に立つよ」
問答の意図には触れない二人の言葉に、アサトの胸にじわりと不安が広がる。
信じられると思ったのは、幻覚だったのだろうか。
その疑惑を払うことも深めることもできず、アサトはただ頷く。
「うん、わかった」
「じゃあ、わたしは部屋へ戻るよ。そろそろ就寝前の個人礼の時間だ」
言って立ち上がったキースに、メイユはわずかに頷く。それが二人の隠されたやり取りなのか、それともただの挨拶なのか、アサトには判別できなかった。