叔母について・その2
4、5年ほど前のことでしたか。
叔母が体の不調を訴えたか何かで(詳しいことはよく覚えていないのですが)、県庁所在地の大きな病院に入院することになりました。
まだ三十代とはいえ、普段からヘビースモーカーでお酒もよく飲んでいた叔母でしたから、何処かしら身体にガタがきていたとしてもおかしくなかったと思います。それに前話でも申し上げた通り、叔母はちょくちょく入院をする人でしたし。
ですからその時は、私も周りも「また入院か」という程度で、特に気に留めることはありませんでした。
それが異常なことだと分かったのは、少し経ってからのこと。
母親が言ったのか、人伝に聞いたのか、それとも風の噂だったか……詳しい状況はあまり覚えていないのですが、私は叔母の身体が『子宮頸がん』という病気に侵されていることを知りました。
当時中学生だった私は今よりずっと無知で楽観的で、「子宮頸がんって何ぞ?」という状況でした。つまり、今一つピンと来ていなかったのです。
母親も、母方の祖父母も、詳しく教えてはくれませんでした。多分、そういったことを知る人がいなかったのだと思います。医者家族ではあるまいし、当然と言えば当然だったのかもしれませんが。
「大丈夫、きっとすぐに完治するよ」
心配をかけたくなかったのでしょう。ご都合主義の大人たちは、無知な子供にそう吹き込み、安心させようとしていました。
最初は私も、大人の言葉をすっかりうのみにして安心していました。
県庁所在地は私が当時住んでいた故郷よりもずいぶん遠いところにあったので(車で片道2~3時間ほどかかります)、お見舞いに行くことができませんでした。ですからこの目で叔母の様子を見ていたわけではなく、叔母がどんな状況だったのか詳しく知らなかったのです。
私が久しぶりに叔母と対面したのは、確か叔母が一度病院から地元へ戻ってきたときでした。
お盆の……確か、北京オリンピックがテレビで中継されていた時ですね。うちの家族と叔母の家族が、里帰りと称して母親の実家に勢ぞろいしたのです。
私は、叔母を見て愕然としました。
身体は骨の形がしっかりわかるほどまでにやせ細り、髪の毛はすべて抜け落ちていて、衰弱しているのか元気も全然なくて……。かつての活発で頼れる叔母の姿は、もうありませんでした。
叔母はかつらをかぶり、寝たきりの状態のままずっと虚ろな目でテレビを――オリンピックのマラソン中継を、一心に見つめていました。
――私はその日になって初めて、叔母の病状の深刻さを知りました。
それから少しして、叔母は地元の小さな病院に移されました。
今までは遠くてお見舞いにも行けずにいたのですが、実家の近くの病院ということもあり、簡単にお見舞いに行くことができるようになりました。
初めてお見舞いに訪れた時の叔母は、体型や髪の毛などの状況は変わっていませんでしたが、それでも思いのほか元気そうでした。かつて母親の実家で見た衰弱しきった様子とは全く違っていたので、病状に波というものがあったのかもしれません。……今となっても、詳しいことはよくわかりませんが。
その日病院には、私と叔母のほかに母親と従妹がいたので、女4人でクロスワードをしたり、桃を食べたり……実に楽しい時間を過ごしました。
ちなみに小説『似たもの~』には『母』が『わたし』に桃を食べさせるシーンがありますが、それはこの時の出来事がモデルとなっています。
タッパーに詰まった桃の切り身を爪楊枝で刺して、叔母がそのまま私に食べさせてくれたんです。少しぬるかったけれど、とても甘くて美味しくて……あの味は、今でも忘れられませんね。
叔母と話をしたのは、その時が最後でした。
実はそれからも何度かお見舞いには訪れていたのですが、その時にはもう既に叔母は昏睡状態に陥っていまして……。
昏睡状態とはいえ、叔母がいる前ではしんみりしたくなかったのでしょうね。病院で会ったいとこたちは、私に普通に接してきました。だから私もいつも通り冗談を言ったり、紙に変な落書きをして笑わせたりとかしていました。
それからすぐに、運命の日は訪れました。