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はるのあじ

掲載日:2011/12/28

 台風は逸れたというのに、結局秋のなんとやらで雨は降っているのだった。梅雨の雨よりじめっとしていない分、九月のそれはまだ心を重くはしないけれど、それでも客足には影響する。傷みやすい食材は避けて甘いものでも増やそうかと考えながら裏口を開け、ゴミを捨てようと思っていたところではるは男を拾った。

「なんだ、野良か、捨て猫か」

 店じまいをしようとしていた九時過ぎだったけれど、赤とオレンジと黄色の馬鹿げた明るさをしたビニールのひさしを持つ店は目の前にライブハウス、周囲をラブホテルに囲まれているため妙な明るさがある。可燃と不燃とペットボトルとで分けてある青いゴミバケツの、間にもたれかかるようにしてまぶたを閉じていた男は、はるの声にゆっくりと目を開けた。

「どっから入った」

 はるのサンドイッチスタンドは小さく、裏手のラブホテルが常緑樹で垣根を作っているのでそこにすっぽりと裏手は収まっている感じになっている。男は眠っていたのを起こされたように、ぱちぱちとまばたきを何度もしてから、すみません、と小さな声で謝った。それは雨の音にまぎれて、ひどく心細く聞こえた。

「捨て猫なら拾うけど、野良ならどっか行きな」

「……野良ならどうして拾ってもらえないんですか」

 濡れてみすぼらしくなっている男は若く見えた。はるは手にしていたゴミの袋を可燃のバケツのふたを開けて突っ込んだ。手荒な扱いに見えたらしく、男が少し怯えたような顔をする。

「捨て猫なら飼われてたってことだろう、人の手がなきゃ生きていけないもんだ。野良なら下手に情けをかけると野性を奪うことになる、それは弱らせるのと同じだからさ」

「僕は猫じゃない」

「じゃあこんなところで寝てないで帰りな」

「……でも捨てられたんだ」

「親かい、女かい」

「女」

「聞いといてなんだけど捨てる捨てないって人間同士じゃおかしな話だ、濡れると風邪を引くから中に入んな」

 はるは店の裏口に手をかける。

 戸惑った表情の男は動かず、はるは仕方がないので名前をつけることにした。

「名前?」

「そうだよ、捨て猫なんだったら名前がいるだろう」

「僕の名前は、」

「今までの名前なんて意味がないだろ、捨てられてんだから。それは過去のものだよ、お前は私に拾われるんだから新しい名前が必要なんだ。昔の飼い主に呼ばれていた名前でこれからも呼ばれようなんて、虫のよすぎる話だよ」

「滅茶苦茶だ」

「よし、お前はあじだ」

 男の呆れた声を素通りさせる。はるは男に名前を与えると、あじおいで、と呼んだ。

「あじ? そんな、魚みたいな」

「学生のときに学校に住み着いてた猫の名前だよ、お古だけど可愛いじゃないか。お前はあじだ、うんうん、あじだ。よしよし、あじ、お腹空いてないか」

 人の話なんか聞きもしないで、と文句を言おうとしたけれど、その前に男は腹の減っている自分に気付いてしまった。それでうっかり頷いて、食べるものならあるよと店の中に招き入れられ、男ははるのあじになった。


 はるの店はサンドイッチ屋で、普通は食パンを使うのだろうけどはるはコッペパンを使う。そこに注文されてからツナだのハムだのレタスだのチーズだのとをタッパから出してはさむ。ジャムは苺もマーマレードもブルーベリーもあるし、バターもピーナツバターもチョコレートもカスタードもある。生クリームもある。日替わりで何種類か鉄火なすやきんぴらなどもあって、それらもみんなサンドイッチの具なのだった。

 コッペパンは馴染みのパン屋に特注で作ってもらっている。ソフトフランスの生地だ。具ははるの手作りで、ジャムの類もすべて自分で煮ている。生クリームとカスタードとチョコレートは業務用。

「雨だと売り上げが悪くてね」

 今日は朝から雨だったろう、とはるはあじを店に入れて、残っていたハムとチーズとツナを切り込みの入ったパンにマヨネーズを塗ってからはさみ、レタスも突っ込んだのを渡した。

 店は小型のバスくらいの大きさで、片側は客対応のための大きな窓があり、ちょっとしたカウンターがあり、そして反対側は調理台やコンロ、冷蔵庫などがあった。ひとつしかない丸いすにあじを座らせ、はるは流しに寄りかかる。

「牛乳は?」

「牛乳?」

「飲むかってこと。お前はなんかひょろひょろに痩せてるね、栄養ちゃんと摂ってるのかい」

 大きなコッペパンに上手くかぶりつけなくて、いろいろと持ち方を変えていたあじは急に話しかけられて驚いていた。

「パンもろくにかじれないし」

「大きすぎるから、」

「小さく切ってやらなきゃ食えない、お坊ちゃま猫かい。まあ、余りものの具をみんな突っ込んだからね、普段のよりはだいぶ大きいけどさ」

 切ってやるから貸してごらん、と言ったはるを軽く睨むようにして、あじはえいっとばかりに大きなサンドイッチにかじりついた。はるは目を細める。

「牛乳が飲めないならウーロン茶かオレンジジュースだ」

「どういう選択ですか」

 もぐもぐしながらあじが聞くと、賞味期限順だよ、とはるが笑った。

「売り物?」

「そう。ああそうだ。私はお前に名前を教えたっけ」

「あじ、ってつけられましたけど」

「そうでなくて、私の名前。言ってないね、私ははる」

「はる? もしかして春に生まれたから?」

「そう」 

 あじはパンをかじりながら、食べ物の工場で働くような白い作業着に茶色いエプロンをつけている、目も唇も顔の印象自体がなんだか薄いはるをちらりと見た。黒い髪は後ろでひとつに束ねている。年齢不詳で、見た限りでは四十を過ぎているようにも見えるが実は二十代後半だった、という感じもなくはない。

 あじに見られて、はるも見つめ返す。ずいぶんと痩せこけていて、さっきタオルで拭かせたとはいえなんだかまだどことなくしめっぽくて、服も濡れたままで。けれど、短い髪は清潔そうな印象で、そこは気に入った。つるりとした涼しそうな顔立ちをしている。

 一度かぶりつけば後は顔になにかがついただの上手くかじれないだのとは言わずに、あじはこぼれそうなツナも反対の手の人差し指で唇の端から押し込んで夢中で食べた。サンドイッチはなかなか美味しく、あじが褒めるとはるは唇の端でひっそり笑って、商売だもの、とおどけた。

「もうひとつ作ってやろうか」

 あらかた食べ終わったあじが、まだ満足の顔をしていないのに気付いたはるが言う。提案の口調ではあったけれど、その手はすでにコッペパンへ切り込みを入れていた。

「甘いのは?」

「甘いの?」

「甘いもんは平気かってことさ」

「その前に飲み物が欲しいです」

「そこから勝手に牛乳取りな」

 やっぱり猫には牛乳だろう、とはるは頷きながら言う。猫に牛乳は強すぎるのだと聞いたことがあるあじは、まあそれでも自分は人間なのだし、と素直に冷蔵ショーケースから白いパックを取り出した。

「それで、甘いものは食べられるんだっけか」

「一応、好き嫌いはないですけど」

「よしよし、でも一応とか言うのはやめなよ、私はそういうひねくれたような言い方は嫌いなんだ」

「でもイナゴとか蜂の子とかはあんまり食べたくないんです」

「そんなもんは別に食べさせようとしないからいいよ、でも私の友達は地蜂の成虫を食べるんだ」 

 成虫って、とあじは思わず声を大きくした。

「針のある、蜂の?」

「そうだよ、バター炒めにするらしい」

「針とか、羽とか、」

「まんま食べるんだってさ。なんだいその目、私は食べたことないよ。虫なんか食べなくたってたんぱく質は充分取れるんだから」

 切れ目を入れて開いたパンに、銀色のバターナイフでピーナツバターをたっぷりと塗り込む。今度はそう分厚くもならなかったので、受け取ったあじはぺろりと平らげた。

「美味いとか不味いとか言わないのか」

「美味しくなかったら無言でせっせと食べてなんかいません」

「なんだ口きいて。可愛くない猫だな、まあ仕方ない。どうする、拾われるか、それとも食い逃げするか」

「食い逃げしたら後が怖そうです」

「怖くなんかないよ、逃げた猫なんて別に追わないさ」

 ふうん、と呟いて、あじはストローを挿した牛乳を一息で飲んだ。帰る家はあるけれど、せっかく名前ももらってしまったのだし、傷心にはるのサンドイッチは美味しかった。ひとりでいたら破れた恋に泣いて立ち直るのに時間もかかりそうだったので、あじは少しだけサンドイッチ屋のはるに付き合うことにした。


 ぐうっと伸びをして、あじはいつもの癖でシャツを脱ぎ捨てた。寝ぼけた頭をがしがしとかいて、トイレ、と立ち上がったところで自分のアパートでないことに気付いた。

 淡い色のカーテンがある。

 障子しかない和室の部屋に住んでいるあじにはそれがものめずらしく、カーテンで漉されてぼんやりとした明るさになっている光に手をかざしたりしてみる。女性っぽい、と言われる細くしなやかな指を握ったり開いたりし、上半身裸のままでいると、どうも冷えたらしくひとつくしゃみが出た。

 ふと見ると枕元に長袖のTシャツが置いてある。広げると無地の紺色で、あじは裸の肩や二の腕をさすって一瞬考え、肌が冷えていたのでそれを着た。よく乾いた洗濯物特有の、洗剤と太陽が香るところに、女くささが混じる。

 ずっと慣れ親しんでいた女のそれではない匂い。それで急に淋しくなる。自分の失ったものについて。確かに所有し、所有されていた関係だったのに。

「はるさん」

 拾われたことを思い出して、あじは声を上げてみた。

 春に生まれたから、はるさん。

「お腹空いたの?」

 ふすまが開いて顔が覗いた。のっぺりした顔には化粧っ気もなく、黒い髪は愛想なく後ろでひとつにくくられていて。そうそうこの顔、とあじは思う。右手に木ベらを持っていて、はるの向こう側から美味しそうな匂いがしていた。味噌の匂い。

「着てしまいましたけど」

「着替え用に出したんだから着ればいいさ」

「はるさんの?」

「ジャージのズボンならあるけど、どうする?」

「女物」

「スカート穿けって言ってんじゃないんだから」

「スカート、持ってるんですか」

「失礼な、持ってないよ」

 なにが失礼なのかまったく分からなくてあじが笑った。

 朝ご飯食べな、と言われて、またサンドイッチかと思ったら和食なのだった。大根と油揚げの味噌汁、味噌漬けのサバを焼いたもの、白いご飯と黄色いたくわん。

 テレビも時計も見当たらない部屋で、やたらと昭和のオーラを漂わせた無骨なラジオが目に入る。

 ぼんやりとしているあじの目の前で、はるがぱちんと手を叩く。

「わっ、」

「朝が始まったんだからぼやぼやしてない。どうする、あんたは留守番か、ついてくるのか」

「ついて、く」

「それならちゃっちゃと食べてしまいな」

 いろいろと聞きたいことはあるのだけれど、あじはなにを聞きたいのか分からなくなってしまったので黙っていた。はるの前にいると、なんだか自分がふわふわしたものになった気がした。恋人と別れてしまったことも本当なのか嘘なのか、と考えてしまったら、急に心臓へざっくりと刃物を突き刺されて、血が吹き出た。慌てて胸を押さえる。

 押しつぶされるように、呼吸困難に陥る。

「なに遊んでるの」

 はるの呆れたような声に、顔をあげて酸欠の金魚になったかのようにぱくりと、あじは口だけを開けた。

「泣きそうな顔をして」

 泣きそうな、というのなら、まだ自分は泣いていないのだとあじは知る。

「……いた、い」

「思い出して悲しんでるのかい」

 ぱりりんといい音をさせてたくわんをかじったはるが、呆れた顔の目のまま笑った。

「捨てられたことを思い出したのか」

「忘れてなんか、いない」

「泣くんなら一日の終わりにしな、留守番してるんなら泣いててもいいけどね」

「……泣いたりなんか、」

「男だからとか大人だからとかで泣かないんだったら後が辛いよ。だけど出かける前に泣くんじゃないよ」

 一度泣いたら泣き止めなくなるからね、とはるは言う。

 なぜ、とあじが聞けば。

「簡単に泣いたり止んだりできるほとの恋だったんなら、大の大人の男が自分を捨てたりしないだろう」

 はるはさっきよりももっと呆れた顔になった。


 拾われたのだからなにかしらの恩返しをしなくてはならないのでは、とあじは思ったけれど、金があるわけでもなし、さてどうしようかと悩んだ。拾われてから数日が経つ。安いものとはいえ下着とジャージを買ってもらい、毎日きちんと食事をさせてもらっている。あじは一銭も出していない。

鶴だって亀だって恩返しはする。反物は織れないし竜宮城出身でもない、それでも動物にも返せる恩を人間が返せないのはなんだか悔しい。仕方がないので、できることなんてそんなにないのだけれどとため息をつきながらはるの布団にもぐりこんだ。

「なっ、なにすんのさ、」

 夜伽相手くらいにはなるかと思って、と素直に言ってみたけれど、あじははるに頭を叩かれた。

「なにをバカなっ」

 あまりにも焦った様子で、普段はしらっとした顔をしているはるが薄暗がりでもはっきり分かるほどの動揺を顔に表していた。

「拾ってもらったのになにも返すものがないから」

「拾ったからってお前は一生居つくつもりじゃないだろう、新しい飼い主が出てきたらさっさとそっちに行きな」

「ならはるさんはどうして僕を拾ったの」

 名前まで与えたくせに、とあじは言ってみた。言ってはみたけれど、はるの言う通りでもあった。自分はここに一生居つくつもりもない。ただ、恋を失ったあとすぐに拾われたので、なんとなくそのままいるだけだ。サンドイッチ屋の手伝いを少しするだけの退屈な暮らしで、あじはそう遠くない頃には自分がこんな時の過ごし方に飽きるだろうということも感じていた。

「夜の相手とかさせようなんて思わなかったの?」

 若い男にさ、とあじが茶化した。

「なに言うんだい、捨てられ猫が」

「もう拾われ猫だもんね」

「ふざけるんじゃないよ、こんなおばさん相手にお前なにするつもりだい」

 小さなオレンジ色の豆電球だけがついた部屋で、はるが視線を合わせない。これは照れているのだろうかと、あじが手を伸ばした。半分は無意識に。

「なっ、」

「はるはおばさんじゃないよ」

 いつもより声色が色っぽい、と思うのは、なんとなしに声が震えているからなのかとあじは考えた。昼間の働くはるはおばさんだが、豆電球の光の中、なにやら必死で目を逸らしているはるはおばさんとは感じなかった。

「なにを、もう三十五にもなるおばさんをつかまえて」

「えっ、」

 四十くらいかと思ってた、とあじは言ってしまってから慌てて口を手でふさぐ。もちろん間に合いもせず言葉ははるの耳に入り、失礼な、と今度は頬を平手打ちされた。しかし、その手があじから離れないうちに、はるはげらげらと笑い出す。

「三十五も四捨五入すれば四十だけどね」

「あ、いや、その、ごめんなさい」

「謝られると癪に障るじゃないか、そういうあじはいくつなんだい」

「二十三」

「……干支が一緒とは。そんな若いのからみれば、私なんか本当にただのおばさんか」

 おばさんおばさんと言いながらはるは笑いっぱなしで、ちょっと待ってなよ、と布団をするりと抜け出した。

「いいもの見せたげるから。ちょっと待ってな、だけど私がいいって言うまで、あっちのふすまを開けちゃいけないよ」

 そう言って隣の部屋に消える。鶴なのはあっちか、とあじははるの匂いがする布団の中から出ないままでいた。

 ぬくぬくと残りの体温に包まって、耳だけが外を知ろうとする。

 かたん、ぱちん、ことん、かちゃん。不規則ながらに耳障りではない音を拾う。料理の音ではない。はるの包丁の音は歌うようなリズムがあるので、あじはそれをもうすっかり覚えた。鍋を揺する音も、フライパンを返す音も。今日のは違う。何の音だろう、とぼんやりあじは考える。考えれば考えるほど、頭の中は霞むように白んだ。自分がうとうとしているのだという自覚はないまま、夢うつつでいる。

 どれぐらい経ったのか、名前を呼ばれて布団から顔を出した。はるがつけたそれが、自分のものだと認識する程度にはあじという名前に馴染みつつあった。

「ぬっ、」

 ふすまが開いて、そこに女が立っていた。

 女は部屋の電気を明るくする。

 素材は皮なのか、ぴったりとした短パンに膝からの長さがある鋭角なブーツ。じゃらりとした銀色の金具がたくさんついた細身のジャケットは肩のが大きく切れていて白い肌が覗く。重たそうなまつ毛がゆっくりとしたまたたきを強調した。唇は深紅。目は周りを黒く縁取られているものの、下品ではないぎりぎりのバランスで。

「ぬっ、てなんだい、ぬっ、て」

「はる、さん?」

「私以外に誰がいるっての」

 顔が、とあじは思わず指さした。

「顔が、全然、違う……」

「全然違って、なんなんだい」

 自分でも違うことを自覚しているはるがにんまりと笑う。真っ赤な薄い唇は、いつものように笑っているだけなのにひどく艶めかしく見える。

「美、人」

「失礼だね、いつもはそんなに不細工なのか」

 うっかり頷きかけて、あじは慌てて首の動きを止めた。はるはおかしそうに目を細める。

 化粧のひとつ、着るもののひとつで女は変わるということを目の当たりにして、あじは言葉もなくはるを見つめていた。四十ほどにしか見えなかった彼女が、二十の後半ほどに見える。年齢など関係ないことなのだろう、美しくなってしまったはるにあじはただただ驚いていた。素っ気なくくくっただけの髪もほどかれ、そうすると意外につややかなそれは肩の少し下まですとんと流れた。

「どんな魔法を使ったらそんな、」

「とっておきの魔法だよ、本当はこの姿なんてあの人以外には見せないつもりだったのに」

「あの人、」

 あじが興味を持った疑問へは微笑みだけ返し、はるは小さな瓶を放って寄こした。

「わっ、ととと、」

 慌てて布団から起き上がり、あじは両手で受け止める。

「室内でブーツってのはちょっとやり過ぎたね。畳がいたむ」

「はるさんって脚、そんなに綺麗なんだったらスカートとか穿けばいいのに」

「持ってないよそんなもの」

「聞きましたよ、前にも」

 あじはすぼめる形になっている手をそっと開く。はるの唇と同じ色だろうと思われるマニキュアの小瓶が、そこにはあった。厚いハートの形をした瓶は、見た目よりもしっかりとした重さがある。

「あじは器用かい?」

「米粒に文字を書いたりはできないですけど」

「ふざけてないでさ、誰が米粒の話してるんだい」

「女の人にマニキュアぬってやったことなんてないですよ」

「米粒に文字書くよりは簡単なんじゃないの?」

「じゃあはるさんが自分でぬったって、」

 艶然という言葉があじの中で弾けた。化粧映えする顔というのは、土台が元々主張しすぎないことが大事なのだろうか。微笑まれてあじはもう逆らえなかった。

 不器用ではないと思うけどそれって器用ってことと同じじゃないですよ、とぶつぶつ言いながら、はるの視線からそっと目を逸らす。


 右手は器用だから左の爪は綺麗にぬれるんだけど、左の手はそこまで器用じゃないから右の爪はどんなに丁寧に時間をかけてぬってもなんだか歪になるんだよね。

 片膝を立てたあじの、その膝頭に右手をちょこりと乗せて、はるは遠くを見るようにつぶやく。

 小さな刷毛を瓶の口でしごき、余計な粘着質の液を落としてからあじははるの手を取ってそっと、中指からぬりはじめた。

「恋人より友達思いか」

「え?」

「ぬりはじめた指で占うんだよ」

「指に意味が?」

「あるようなないような」

「なんですか、それ」

 呆れたあじの声にはるが笑う。近くで笑われると花の匂いがした。香水だと知れても、空気を甘く染めるそれははるそのものから吐き出されているかのような錯覚があった。

 なんだかずるい、とあじは心の中で拗ねてみた。

 どきどきさせたりして。

 どうせならさっき布団にもぐりこむ前から、美人になっていてくれれば良かったのに。

 ふと顔を上げてあじははるの目を見る。

「なんだい」

「こんなに綺麗なのに、どうして店にはあんな老けたような顔で出てるの?」

「女が化かすのは男だけだからだよ、サンドイッチを買う客を化かしたって仕方ないだろう」

「美人が売ってたら、売り上げが上がるかもしれないのに」

「ライブハウスに来たきゃあきゃあ若いお嬢さん達に、化粧美人が張り合ったって意味がないよ」

「ホテルの客は?」

「さあ。それらしき人達も来ないわけではないけれど、大抵みんなそそくさと帰るんじゃないかい?」

 はるの手は女性にしては大きい方で、爪も短くは切ってあるものの丸みのやさしい卵の形をしていた。そのひとつずつに、あじは刷毛をすべらせる。女は体温の低いものという認識があったけれど、はるも例外ではなかった。それとも自分の体温が高すぎるのだろうかとあじは首を傾げる。

「あれははるさんの店?」

「違うよ、持ち主は高齢の夫婦で、店を閉めるって言ってたから私が代わりに働きたいって言ったんだ」

「知り合いだったの?」

「昔、ずっと通ってたから。あの店がなくなるのは淋しい気がしたんだ」

「昔?」

「そう、もう二十年近くも昔の話だよ」

「恋の話だ」

「なんでそう思う?」

 はるさんがなんだかやさしい顔をしているから、とあじは言ってみた。はるは笑って、マニキュアをぬったばかりの手の方でぺちんとあじの額を軽く叩いた。


 十六歳だった。

 はじめて友達に連れて行かれたライブハウスはラブホテル街の中にあって、いかがわしい場所と緊張していたのははるだけだったらしい。真っ黄色の外観の建物は真っ赤なペンキでライブハウスの名前を大きく殴り書きのようにしてあり、分厚い扉を開閉するたびに奥から腹に響くベースやギターの音が漏れた。

 ビジュアル系のインディーズバンド、そこのギタリストというベタな男にはるは恋した。あっという間に。恋に落ちたことに、自分でも気付かないくらいのスピードで。

 彼のライブがある日は学校をサボってでも通った。音楽を聴きに行くというよりは、彼に会いに行くためだった。楽屋に入る彼に会いたくて、目立つようにと造花の向日葵を必ず手に持っていた。周りを真似て化粧をするようになった。ライブが終わった後、彼が出てくるのを待ってプレゼントを渡した。お小遣いでは足りなくなって、はるはバイトをはじめた。その給料でせっせと彼の気に入りそうな服を買ったりした。はるの一番の喜びは、自分のプレゼントした服を彼がステージで着てくれることだった。

 毎回毎回通えば、周囲のファンに仲間もできる。ファン同士のグループはいがみ合っているところもあったけれど、たまたまはるが仲良くなった女の子達の中には性質の悪いのがいなかった。メンバーの誰それと寝た、だの、有名になりそうなバンドの男とは寝ておく、だのというタイプのグループではなかったし、実はメンバーの恋人だと嘘でも真実でも言いふらしたりする人間もいなかった。

 そのバンドは拠点を黄色いライブハウスと決めているのか、ほとんど他のライブハウスで演奏することはなかった。そもそも、黄色いライブハウス主催のイベントで、他のバンドと出演することが多かったからかもしれない。

 けれど、見かけとは違いはるの惚れた男がいるバンドは本気で音楽を仕事にしたいと考えているようで、次第に出番も出演時間も増え、トリを務めたりするようになってきた。初のワンマンライブがステージ上から告知されたときは、メンバーもはるもみんな泣いた。嬉しくて。その頃にはギターの男ははるを覚えてくれるようになっていた。向日葵の子。そう言って微笑んでくれたから、はるはそれだけで失神しそうに幸せだった。

 ライブハウス前の小さなサンドイッチ屋は、食パンではなくコッペパンに具をはさむホットドックのようなスタイルで、はるはライブがある日はよくそこで卵サンドを買っていた。そこでいつものようにパンを買っていたとき、後ろに並んだ人から声をかけられた。雨が降っていたので黒と白の水玉模様の傘をさしていた。それがぶつかったのかと思い、謝ろうと振り返ると、そこにはギタリストの男が立っていた。

 驚いて声を上げたはるににっこりと笑いかけ。

 いつもライブに来てくれてありがとう、と言う。

 それからプレゼントも、と続けた。 

そんな、それは、あの、その、と慌ててしまい、上手く話せない酸欠の金魚のようになったはるに、男はそっと耳打ちした。近付かれて、香水の匂いがした。深い水のような、静かな匂いだった。

デビューが決まりそうなんだ。

ボーカルの男より低く穏やかな声。くらりと酔って、思わず買ったばかりのサンドイッチを差し出した。今日は貢物を特別には用意していなかった。

ここのパン、俺も好きだよ。

貰っちゃっていいの、と男は笑いながら聞いた。それではるは首が取れてしまうのではないかと思うほど首をぶんぶんと縦に振る。はるは十八になっていた。大学へ行くか、就職をするか考えなくてはならなかったけれど、そういうことは一切考えずにただひたすら男の紡ぐ音楽を聴いていたいだけだった。

「……それで?」

「それで、って、それだけの話だよ」

 はるはついしてしまった話に酔いつつ後悔もしつつ、他人にとっては大事な思い出も気持ちの共有などそうそうできないものだと思った。

「なにかそこに恋みたいなものがあったとかじゃなくて?」

「恋心満載じゃないか、甘酸っぱい」

「そのギターの男と付き合ったとか、そういう話は?」

「そんな話があるわけないだろう」

 あじは呆れる。好きな男にだけ綺麗な顔を見せたいと、はるは普段自分に構いもしないのかと思うと。

「その男、どうなったの?」

 今では海外にまでツアーで行くようになった、口にすればまあ大多数の人が知るようなバンドになっていることをもちろんはるはあじに言わなかった。言ったらなんだか嘘くさく響くだろうと、知っていた。本当のことだけれど。だからただ、静かに微笑んでおいた。

「キスくらいした?」

「してないよ、そういう軟派なことなんて」

「キスが軟派って、はるさんはどんな時代の人だよ」

 つい、とあじの手がはるの手首をつかんで引いた。前のめりになる形で、はるはあじへと上半身を傾ける。

「っと、なにするんだい」

 マニキュアってのはきちんと乾かさないとそこらにつくんだから、と文句を言う唇に、あじは自分の唇を押しあてた。あたるとき、軽く目を閉じたのはあじの方だ。

「な……っ!」

 触れるだけの唇だったのに、あじが考えていたよりはるは慌てた。チークのはたかれている頬が更に色濃くなるほど赤くなったかと思うと、そのまま続けて青ざめた。口をぱくぱくとさせて、声は喉で詰まっているのだろう、出てこない。

「その男が好きだと言ったから、あのサンドイッチ屋で働き始めたの?」

 あじの手が振り上げられた。頬を狙われたあじは思わずその手をまた取る。

「離しなさいっ」

「いやだ、離したらはるさん叩くもん」

「叩かれるようなことをしたから、」

「なにしたの?」

 なにって、とはるが言葉に詰まるのを、あじはにやにやと眺める。なんだか可愛らしい人だと思いはじめていた。

「それが本性か」

「本性って、そんな人を悪い奴みたいに」

「いきなりあんなことして、悪くない奴だとでも、」

「あんなことって?」

 またしてもあじはにやにやとする。ぐ、と唸ってはるはまた少し赤くなった。

「お、女に捨てられたくせに」

「捨てられたけど、拾われたじゃん」

 別れたばかりのときは世界が終ってしまったかのようで、自暴自棄に自分まで捨ててしまったけれど、喉元を過ぎればそれはそれでただ失恋という出来事だけが残った。気が逸れれば、失ったものへの執着も薄らぐ。

「反撃はそれだけ?」

「な、なに、」

 おどおどとはるが身構える。そのまま後ずさりする。それを許さず、あじは手を伸ばした。あじを猫だといって名前をつけたのは、はるだ。猫は獣。獲物を狙って、喉元にかぶりつく、やわらかな生き物。

「あっ、」

「はるさんって、もしかして、処女?」

 反応の不慣れな様子が、あじにそう言わせた。はるは目を見開いて、ぽかんとした表情をすぐに怒りの色に染めた。図星なんだ、とあじはそんなはるを見て思う。三十五歳で処女の人というのは珍しいのかそうでもないのか、あじは分からない。自分は女の人を知ったのは十七歳のときだった。相手は同じ年の娘で、だけどだからといって女の人のすべてが十七、八で初体験を済ませていると考えてはいけないということは知っていたけれど。

「バ、バカにして、」

「そんな。そういう意図なんてないよ、本当に」

 思わず言葉に真剣な力がこもって、そんなあじにはるはふと力を抜いた。そう? と妙に素直であどけない声まで出たことに、はる本人は気付かなかった。

「ずっとひとりの男を好きだったんだ」

「そうだよ、バカにするかい」

「素敵なことだと思うけど。心が揺らがなかったんだ、ずっと好きっていいね」

「執念深いってことかね」

「恋ってピンクとかオレンジの、しかもパステル系でほわほわしてるイメージがない?」

 話が明後日の方向に飛んで行ってしまったと感じて、はるが首を傾げる。恋が淡い色だと思ったことはなかった。緊張したりときめいたり心が千切れそうだったり興奮したりで、どちらかといえば色というよりジェットコースターみたいだと思うけど、と口にする前に、あじが言葉を続けてしまった。

「でも執念とかってさ、赤茶色の濃いやつとか、そんなイメージ」

「あじは言葉を色で思うの」

「はるさんは?」

「言葉なんてそこにあるだけでしょ」

 ふうん、とあじは楽しそうにつぶやいて、はるの手をもう一度引いた。意外と細いと感じる手首は、はるのてのひらが女性にしては大きいからだろうか。

 はるはもう逃げなかった。

 観念したというより、あじの楽しそうな雰囲気が移ったから、といった感じで。


 唇。

 はるのそれは薄い。あじのそれは少し厚い。薄い唇の人に熱い体温を感じたことはない、とあじが言うと、はるは驚いていた。

 首筋をやわらかく這わせる唇は、神経が集中したようにはならない。したようにはならないけれど、確実に相手の体温と感触を味わう。舌先を覗かせてもいないのに。

 はるはぎゅっと目を閉じて、身体を固くしていた。あじが髪をそっと撫でてみても、背中を静かにさすってみても。反応がこわばっているので、あじは不安になりつつも手は止まらなかった。

 化粧の匂いと、香水の匂い。

 別れた恋人とは違う手触り。

 絡まってしまったネックレスの鎖を思う。引っ張ったり疳癪を起して乱暴に扱うと、鎖はほどけないどころか切れてしまったりする。やさしく少しずつ、ときほぐしていくしかない。

 唇へのくちづけで緊張するのなら、頬からだ。いや、それよりも遠いところからにしよう。額。瞼。鼻先。頬骨。遠ざかる振りをして、耳。あじは軽く、ごく軽く自分の唇が羽になったと想像してくちづける。

 はるが、くすぐったくて笑い出すように。

 たまらなくなって、明るい声を上げるように。

 耳から頬、ついばむように何度もゆっくりと唇で触れる。

「……ぐっ、」

「……ぐ?」

 だけど吹き出してしまったのはあじの方だった。

「……なに?」

「いや、……ふっ、ふふっ、くふっ、」

「ちょっと、なに、不安になるじゃないの、なによ」

「可愛いなって、」

「……どうせいい年した処女ですよ」

「そんな卑屈にならなくても」

 でも生涯ただひとつの恋しかしないつもりなの、とあじは聞く。はるはしばらくまばたきをゆっくりと繰り返して、いや、と短い返事をした。

「そんなのまだ分からない?」

「私の人生があとどれだけ残ってるのかも分からないしね」

「年寄りじみたことばっかり言うよね」

「私の青春は濃く短く絞り切られて、もう後は残りかすみたいな時間で生きているからじゃない?」

「残りかすだなんて」

 はるは遠くを見つめる目をする。視線の先にあるあじの顔など、見ていない様子で。

「幸せだったから」

 いいんだよ。

 ものすごいスピードで駆け抜けた、うんと幸せな時間だったんだから。

 薄い唇がそっと持ち上がる。綺麗な顔。化粧の問題だけじゃないんだろうな、とあじは思った。きっと、呼び起こした過去の恋がここまではるに輝きを与えているんだろうな、と。

「ほら、だからもうこんなおばさんの処女なんか散らしても楽しくないだろう、どきな」

「僕は楽しいけどさ、はるさんが楽しくないならやめようか」

 そう言いながらあじははるの頬にくちづける。

「こんな年上の女をからかうんじゃない」

「どうして綺麗じゃない振りをしてるの?」

 あじははるを抱きしめてみた。香水の人工的な花の匂いの奥に、微かなはる本人の匂いが混じる。やわらかい。あまり肉のついていない細身でも、女はやはりやわらかいのだとあじは自然と微笑む。

「他の男になんか興味がないからだよ」

 本気ではなく、それでもあじをほどこうとはるがもがく。体温が触れ合うということに慣れてはきたらしい。余計な力が抜けている。

「恋した男の目にだけ、綺麗に映ればいいからさ」

「綺麗な人を見るといい気分になれるんだから、そんなこと言わずに普段から綺麗にしてればいいのに」

「サンドイッチ屋のおばちゃんが綺麗でも意味なんかないって」

 笑い声がシャボン玉のようにはじけた。

 別に自分はこの人に恋してしまったわけでもないし、この人だって自分になんかそういう意味で興味なんかないんだろうけど、と思いながら、あじは聞く。

「僕はいつまでここにいてもいいのかな?」

「好きなだけいればいいんじゃない?」

「でもそろそろ会社の有給も限りがあるし」

「失恋して有給取ってたのかい、優雅だねぇ」

 笑っていたから嫌味ではないのだろう。

「失恋して自分まで捨てるくらい自暴自棄になってたけど、仕事のことは忘れなかったんです」

「責任感が強いんだ」

「怒られるのが苦手なだけかも」

 抱きたくて抱きたくて仕方ない、という感情はない。でも抱きしめてうとうとと眠ったりしたら幸せそう、という予感はある。女に対してこういう気持ちになったのははじめてなので、あじは少しだけ戸惑い、出会い方のせいなのか年の差のせいなのかと考えてみた。

「あじ、腹減らない?」

「なに、色気のない話して」

「食欲と睡眠欲が満たされてないと、性欲は出てこないって話だよ」

「疲れてるときほど子孫残さなきゃって、男は性欲爆発したりもするらしいけど」

「私は男じゃないから分からないよ」

 もぞもぞとはるはあじの束縛から抜け出そうとする。遊んでる気分になってきて、あじはわざと力を込めたり抜いたりした。

「ふざけてないで、なにが食べたい?」

 はるさんもはるさんの恋した男も好きだったっていう卵サンドが食べたい気がする、とあじは答える代りに、にゃあんと猫の真似をした。

「それじゃ分かんないよ」

 はるが呆れた声で、抱きつかれたままの恰好で腕だけ伸ばし、あじの額をぺしりと叩く。それでなんだかまた笑い出してしまって、あじはもう一度、はるの薄い唇に笑顔のままくちづけた。

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