第9話 絶望のタワマン
リビングの隅でうずくまり、ガタガタと歯の根も合わないほど震えていたルリルリは、ふと、混濁する意識の中で一筋の希望を見出しました。
そうだ。この異常な内出血、この剥がれかけた爪、そしてこの消えない「呪いの手形」を見せればいい。
この傷を見せれば、誰か大人が、この世界の理屈で動いている「助けてくれる人」が、自分をこの地獄から連れ出してくれるはずだ――。
けれど、夜の雨の中をすぐに駆けつけてくれるような親戚は一人も思い浮かびません。
近くに住むユイやみなみんに電話したところで、彼女たちも今、自分と同じように暗闇の恐怖と戦っているはず。
こんな夜更けに家を抜け出して来てくれるはずもありませんでした。
(そうだ、警察? いや、大事になったら大変だし……そうだ、救急車! 119番なら、消防士さんたちが来てくれる。病院に担ぎ込まれて、看護師さんや先生たちに囲まれて治療してもらっている間に、夜が明けるのを待てばいい。明るい病院のベッドなら、きっとあの「白い手」も届かない……!)
ルリルリは、藁をも掴む思いで、サイドテーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取りました。
腕の内出血は、彼女が感じる極限の恐怖と同期するように、ドクン、ドクンと波打つ鼓動に合わせて、その熱を帯びた痛みが増していくようでした。
まるで、皮膚の下で無数の虫が暴れているような、悍ましい拍動。
震える指先で、緊急通報の「119」をタップします。
(大丈夫。お風呂で転んで怪我をしたって言えばいい。この真っ黒な腕を見てもらえば、絶対に放っておかれない……。お願い、誰か、生きてる人の声を聞かせて……!)
呼び出し音は、驚くほど短く済みました。
すぐにつながった。
その事実に、ルリルリの胸に一瞬だけ、温かい安堵の光が灯りました。
「……もしもし! あの、怪我をしたんです! 今、両親もいなくて、一人で……! 腕が、腕が真っ黒に腫れて……っ!」
喉が張り裂けんばかりに、ルリルリは受話口に向かって叫びました。
しかし、数日前に機種変更したばかりの、お気に入りだったフレッシュピーチピンクのスマホから返ってきたのは、人間のオペレーターの声ではありませんでした。
スピーカーから漏れ出したのは、重く湿った、泥水を喉に詰まらせながら絞り出すような、地獄の底からの残響。
『……くち……お……し……や…………』
ヒュッ、と喉の奥で息が止まりました。
顔から完全に血液が引き抜かれ、全身が氷点下の冷気にさらされたような感覚。
『……くちお……しや……ミズ……ミズを……ク……レ……』
それは、あの推しの赤木さんの横で聞いた、浴室の深淵で聞いた、あの少女の呪詛そのものでした。
幸いなことに、指先はまだ、現実の拒絶反応を残していました。
「いやあああぁぁぁ!!」
狂ったように終話ボタンを連打し、無理やり通話を切断します。
けれど、切れたはずの画面の中で、ピーチピンクの筐体が不気味に明滅を繰り返しました。
液晶の奥から、無数の「白い指」が画面を内側から押し広げようと、ミシミシと音を立てているように見えました。
「来ないで! 嫌ぁ!!」
ルリルリは、買ったばかりの新品のスマホを、力任せにアイランドキッチンのタイルへ向かって投げ捨てました。
ガシャンッ!!
鋭い硬質な音が響き、強化ガラスの画面にひび割れが走りました。
その亀裂は、液晶の中央で不気味なほど正確な「十字」を描いて止まりました。
その十字の形は、歴史の授業の資料集で見た、罪人を縛り付けるための無骨な「処刑台」を嫌でも連想させます。
「……あ、あぁ……」
彼女は涙さえ枯れ果てた目で見つめることしかできませんでした。
リビングの照明をすべて点け、ルリルリはスマホを握りしめた。
布団には入れなかった。
きっと、引き摺り込まれるから――――。
割れた画面の向こうには、親の温もりに守られている親友たちがいる。
【トークアプリ:ガストン AM 3:00】
ルリルリ
「ねえ 起きてる?」
「私いま家に一人」
「怖くてまじで寝れない」
みなみん
「私も寝れない さっき窓の外に出た」
「窓をベタベタ触ってた むり」
「いまお母さんの布団で震えてる」
ユイ
「私もさっき出た」
「お父さんの布団でお父さんに抱きしめてもらってる」
「お母さんは明日早い!ってキレてた」
ルリルリ
「私一人なの」
「さっきのお風呂で引き摺り込まれそうになった」
「むり ねえお願い もう絶対にむり」
「日が出始めたら集まろう?」
みなみん
(「賛成」のスタンプ)
ユイ
(「御意」のスタンプ)
ルリルリ
「二人とも余裕?」
みなみん
(「余裕ねーぜ」のスタンプ)
ルリルリ
「四時半 4時半にしよう?」
みなみん
「気持ちはわかるけど」
「ちゃんと明るくなってない時に外出るのは危ないよ」
ユイ
「私もそう思う」
ルリルリ
「確かに日の出前にエレベーター乗れない……」
「じゃあ日の出調べて 親に抱かれて余裕の2人よろ」
ユイ
「明日の日の出 4:53」
みなみん
「その時間にどこ?」
ルリルリ
「私の家!!」
「パパが午前7時には帰るって言ってたの」
「もうちゃんと全部話して 助けてもらおう?」
ユイ
「健三さん こういうの解決してくれそうだよね」
「助けてもらおう」
「ガストンではこんなに話してるけど 私もう限界」
「お風呂も入れないし トイレも一人じゃいけない」
みなみん
「私もだよ」
ルリルリ
「私もだよ」
「二人とも親に抱かれてるんでしょ?」
「私なんて一人なんだよ?」
ルリルリ
(「号泣」のスタンプ)
それから二時間。うとうとと意識が混濁し始めたルリルリを、異変が叩き起こした。
カチ、カチ、カチ……。
家中すべての照明が、不規則に点滅を始めたのだ。
オレンジ色の光が瞬くたびに、部屋の隅に立つ「目に見えない何か」が近づいてくるような錯覚に陥る。
ルリルリは、少しでも外界の気配を感じようと、高層階の窓のカーテンを開けた。
「あ……っ……」
声が止まった。
地上数百メートル。
あり得ない場所に、「それら」はいた。
窓ガラス一面を埋め尽くすように、真っ白な顔、泥に汚れた腕、生首たちがぎっしりと張り付き、執拗にガラスをベタベタと撫で回している。 逃げ場はない。
ルリルリは悲鳴を上げながらカーテンを閉め切った。
「誰か、誰か助けて……!」
深夜だが構わない、お隣さんに泣きつこう。
ルリルリは内出血で真っ黒な腕を抱え、玄関へ向かった。
しかし、ドアノブに手をかけた瞬間、凍りついた。
――カリ、カリカリ……。
爪の音が、玄関ドアの外側を執拗に引っ掻いている。
この世のものではない何かが、すぐそこに待っている。
第六感が察してしまった。
今これを開けたら、帰ってこれない。
ルリルリは震える手で、備え付けのインターホン受話器を取った。
先ほどの119番通報の恐怖が消えるはずはないが、このままでは朝までに死んでしまうかもしれない。
いや、死ぬならどんなにいいか……。
『あの深淵』に引き込まれたら、死ぬより恐ろしい事態になってしまう。
24時間常駐のコンシェルジュ。
彼らなら、警備員を呼んでくれるはずだ。 プルル……。
ノイズ混じりの、湿った声、何かを言っているが聞こえない。
「助けてください! 玄関の外に誰か……!」 『………………くちおしい…………くちおしい…………』
受話器から漏れ出たのは、絶望的な呪詛の言葉だった。
「ひっ……!」
ルリルリは即座に受話器を叩きつけた。
タワーマンションのセキュリティも、コンクリートの壁も、怨霊たちには何の意味もなさなかった。
日の出まで、あとわずか。
ルリルリはリビングの真ん中で、点滅し続ける明かりの下、ガタガタと震えながら泣き続けるしかなかった。




