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第8話 水が怖い

 ファミレス「デニーレイド」の駐車場。湿ったアスファルトが街灯を反射して鈍く光る中、3人は明後日の出発を固く約束しました。

「……電車なら、特急で二時間。そこからはタクシーを使うしかないね」

 ルリルリが震える指で路線検索の結果を見せます。

 一刻も早く、あの忌まわしい祠へ「ごめんなさい」をしに行き、この皮膚にまとわりつくような恐怖から逃れたかった。

 けれど、ルリルリには翌日、数ヶ月前から予約していた表参道の人気美容院の予定が入っていたのです。


「明後日の朝、8時に駅に集合ね。絶対に遅れないで」

 ユイとみなみんは、迫りくる見えない影への不安を必死に押し殺しながら、空元気でそう答え、それぞれ足早に帰路につきました。


 翌日。ルリルリは駅前の洗練された美容院を訪れていました。

 一面の大きな鏡に映る自分。

 清潔なタオルの匂い。

 憧れの美容師、ビジュが良すぎる赤木さんに髪を任せていれば、あの二人の怖い話も忘れられるはずだ――。

 彼女はそう自分に言い聞かせ、必死で「日常」にしがみつこうとしていました。


「ルリさん、今日はトリートメントもしっかりやっておきますね。じゃあ、シャンプーから入ります」

 赤木さんの柔らかな声とともに、視界がゆっくりと倒れていきます。

 仰向けになり、目の上に薄い不織布のフェイスガーゼがそっと乗せられました。


 規則的に響く、心地よいシャワーの音。

 耳元で優しく弾けるお湯の温かさ。

(大丈夫、ここは安全。あんな山奥じゃない。たくさんの人がいる、明るい街なんだから……)

 指先の柔らかな感触に、ルリルリは緊張を解き、ゆっくりと瞼を閉じました。


 異変は、その瞬間に訪れました。

 軽やかなシャワーの音に混じって、足元のタイルを「ズルリ……ズルリ……」と、重く濡れた泥の塊を引きずるような、不快な音が忍び寄ってきたのです。

 同時に、適温だったはずのお湯の感覚が変質しました。

 さらさらとした水気が失われ、生ぬるく、ドロリとした粘度の高い液体に変わったような感覚。


 鼻を突くのは、高級なシャンプーの香料をかき消すほどの、凄まじい臭い。

 そう、それはまるで、ママがアジの塩焼きの生ゴミを片付け忘れたまま家族旅行に出てしまって、帰宅した瞬間に家中に充満していた、あの時の最悪な臭い――それよりも、もっと密度が濃く、喉の奥に突き刺さるような強烈な悪臭。




「……っ!? えっ……あ、赤木さん?」

 異変を伝えようと唇を動かしましたが、声が、喉の奥にへばりついて出てきません。

 指先一つ動かすことができない。

 金縛りだ――。

 不意に、後頭部を支えていた温かな人間の手の感触が、ふっと消えました。

 代わりに、氷のように冷たく、節くれだった「無数の硬い指」が、ルリルリの頭、首、そして肩へと一斉に絡みついてきました。


 何十本の腕に掴まれているのか、想像もつかない。

 そこから漂うのは、昨夜のデニーレイドで確信した、あの「腐敗した人間の死臭かもしれないにおい」でした。


(赤木さん……じゃない。これ、赤木さんの手じゃない……!)


 フェイスガーゼ越しに、至近距離で「何か」が自分を覗き込んでいる気配がしました。


 ヒタ……ヒタ……。


 顔にかかっているガーゼが、天井から滴り落ちる赤黒い液体に染まり、じわじわと重くなっていきます。

 泥水の混じった腐った血が、ルリルリの鼻腔へと染み込んできました。

 そして、耳元で、少女のすすり泣くような、けれど怒りに満ちた声が鼓膜を突き刺したのです。


『み……ず……。ミズを……ください……』


 心臓が止まるかと思いました。

 ガーゼを振り払おうと必死でもがきますが、金縛りで体は石のように固まったまま。

 その時、ルリルリの顔面に、ボトッと、重く湿った「信じられないほど臭い肉の塊」が叩きつけられました。

 それは、肩の付け根から無理やり引きちぎられたような、人の、冷たい「腕」でした。


 死後硬直で硬くなった指先が、ルリルリの顔を覆い隠すように、ずっしりと、容赦ない重みでのしかかってきます。

 腐敗した肉の重みが彼女の呼吸を塞ぎ、腕の断面から溢れ出す膿と、そこに蠢く蛆虫が、顔全体に垂れ流される感触がしました。

「……っ!! ……っ!!」

 酸欠で意識が遠のく中、必死で右足の指を動かした拍子に、サイドテーブルの備品が派手な音を立てて落下しました。


 ガシャン!!


 その衝撃で、ようやく意識が現実へと引き戻されました。

「ルリさん!? 大丈夫ですか!? 顔色が真っ青ですよ!」

 心配そうに顔を覗き込んでいるのは、紛れもなく本物の赤木さんでした。

 周囲はいつもの清潔な美容院です。

「……あ、あれ。……私……」

「ずいぶん、ぐっすりと寝てしまったみたいですね。ひどくうなされていて可哀想に。……嫌な夢でも見ましたか?」


 ルリルリは、荒い呼吸を整えながら、「大丈夫です。つい、変な夢を見ちゃって……」と力なく答えました。

 しかし、帰り際、美容院の大きな鏡で自分の姿を見た時、彼女は膝が砕けるような思いをしました。

 そこには、あの腐った腕が掴んでいた場所――彼女の白い首の根元に、五本の指の手形が、内出血となってくっきりと浮かび上がっていたのですから。


 美容院を飛び出したルリルリは、震える手でトークアプリ「ガストン」を開きました。


【トークアプリ:ガストン】


ルリルリ

「まってまじで助けて」

「今美容院で出た」

「顔の上に死んだ人の腕落ちてきた」

「むりこわすぎる 首に手形ついてるんだけど」

「どうしよう」


(すぐに既読がつく)


みなみん

「ルリ無事!?」

「やばい 実は私とユイも昨日の夜お風呂で出た」

「シャワー中 目開けられない時に床から生えてきた手に足掴まれた」

「排水溝に引き摺り込まれそうになってまじで死ぬかと思った」


ユイ

(画像送信)

みなみん

(画像送信)


ユイ

「壁の向こうに連れて行かれそうで 必死で蛇口のパイプ掴んで耐えたの」

「力がえぐすぎて体ちぎれるかと思った」

「爪剥がれても 手離したら絶対死ぬって分かったから」

「まじで地獄だった」


みなみん

「次はもう絶対耐えられない」

「ルリ 今日のお風呂まじで気をつけて」

「絶対一人で入っちゃダメ!!」


ルリルリ

「……嘘でしょ」

「私これから帰ってお風呂なんだけど」

「無理 怖い」

「一人なの パパもママも今日いないの……」



 運悪く、その日は父の健三が泊まりの出張、母の佳苗は急に体調を崩した祖母の看病で実家へ泊まりに出ていました。

 ルリルリは、誰もいない広い自宅の玄関で、浴室の扉を睨みつけたまま立ち尽くしました。

 けれど、あの美容院で泥だらけの腕に触れられた感触、膿の臭いが髪にべったりと残っている気がして、洗わないわけにはいかなかったのです。


 彼女は意を決して、脱衣所の明かりをすべて点け、浴室に入りました。

 シャンプーの時は、一瞬たりとも目を閉じず、狂ったように周囲の壁や天井を警戒し続けました。

 幸い、そこでは何も起きませんでした。

(……大丈夫。ここには入ってこれない。早く済ませて出よう。一秒でも早く)


 極限の緊張で冷え切った体を温めるため、ルリルリは逃げるように湯船に浸かりました。

 首までお湯に浸かり、ふう、と深く息を吐いた、その瞬間でした。


 ガバッ!!


 湯底、彼女の足元から突き出した「何か」が、ルリルリの両足首を鋼鉄のような力で掴みました。

「ひっ……!」

 悲鳴を上げようとした瞬間に、大量の泡が口の中に流れ込みます。

 そのまま、狭い湯船の底にあるはずのない「どこまでも深い深淵」へと、体ごと垂直に引き摺り込まれたのです。


「……っ!! ……ぅ、あ……っ!」

 ルリルリは死に物狂いで身をよじり、洗い場のカランに指をかけました。

 しかし、濡れた指先が虚しく滑る。

 ズルリ、ズルリと、彼女の下半身は熱いお湯ではなく、氷のように冷たい「泥の沼」の中に吸い込まれていきます。

 彼女は最後の力を振り絞り、壁面に設置されたシャワー固定用のステンレスポールに、両腕を折れんばかりに絡み付かせました。


 ミシミシッ!! ギギギ……ッ!!


 ポールの根元が、タイルの壁とともに悲鳴を上げます。

 下からは、人間のものとは思えない、内臓を雑巾のように絞り上げるような凄まじい怪力がルリルリを闇へと引く。

 腕が肩の付け根から引きちぎられるような激痛。

 湯面の下では、泥水が逆巻くようなゴボゴボという不気味な音が響き、あのかすれた少女の怨嗟の声が脳内に直接響き渡りました。


『くちおしや……ゆるさぬ……ゆ……るさ……ぬ……』


「……っが、ぁあああ!!」

 腕の骨が折れる、と確信した瞬間。

 不意に、その凄まじい引力が消失しました。


 反動で上半身が湯船から弾け飛び、ルリルリは洗い場の硬いタイルに叩きつけられました。

 酸欠で激しく喘ぎながら、自分の腕を見ます。

 シャワーポールを必死で抱え込んだ両腕は、激しい圧迫と内出血によって、手首から肩まで真っ黒に腫れ上がっていました。


 彼女は服も着ず、バスタオル一枚を羽織って浴室を飛び出し、リビングへ逃げ込みました。

 本来なら夕食の支度をする時間。

 彼女は料理が得意でしたが、こんな震える手で包丁など握れるはずもありません。

 広すぎる家の中に、たった一人。

 外では夜の雨が激しく降り始め、窓ガラスを叩く規則的な音が、泥だらけの死者が素足で庭を歩き回る音に聞こえて仕方ありませんでした。


 ルリルリは、真っ黒に腫れ、激痛に耐える両腕を抱きしめました。

 家中の明かりをすべて点け、部屋の隅で膝を抱えて立ち尽くします。

 絶望が、冷たい水のように足元から浸食してくる。

 今夜。

 パパもママもいないこの家で、たった一人で、この「朝を迎えさせてくれないかもしれない闇」を乗り切らなければならないのだと、彼女は涙さえ枯れ果てた目で暗闇を見つめ続けました。

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