第5話 日常に戻れない
住み慣れた自宅の浴室は、本来なら世界で一番無防備になれる、安全なシェルターのはずでした。
けれど、目を閉じてシャンプーを泡立てていると、耳元を流れる水音がやけに低く、泥でも混じっているかのように濁って聞こえます。
なんだか、空気が重い。
浴室のタイルの壁が、見えない巨大な力に押しつぶされるようにミシミシと悲鳴を上げています。
(……気のせい。ただの家鳴り。疲れが出てるだけ。大丈夫、ここは私の家なんだから)
ユイは必死で自分に言い聞かせ、頭皮に立てた指先に力を込めました。
だがその瞬間、浴室を支配していたはずの熱気が、一気に引き抜かれたのです。
湿度が消え、肺を刺すような乾燥した冷気が肌を撫でました。
たまらず薄らと目を開けたユイは、自分の体を見て凍りつきました。
「……っ!?」
視界が、どす黒い赤に染まっています。
指先から肘にかけて、べっとりと、粘り気のある黒い鮮血が張り付いていました。
自分の体から流れているのか、それとも上から降ってきたのか。
パニックで顔を上げると、湯気に曇った鏡の奥に「それ」はいました。
ユイと同じくらいの年の少女が、鏡の向こう側から、じっとこちらを見つめ返しています。
白く透き通った不自然な肌、憎悪を煮詰めてドロドロにしたような瞳。その唇が、ゆっくりと、何かを呪うような形で動きました。
(……ミズ……ミズ……)
叫び出したい。けれど、一糸まとわぬ姿で外へ飛び出す羞恥心が、極限の恐怖をわずかに上回りました。
ユイは狂ったようにシャワーのハンドルを捻り、視界を塞ぐ泡を必死で流しました。
大好きなはずの湯船。
その蓋の隙間から、あのキャンプ場で嗅いだ腐った魚の臭いが、黒い指先のような形をした煙となって這い出してきます。
「いや……っ、いやあぁ!」
ユイはバスタオルを掴むことさえ忘れ、濡れた体でリビングへと飛び出しました。
床に水滴を撒き散らしながら、光のある方へ。
「ちょっと! あんた、女の子なんだからお父さんの前でそんな格好しないの! 風邪引くでしょ!」
ソファでくつろいでいたお父さんの目を慌てて隠すように、お母さんが立ち上がりました。
「お母さん! お風呂! 誰か、誰かいるの! 鏡の中に、変な女の子が……!」
「何言ってるのよ、この子は。……全く、待ってなさい」
お母さんはやれやれと肩をすくめ、ユイをリビングに残して浴室へ向かいました。
ユイはガタガタと震えながら、テレビのバラエティ番組が流れるリビングの明るさに、必死でしがみつきました。
「何もいないわよ。ほら、排水溝のゴミでも見て見間違えたんじゃない? 鏡も曇ってたんでしょ」
戻ってきたお母さんの呆れたような声。
「あれ、おかしいなあ」
そう呟きはしたものの、母親には「何も見えない」という事実に、ユイは底知れない絶望を覚えました。
母親のその平穏な言葉は、ユイをこの世界から切り離し、孤独な狂気へと追放する宣告のように聞こえたからです。
自室に戻っても、四隅に溜まった闇が怖くてたまりませんでした。
ユイは髪も乾かさぬまま、ただパジャマを引っ掛けてベッドの中に潜り込みました。
やがて、キャンプでの極限状態の疲れと精神的な摩耗が、泥のような眠りとなって、ユイを深い意識の底へと沈めていきました。
ふと、喉の奥が火を押し当てられたように焼け付く感覚で、目が覚めました。
深夜。
開け放たれた窓から入る風は冷たく心地よいはずなのに、ユイの体の内側は、炎を噴くほどに乾ききっていました。
「水……水……」
ふらつく足取りで階下へ向かいます。
階段のスイッチ、リビング、廊下……。
カチッ、カチッ、カチッ。
ユイは狂ったように家中の電気を点けて回りました。
自分が行く必要のない浴室も、トイレも、納戸も。
家中のスイッチを全て押し、家中から「影」を消したかったのです。
一寸の闇からも、あの「白い指」が伸びてくる気がして。
キッチンの蛇口を全開にします。
コップに注ぐ時間さえ惜しい。
直接蛇口に口を押し付け、流れ込む水を強引に飲み下しました。
ごくん、ごくん。
おかしい。飲んでも、飲んでも。
胃の中に落ちた瞬間、水が熱で蒸発してしまうかのように、潤いが消えてしまいます。
1リットル、2リットル。
腹は水で膨れて苦しいはずなのに、喉は砂漠のようにカラカラのままです。
ごくん。ごくん。
5リットルは飲んだでしょうか。
ユイは、自分の身体が、自分のものではなくなっていることに気づき、戦慄しました。
誰か別の「理不尽に乾いて死んだ者」の器に、自分が作り変えられている。
(違う。この喉の乾きは、私のものじゃない……私の意思じゃ無い!)
逃げるように自室へ戻ったユイは、開いたままの窓の外を見て、ついに悲鳴さえ失いました。
月明かりに照らされた庭の暗がりに、四つの影がもがいていました。
それは人――――!
魚のように身体をくねらせ、泥水を求めるように隣地の庭土を爪が剥がれるまで掻きむしり、その恨めしげな目は真っ直ぐに二階のユイを捉えています。
「お母さん! お母さん、お化けが出たの! 外に、お隣の庭に誰かいる!」
ユイは両親の寝室のドアを、文字通り蹴破るようにして飛び込みました。
「もう……いい加減にして。良い歳して寝ぼけないでよ、ユイ」
お母さんは眠たげに目を擦り、反抗期の娘をなだめるのが面倒だという風に、自分の薄がけを捲りました。
「ほら、おいで。一緒に寝てあげるから。明日も部活でしょ」
ユイは、冷え切った体をお母さんの体温の中に滑り込ませました。
「……っ、……っ」
歯の根が合わないほど震えが止まりません。
でも、お母さんの石鹸の匂いと温もりが、ユイをこの現実世界に繋ぎ止めてくれる唯一の錨だと感じていました。
ユイは過労と恐怖で脳がシャットダウンするように、深く、暗い眠りへと再び落ちていきました。




