第4話 空耳
「ほら、みんな起きて! 絶好の川遊び日和だよ!」
翌朝、テントの薄いポリエステルの布地を貫通する勢いで差し込んできた健三さんの声は、残酷なほどに快活でした。
雲ひとつない抜けるような青空、網膜を焼くほどに眩しい太陽。
キャンプ場としては、これ以上ないほど最高の朝です。
けれど、シュラフから這い出した三人の温度差は、あまりにも激しいものでした。
「……もう、パパ、朝からうるさいよ。何言ってんの、中学生になってまで川遊びなんてしないでしょ。普通に暑いだけだし」
ルリルリが重い瞼をこすりながら、ケラケラと場を和ませるように笑います。
「そうですよ健三さん。日焼けもこれ以上したら部活で怒られちゃうし、女子はテントの影で冷たい飲み物でも飲んで、ゆっくりしたいんですー」
みなみんもそれに調子を合わせて、屈託のない笑い声を上げました。
二人にとって、昨夜の「焚き火の異変」や「青紫の炎」は、すでにキャンプ特有のハイテンションが見せた一過性の不思議な思い出、あるいは「ちょっと不気味だったけど、もう終わったこと」として処理されていました。
朝の光が、夜の恐怖を綺麗に洗い流してしまったのです。
だが、ユイだけは違いました。
二人の明るい笑い声の隙間、遠くから聞こえる川のせせらぎに混じって、鼓膜の裏側を直接爪でひっかくような、あの粘り気のある声が届いてくるのです。
(……イタイ……ミズ……ミズを……)
ユイは耳を塞ぎたい衝動を必死で抑え、湿った地面に視線を落としました。
昨夜、足首に絡みついてきたあの冷たい泥水の感触が、今も肌にこびり付いているような錯覚が消えません。
大人たちが昨夜の宴の跡を片付け、手際よく撤収作業を始める傍らで、三人はテントの跡地にレジャーシートを広げ、カードゲームを再開しました。しかし、ユイの手元は目に見えて狂いっぱなしです。
「……ねえ、ユイ。やっぱりあんた、ずっとそれのせいじゃない? 顔色が死人みたいだよ」
ルリルリが、ユイのショートパンツのポケットから不吉な存在感を放っているスマートフォンを指差しました。
「えっ、何が……?」
「貸して、ちょっと!」
不意を突かれました。
ルリルリが、水泳部仕込みの素早い動きでユイのスマホを奪い取ったのです。
「あ、待って! 返して、ルリルリ!」
「みなみん、見て。ユイったら、まだこんなの持ってるんだよ。消しちゃうからねー。こういうのはね、さっさと消さないと呪いが解けないんだよ?」
ルリルリとみなみんが、ニヤニヤと悪戯っぽく笑いながら、画面をスワイプし始めました。
「お願い、やめて! 本当に、開けちゃダメだって!」
ユイは半狂乱になり、本気の悲鳴に近い表情で懇願しました。
その、あまりにも尋常ではない怯え方に、二人は一瞬だけ顔を見合わせ、言葉を失いました。
「……そっか、分かった。ごめんね。怖すぎて、自分じゃフォルダを開くことも、消すこともできなかったんだよね。ユイも可愛い乙女だねぇ」
ルリルリは、親友の「弱さ」を保護するような、可笑しそうな笑みを浮かべて画面をタップしました。
「ほら、一括削除。……あ、消去履歴もね。最近のスマホはしつこいから、ゴミ箱まで空にするよ。……よし! これで完全に空っぽ。クリーンになったよ!」
ルリルリは満足げに、スマホを軽やかにユイへと放り投げました。
「残念でした! これでSNSでバズる夢は消えましたー! さあ、元気出しなよ!」
空中で回転し、手の中に収まったスマホの筐体は、なぜか氷のように冷え切っていました。ユイの指先が、微かに震えます。
データは消えた。
ルリルリの親切心と、少しの悪戯心が、物理的な呪いの「証拠」をこの世から抹消してくれたはずでした。
だが、ユイの胸に広がったのは、安堵ではありません。
『写真に写っているから、そこにいる』という認識の段階から、『目に見えないのに、すぐ隣にいる』という、より深刻な絶望へと恐怖が移行しただけだったのです。
証拠が消えた今、この「音」が自分だけに聞こえていることを証明する手段は、もう何一つ残っていません。
自分だけが、狂気の淵に取り残されてしまった。
キャンプ場を後にし、重厚なミニバンの車内。
バックミラー越しに遠ざかっていく、あの杉林と石段を見つめながら、ユイは自分の耳を疑いました。
窓を完全に閉め切り、冷房のモーター音だけが規則正しく響く密室のような車内。
隣で心地よさそうにスヤスヤと眠る友人たちの寝息に混じって。
(……くちおしや……断じて……許すまじ……)
老人のような、それでいて掠れた声が、脳髄に直接響きました。
「……ねえ、今、誰か喋った?」
ユイがおそるおそる助手席の健三さんや、運転席の義明さんを見ますが、二人とも楽しそうに談笑しているだけです。
(……逃がさぬ……逃がさぬぞ……)
声は、もう止まりません。
ユイは震える手でスマホを握りしめました。画面は真っ黒なままです。
しかし、その漆黒の液晶画面に、一瞬だけ、首のない男が、背後に座っている姿が反射した気がして、彼女は声を上げることもできず、ただ硬直するしかありませんでした。




