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最終話 肉と肉汁の匂い

 十二月の風は冷たく、街のあちこちで色とりどりのイルミネーションが輝いていました。

 かつて「怨霊の引きずり込み」の恐怖に支配されていたあの夏から数ヶ月。

 佐伯家の広々としたリビングには三家族が集まり、クリスマスの温かな灯火が灯っていたのです。


 部屋にはスパイスの効いたホットワインの香りと、オーブンから漂う芳醇な匂いが満ちています。

「さあ、焼けたぞ。特製のローストビーフだ」

 健三が少し照れくさそうに、巨大な肉の塊をテーブルに置いた。

 かつての約束通り、肉汁の滴る最高の一品だ。

 ルリルリ、みなみん、ユイの三人は、その肉を見つめて一瞬だけ視線を交わしたが、そこにはもう忌まわしい連想はありません。


「美味しそう! パパ、一番大きいところ頂戴ね」

 ルリルリの明るい声に、健三の目尻が下がります。

 整形外科医の誠一は、メスではなくカービングナイフを手に取り、見事な手つきで肉を切り分けていった。

 彼は三家族の中で一番刃物捌きが上手く、今では料理の切り分けは彼の専任なのです。


 この集いの中に、一人、浮世離れした男が座っていた。

 五百旗頭いおきべである。

「五百旗頭さん、お口に合いますか?」

 ホストである健三が秘蔵の赤ワインを注ぐと、五百旗頭は静かに頷きました。

「ええ。……平和な場所で食べる食事というのは、美味いものです」


 香ばしい焼きたてのチキンを切り分けながら、話題はこの数ヶ月、家族を陰から支え続けた男のことになった。

「今回の報酬についてですが、五百旗頭さん……いや、五百旗頭 薫さん」

 ホストである健三が、少し改まった表情でワイングラスを置いた。

「改めて、五百旗頭 薫という『専門家』にお支払いした額は、私の人生で最も価値のある支出でした。しかし、義明さんと誠一さんがどうしても自分たちにも支払わせてくれと、ずっと私に詰めかけてくるんですよ」

 健三は困っているとばかりに苦笑する。


 五百旗頭 薫は、フォークを置いて静かに笑いました。

「ククク。まぁ、お支払いについては頂いているので、私が口出しをするものではありませんね。しかし……せっかくですから、皆さんに話しておきましょう。私の仕事の『裏側』を。無論、他言無用に願います」

 薫は、胸元から一枚の重厚なカードキーを取り出し、テーブルに置いた。

「私が所属しているのは、表向きは国際的なコンサルティング・ファームですが、実態は世界規模で『科学では割り切れない心霊事象』を処理する組織、通称『アーカイヴ(記録庫)』です。我々は世界中に『事情を知っている弁護士』を協力者として配置しています。いわば特権的なネットワークです」


 薫はワインを一口含み、続けた。

「通常、今回のような霊紋が刻まれる『Gゴースト案件』には、浄化術師と補助要員の二人から三人が派遣され、場合によっては数千万円単位の予算が動きます。『家紋の霊紋』など10人、いや、それ以上派遣されるかもしれない。しかし、私は本部にこう報告しました。『現地に警察官、守屋義明という、天性の心霊物理攻撃能力者Spirit Crusher (スピリット・クラッシャー通称SC)の男がいる。応援は不要だ』とね。おかげで組織のコストは浮き、私の独断で動くことができた。だから健三さん、あなたの支払った分だけで、組織としては十分な黒字なんですよ」

「仮に組織からたくさんの応援が来れば、楽に対処出来たか? 答えはNoだ。奴らのエサが増えるに過ぎないのですよ。それだけSCの能力は希少で有能なのです。しかもSCとは、通常、各国の隠された伝承や秘伝の奥義を極めた者がヘッドハンティングされるのです。義明さん、貴方のように『娘が大事すぎて能力を得た』なんて、前代未聞すぎるのですよククククク」


 五百旗頭の話に全員が驚き、聞き入っていたが、この瞬間笑いに包まれました。

「「「はははは、あっははは、クスクス、」」」

「お父さんったら、そんなに私の事が大事なの? 私が好きで特殊能力とか。結婚する時が思いやられるじゃん」

 むくれて見せた、みなみんの顔には満面の笑顔が広がっていたのです。


「そして、組織からの返答は何だと思います? 即刻ヘッドハンティングせよ、が最初の一報ですよ。現場の苦労なんか後回しなんですから、笑ってしまいましたよ。ククク」

「……義明さん、本題です」

 薫の瞳が、プロのそれに変わった。

「私はあなたを『アーカイヴ』の日本支部に引き抜きに来ました。霊体を物理的に消滅させる術者は、世界中を探しても両手で数えるほどしかいない。年俸は今の倍から始めましょう」


 リビングが静まり返った。

 義明は驚き、手に持っていたフォークを落としそうになります。

「お、俺が……スカウト? 冗談だろう。俺はただの、力自慢の親父だぞ」

「その『力』が、異界の住人にとっては核兵器にも等しい脅威なんです」


 義明はちらりと隣の恵と、娘のみなみんを見た。

「困ったな……。実は今、官舎を出ようと思っているんだ。みなみが、あの日以来、夜一人でお風呂やトイレに行けなくなってしまってね。郊外に新築の一戸建てを買おうと、警察共同組合(通称警組)でローンの審査を出したばかりなんだよ」

 義明は申し訳なさそうに頭をかいた。

「今転職したら、勤続年数がリセットされてローンが組めなくなるだろう? 妻もみなみも、新しい自分の部屋をあんなに楽しみにしている。夢のマイホームを諦めるわけにはいかないんだ」


 それを聞いた薫は、こらえきれずにケラケラと笑い声を上げた。

「義明さん、あなたは本当に無欲だ。……いいですか。私が提示した年収とは別にサインオンボーナス(契約金)も支払われます。おそらくあなたが購入を考えている地域で50坪程度の一戸建てならローンを組む必要すらない『即金』で買える額が支払われますよ。それに、我々の組織を知っている金融機関はごまんとある。審査など電話一本で通ります。転職による不利益など、この世界には存在しない」

「本当なの!? それなら絶対転職したほうがいいよ!」

 みなみんが、義明の腕を掴んで興奮気味に言いました。

「私、一人でお風呂に入るの、今の官舎じゃ絶対無理だもん!」


 すると、小野寺誠一と美奈代、ユイも身を乗り出した。

「……実を言うと、うちの結衣も同じなんだ。今のマンションの洗面所を怖がってね。風呂もトイレも一人じゃ入れない。私たちも、家族を守れる環境へ引っ越そうと考えていたところなんだ」

 健三も妻の佳苗とルリルリと顔を見合わせました。

「うちも、瑠璃がタワマン恐怖症になってしまってね。風呂もトイレも一人じゃ無理だし、コンシェルジュインターホンなんて、ガムテープで封印してあるんだよ。……もしよければ、義明さん、誠一さん。三家族で、近くに一戸建てを並べて建てないか? 私が土地の登記から何から、すべて引き受けよう」


 三人の少女達は飛び上がって歓喜しました。

「それ最高!」

「三人ずっと一緒だね!」

「パパ達、絶対だからね。やっぱり無しなんて許さないから!」

 少女たちが一斉に歓声を上げた。

「やれやれ、辞表を書くのは確定のようだな」

 義明は苦笑する。

 クリスマスプレゼントは、仲良し家族グループ揃っての「新天地への引っ越し」という、これ以上ない希望に決まったのです。


「……ところで」

 健三が思い出したように、封筒を取り出した。

神代かみしろさんから手紙が届いている」

 引っ越しに浮かれる熱が冷めやらぬ部屋で、健三は駐在からの手紙を読み上げました。


 そこには、神代がこの島に自ら志願して赴任したこと、代々「志乃」の血筋として呪いを解くために、三家族をあえて「餌」にして党首を引きずり出したという残酷な告白が綴られていた。

 一族は、数百年に渡り一族を蝕む『夜、怨霊に襲われる呪い』を解決しようと躍起になっていたのです。


 一族を襲う怨霊はあの日、『党首の娘 志乃』が村人に助けられて逃走するのを見た鳳党の構成員から始まった。

 手に縄をうたれ、藩兵に連行される鳳党構成員二十余名。

 その横を少女の尼と老僧が足早に通り過ぎる。

(ああそうか、党首よ。我らはこれから拷問の上死罪が確定しているのに、お前は家族を逃すのだな? 我らの家族はすでに悲惨な拷問の上、打ち捨てられたのだぞ? 許すまじ。許すまじ。くちおしや。くちおしや)


 鳳党構成員の怨霊は、皮肉な事に志乃の父親である『鳳党党首』の凄まじい怨念で、怨霊の群体としてまろび出ていたのです。

 一族は、『鳳党の怨念の核』である『党首の墓』の場所を長年かけて突き止めてはいたが、『その怨念を断ち切る手段』が無く、途方に暮れていた。


「君たちを騙して、本当に申し訳ない。

 君たちの助けがなければ、私は今もあの泥沼の中にいただろう。私は君たちに救われました」


 読み終えた後、重苦しい沈黙を破ったのは、義明の苦笑いでした。

「……食えない男だ。でも、あの腫れ上がった拳は、誰よりも先に傷つこうとした証拠だ。あいつは一人で一族の業を解決しようとしていたんだな」

 みなみんも、静かに頷きました。

「利用されたのはムカつくけど、神代さんがいたから私たちは生きてる。騙されてあげて、良かったのかもね。志乃さんも、きっとお父さんに本当のことを伝えたかったはずだし」


 ルリルリも続けます。

「神代さん、物心ついた時から、アレと戦い続けていたんでしょう? ご両親もでしょう? そんなの辛過ぎるよ」

「私たちの方が神代さんに助けられたんだよ。彼が居なかったら、きっとあそこで終われなかったと思う」

 ユイの言葉に、場が静かな肯定感に包まれました。


 薫は、窓の外の雪を見上げながらグラスを掲げた。

「神代 蓮。……神の代わりを務める名を持つ男か。彼は、自分の血に流れる『罪』と『愛』を同時に引き受けた。健三さん、その手紙は大切にしなさい。それは、君たちが一人の男とその一族を地獄から救い出したという証拠品だ」

(神代 蓮か……。あの男を「組織」と言う名の檻に収めるのは、容易なことではなさそうだ)

 五百旗頭は、冷えたグラス越しに夜の静寂を見つめ、不敵な笑みを漏らした。

「さて、呪いのために霊を屠る奥義を伝承する一族か。呪いを断ち切ったその手が、次はどんな運命を掴み取るのか。……接触するのが、今から楽しみだよ。ククク……」


 半年後。


 六月の放課後。高校の屋内プールは、塩素の匂いと部員たちの活気ある声に包まれていました。 

 水面に反射する西日がキラキラと揺れる中、ルリルリ、みなみん、ユイの三人は、一年生でありながら県予選でトップ3を独占するという、創部以来の快挙を成し遂げていた。


 三人は並んで水に潜りました。

 かつて、水の中は「音のない恐怖」の象徴だった。

 耳を塞ぐ水の音は、井戸の底で蠢く死者の囁きであり、水圧は自分を引きずり込もうとする泥の手の感触そのものでした。


 しかし、今の彼女たちは知っている。

 一掻きごとに全身を包む水の抵抗は、自分が今、確かにこの世界に存在しているという手応えだ。

 肺に溜めた空気を少しずつ吐き出し、泡が上昇していくのを見つめながら、彼女たちはあの島で神代が叫んだ言葉を思い出します。

(私たちは、生かされている――)

 暗い泥水を抜け出し、光り輝く真水の中を泳ぐ。

 それは彼女たちにとって、毎日繰り返される「浄化」の儀式でもあったのです。


 帰り道。


 県大会予選を終えた心地よい疲労感に包まれながら、三人は駅へと向かう緑豊かな並木道を歩いていました。

 その途中、道沿いにある小さな森の入り口で、彼女たちの足が止まった。

 そこには、地元の人々にすら忘れ去られたような古い祠と、表面の削り取られた石碑があります。


「……見て」

 ルリルリの声が、低く震えた。

 そこには、自分たちよりも幼く見える、中学一年生くらいの女子生徒が三人いました。

 かつての彼女たちと同じように、派手な色のスマートフォンを掲げて騒いでいる。

 一人が石碑の平らな頂面に土足で乗り、不謹慎なポーズを決めていた。

 もう一人がそれを「映え」を狙った角度で連写し、最後の一人がその様子を見てケラケラと笑い転げているのです。


「やばい、ここ超エモくない?」

「マジ暗くて雰囲気ある! SNS上げたら絶対秒でバズるって!」


 鏡を見せられているようでした。

 無知ゆえの残酷さ。他者の悲しみに想像力が及ばない、若さという名の暴力。

 みなみんとユイが、反射的に足を踏み出そうとした。

 怒りだけではない。

 あの直後に自分たちを襲った「あの世からの報復」を思い出し、背筋が凍りつくような恐怖が彼女たちを突き動かしたのです。


 しかし、ルリルリが二人を静かに制した。

 彼女は、かつて父親達が怨霊を前にして自分たちの前に立ちはだかった時のような、静かで、しかし逃げ場のない威厳を纏って、中学生たちの前へと歩み寄りました。


「……ねえ、それ、やめた方がいいよ」


 ルリルリの声は、決して怒鳴るようなものではなかった。

 むしろ、深い悲しみと、何かを必死に守ろうとする強さに満ちていた。

 驚いた中学生たちが動きを止めた。

 石碑の上に乗った少女が、気まずそうに、しかし反抗的に言い返します。

「え、何ですか? 別に壊してないし、ただの石じゃん……」


 ルリルリは、少女の目を見つめ、静かにはっきりと言いました。

「それは、ただの石じゃないよ。そこにはね、誰かの大切な想いが眠っているかもしれないの」

「この下には、誰かの愛した妻や、大切に育てられた娘が、泣きながら埋葬されたかもしれない。ここに眠っている誰かのために、誰かが生きている間、毎日毎日、ここが汚されないように祈り続けてきたかもしれない。君たちが今、面白半分で踏みつけているのは、そういう『人の慈しみとか思い』なんだよ。……分かるかな?」


 ルリルリの背後に、みなみんとユイも並んだ。 

 あの不眠の夜を越え、死の淵を覗き込み、そして「守られることの重み」を知った彼女たちの眼差しには、中学生たちがこれまでの人生で一度も触れたことのないような鋭い「魂の深み」が宿っていたのです。


「もし、君たちがその『思い』を汚し続けたら……いつかその『痛み』が、君たちの足元から這い上がってくる。それはね、どんな後悔をしても、二度と元の自分には戻れないくらい、恐ろしいことなんだよ」


 ただの説教ではない。

 実体験から絞り出された警鐘には、理屈を超えた言霊が宿っていました。

 中学生たちは顔を見合わせると、真っ青な顔をして石碑から飛び降りた。


「……す、すみませんでした」

 彼女たちはスマートフォンをポケットにねじ込み、逃げるようにその場を去っていったのです。


 三人は、静まり返った祠の前に残された。

 ルリルリはバッグから清潔なハンカチを取り出すと、祠の前に跪いた。

 そして、少女の土足の跡がついた石碑の頭を、自分の汚れを拭うかのように、優しく、丁寧に拭き上げました。


「……お邪魔しました。あの子たち、悪気はなかったんです。……どうか、許してあげてください」

 みなみんが、消え入るような声で、しかし真摯に祈りを捧げた。

 ユイは、道端に咲いていた野花を一本摘み、石碑の傍らにそっと供えました。


「……私たち、少しは強くなれたのかな」

 ユイが、拭き上げられた石碑を見つめて呟いた。

「強くなったっていうか……やっと、神代さんやパパたちが守ってくれた『命』の使い方が、分かってきた気がする」

 みなみんの言葉に、ルリルリは空を見上げた。

「うん、きっと私たち、ちゃんとした意味で少し強くなったと思う」


 六月の夕暮れ。平和な街路樹の道に、三人の長い影が伸びていきます。

 かつての過ちを背負い、それを他者への優しさと「警鐘」に変えて生きていく。

 その影に、もう不気味な黒い影が混ざることはありません。

 父親達が、母親達が、神代そして『彼ら』が命懸けで伝えた「家族の絆」は、今、新しい世代の少女たちの心の中に、確かな光として受け継がれていたのでした。

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