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第24話 怨嗟の中心

 午前九時。

 民宿の薄暗い廊下に、規律正しく、しかしどこか重い足音が響いた。

「――失礼します。神代です」  

 部屋のドアが開くと、そこには昨日よりもさらに精悍で、同時に酷く疲弊した表情の神代蓮が立っていた。

 制服の袖口は泥に汚れ、その大きな拳は、夜通し何か硬いものを殴り続けたように痛々しく変色し、節々から血が滲んでいる。


「神代さん……!」  

 母親たちが、救いを求めるように声を上げた。 

 一晩中、夫たちが目に見えない「何か」と取っ組み合い、娘たちを泥沼から引き戻す凄惨な光景を見てきた彼女たちにとって、自分たちと同じ地獄が見えている神代の再登場は、唯一の希望の光だった。


「お待たせしました。……皆方、よくぞご無事で。さあ、行きましょう。

 私の車を下に回してあります。……今日、ここで全てを終わらせるために」


 神代が運転する民宿の前に停まっていたのは、警察の車両とは思えない異様な威圧感を放つ大型の青いワンボックスだった。  

 センパー・モータース製のグランアーマード。  全長六メートルに及ぶ十人乗りの警備用輸送車だ。

 離島の過酷な環境や緊急時の要人警護を想定して配備されたというその車体は、青色の艶が無い塗装で覆われ、窓はすべて暗いスモークガラスで閉ざされている。

 車の中は、エンジン音だけが虚しく響く重苦しい沈黙に支配されていた。  

 三人の父親たちは、一睡もできぬまま極限の疲労の中にあったが、娘を離すまいとする腕の力だけは衰えていない。

 佐伯健三はルリルリを、守屋義明はみなみんを、小野寺誠一はユイを、それぞれが自分の一部であるかのように強く抱きしめていた。


「……なあ、これが終わったらさ」  

 沈黙を破ったのは、義明だった。

 彼は娘に甘い父親の顔を作り、精一杯の明るい声を絞り出した。

「また三家族でキャンプへ行こう。今度は、八ヶ岳の麓とか、空が広くて星が降るような場所がいいな。健三さん、あそこのプライベートサイトなら、周りを気にせず騒げますよ」

「そうですね」

 健三も、強張った顔を無理に緩めた。

「あそこなら、私の事務所で使っている無駄に大き過ぎる焚き火台を持ち込める。誠一さん、あなたも趣味の狩猟で仕入れた肉を持ってきてくれるかな?」

「もちろんです」

 誠一が頷く。

「美奈代も、あの時はアップルパイを焼く余裕がなかっただろう? 今度はダッチオーブンで最高のやつを頼むよ」

「ええ、アップルパイだけじゃないわ! ローストチキンも、手作りのピザも……子供たちが好きなものを全部作るわ」  

 母親たちも必死に言葉を繋ぐ。大人たちは、かつての楽しかった日常という名前の鎖を懸命に手繰り寄せ、今にも異界へ零れ落ちそうな娘たちの心を引き止めようとしていた。


 しかし、その言葉は娘たちの耳には届かなかった。

「……ローストビーフ、チキンとか、お肉の話は……しないで」  

 ルリルリが、虚ろな目で窓の外を見つめながら呟いた。

「あのお肉の、赤い汁……。それって……あの、祠の子たちの首から流れてた、あの液体と同じ色……だよね」  

 車内の空気が一瞬で凍りついた。

 少女たちの脳裏には、あの無残な「数珠繋ぎ」の想像が焼き付いて離れない。ローストビーフや、ジビエ、チキンという言葉から連想される「肉の塊」や「滴る赤」。

 それが自分たちが踏みにじった「家族の命」と重なり、激しい吐き気に襲われた。


「……私たち、本当になんて酷いことしたんだろうね」  

 みなみんが、義明の逞しい腕の中で力なく泣きじゃくった。

「十歳と十三歳……あの子たち、本当にお父さんの前で……首を数珠繋ぎにされて……。それを私たちは『映える』なんて……笑って、スマホを向けて……」

「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」  

 ユイの謝罪は、死の恐怖から逃れるためではなく、知ってしまった党首一家の悲劇に対する、心からの慟哭だった。

「お父さん……もし、私たちの体であの子たちが救われるなら、もう、それでも……」


「そんなことは絶対に言わせない!」  

 健三、義明、誠一。三人の父親が同時に、娘を抱きしめる腕に血管が浮き出るほどの力を込めた。

「お前たちが犯した過ちは、当然、償えばいい。だが、命で償わせるなんて、親が、このお父さんたちが絶対に許さない。……謝るのは、あの墓の前だ。生きて、自分の足で立って、あの子たちに向き合うんだ。そのための命は、お父さんが死んでも繋ぎ止めてやる」


 助手席で五百旗頭は、カバンの中の水晶玉を誰にも見られないように握りしめた。

(怨念に対する唯一の対抗手段……これを見せるわけにはいかない。奴らに悟られれば、その瞬間に砕かれる。それは、この子たちの『最後』を意味する)


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