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第23話 娘を返せ、妻を返せ

 ぶちん!  

 不吉な破裂音が、民宿の薄い壁に反響した。  

 五百旗頭いおきべが必死で張ったしめ縄が、まるで巨大な獣に引き千切られたかのように弾け飛んだのだ。

 切れた場所は、目に見えない高温で焼かれたかのように真っ黒に焦げている。


 その瞬間、部屋はもはや現実の世界ではなくなった。  

 窓の外は波の音ひとつ聞こえない死の静寂に包まれているというのに、部屋の中だけは、鼻を突く魚の腐乱臭と、肥溜めをひっくり返したような悪臭が立ち込める。

 さらには、何十人もの人間が溺れながら呪詛を吐くような、凄まじい音響に支配された。


「……離さない。絶対に、離さないからな!!」


 午前二時。

 義明の咆哮が、異界の騒音を切り裂いた。  

 天井からどろりと降りてきた数体の「首なき侍」の影が、物理的な質量を持ってルリルリの顔を覆おうと迫る。

 義明は迷わずルリルリを背後に庇い、空を裂くような拳を突き出した。


(――ドォォォォォン!!)


 肉と肉が激突する鈍い音。

 昨夜とは違う。

 一体や二体ではない。

 砕いても砕いても、影の飛沫から新たな怨霊が湧き出てくる。

「ガァァッ!」  

 砕かれた侍の影が義明の足首を絡め取り、力任せに畳の下へと引き摺り込もうとする。

「義明さん、動くな! 重心を下げろ!」  

 五百旗頭が叫び、懐から数珠を握り締めながら、戦い続けている義明の足元、そしてルリルリを抱える健三と、ユイを守る誠一の足元に清め塩を撒き散らした。

「ギィィ……ッ!」

 塩を浴びた怨霊の腕が、焼けた鉄を押し付けられたかのように悶え、一瞬だけ動きを止める。


 誠一は、趣味の狩猟で鍛えた鋼のような体幹を活かし、ユイを小脇に抱え込んだ。

 そのユイを掴もうと、骨が露出した「亡霊の手」が執拗に伸びる。

 誠一はそれを力任せに引き剥がし、怒鳴った。 「ユイ! 目をつぶっていろ! これはただの悪夢だ、パパが、お父さんが絶対に助けてやる!」

 そこに整形外科医としての冷静な仮面はない。 

 娘を害するものを、ただひたすら滅っせんとする一人の父親の眼差しがあった。


 午前四時。

 凄まじい疲労がピークに達し、一瞬だけ健三の意識が遠のきかけたその時だ。

 ルリルリの体が重力を無視して、ふわりと浮き上がった。

「お父さん!! 助けて!!」  

 細い首筋に、何本もの「骨が露出し、残ったまばらな肉から蛆虫が湧き出ている汁を滴らせている腕」が蛇のように巻き付こうとしている。

「させん……ッ!!」  

 健三が飛び上がった。

 ルリルリの腰を両手で掴み、全力で床に叩きつけるようにして引き戻す。

「私の娘から、その汚い手をどけろ!!」  

 法と言葉を武器にしてきた男が、今や獣のような唸り声を上げ、目に見えない恐怖と取っ組み合いを演じていた。

 母親たちは、そんな夫たちの背中にしがみつき、必死にその体温を確かめる。

 夫から離れることは、そのまま異界の深淵へ飲み込まれることを本能が告げていた。


 午前七時。  

 窓の外が白み始め、太陽が水平線から顔を出した瞬間、部屋を埋め尽くしていた亡霊たちは、逃げ水のように一斉に引いていった。


 だが、安息はない。

「いつ終わるんだ……?」  

 義明が、血の滲んだ自分の拳を虚ろに見つめ、掠れた声で呟いた。  

 一睡もできぬまま、汗と泥にまみれ、ただ時計の針が九時を刻むのを待つ。

 廊下からは、水を含んだ草鞋が床を叩く不気味な足音と、亡霊のうめき声が何度も、何度も往復している。

 奴らは太陽を避け、出口のすぐ外で獲物が現れるのを待ち構えているのだ。


 午前八時五十分。  

 一行は荷物をまとめ、父親たちは娘を「おんぶ」や「抱っこ」で身体に固く固定した。


「五百旗頭さん……準備はいいか」

「ああ。……そろそろだな」


 午前九時ちょうど。  

 民宿の玄関が開く乾いた音がし、力強い革靴の響きが廊下を突き進んできた。

「――お待たせしました。五百旗頭さん、皆さん!」


 神代かみしろ駐在だ。

 軍人のように隙のない足取りで現れた彼の制服は心なしか乱れ、その拳もまた、夜通し何かを殴り続けたように真っ赤に腫れ上がっていた。

「さあ、行きましょう。円念寺えんねんじの『首の墓』、そして『井戸の石碑』へ。……今日、ここで全てを終わらせます」


 神代の真っ直ぐな瞳に、父親たちは最後の一滴の気力を振り絞って頷いた。

「行くぞ……!」  

 一行は神代を先頭に、朝日が照らす呪われた境内へと、決死の進軍を開始した。

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