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第2話 複写された呪詛

帰り道、真夏の盛りの午後とは思えないほど、刺すような冷気が杉林の奥から吹き下ろしていました。

 木々の隙間から差し込む陽光は、もはや彼女たちを暖める力を持たず、ただ不気味なコントラストを地面に描くのみでした。

 明るい開けたキャンプ場付近の道まで戻ってきたところで、先頭を歩いていたユイが、何かに弾かれたように足を止めました。


「……待って。おかしい。この十枚目、絶対変だよ」

 ユイの震える指先が指し示すスマートフォンの画面。

 みなみんとルリルリが、吸い寄せられるように左右から顔を寄せました。

 画面に映し出されているのは、数分前に自分たちがいた祠の光景です。

 しかし、その一枚だけが、まるで周囲の光をすべて飲み込む泥濘のように、どろりとした赤黒い闇に沈み込んでいました。


「……何これ。バグ? 逆光にしては暗すぎるし、これじゃまるで夜……それも、血みたいな色だよ」

 みなみんが引きつった声を漏らします。

 彼女たちの瞳には、その闇の奥に潜む「異形」がはっきりと映り込んでいました。


 祠の脇にある、生贄の台を思わせる平らな石の上。

 そこには、首から上が失われた、中年の男の胴体がどっしりと鎮座していました。

 断面からは、粘り気のあるヘドロのような液体が絶え間なく溢れ出し、苔むした岩を汚しています。

 さらにその傍らには、地面から直接生えているかのように、二十代後半とおぼしき女性の生首と、自分たちと同じ年格好をした少女の生首が転がっていました。

 何かを激しく呪うように、顎が外れるほど大きく開かれたその口。

 白く不気味に透き通ったその肌は、この世の光を一切反射していません。


「……すご。ねえ、これさ、逆にチャンスじゃない? カラーコピーして引き伸ばして、ポスターにして学校に持っていこうよ。みんな絶対ビビって腰抜かすって!」

 ユイは、自身の内側からせり上がるどす黒い悪寒を振り払うように、あえて高圧的なほど明るい声で笑いました。

 しかし、みなみんは気づいてしまいます。

 写真の中の首たちが浮かべている表情が、単なる「死」ではなく、生きている者すべてを道連れにせんとする、凄まじい「憤怒」に染まっていることに。


 国道沿いに、場違いなほど唐突に現れた古びたコンビニエンスストア。

「ねえ見て、変な名前!『ラビット・マート』だって。うさぎのマークなのに、全然可愛くない。目が血走ってるみたい!」

 ユイがその剥げかけた看板を指さして笑いますが、三人の心はすでに凍りついていました。

 ポケットの中のスマートフォンは、まるで心臓の鼓動を打つかのように、不気味な熱を帯びて太ももを焼いています。


「ちょっと、これA3でプリントしてみようよ。デカい方が絶対迫力あるし、細かいところまで見えるよ!」

 ユイの強迫観念に近い提案に押し切られる形で、三人は店内の隅、埃を被った旧式のコピー機へと向かいました。

 蛍光灯がジジッ、ジジッ……と不吉に明滅する中、重苦しい作動音が店内に響き渡ります。

 ウィーン……ウィーン……。

 排出口のトレイに、湿り気を帯びた一枚目の紙が吐き出されました。

 それを見た瞬間、三人は悲鳴を上げることすら忘れ、息を呑みました。


「……増えてる」

 ルリルリが喘ぐように呟きます。

 巨大なA3の紙に引き伸ばされた闇の中には、当初の三人だけではなく、十一もの生首が白く透き通った色彩で画面を埋め尽くしていました。

 怨念に染まった二十二の瞳が、一斉にこちらを、正確にレンズの向こう側の彼女たちを凝視しているのです。


「うわ! 見てよ、これ! 数の暴力じゃん、多すぎだって! サービス精神旺盛すぎ!」

「ユイ、もうやめようよ。それ笑えない。顔、みんなすごい表情……めっちゃ怖いよ……」

 ルリルリが震える手でユイの袖を掴みますが、ユイの指は狂ったようにボタンを連打します。

「ねえ、ねえ、これ、もう一回コピーしよ! 重ねたらどうなるかな!」

 ユイは、その一枚目のコピー用紙を再び原稿台にセットし、スタートボタンを叩きつけました。


 二枚目の紙が吐き出された瞬間、店内の空気が一変しました。

 十一の首は消え、代わりに画面全体を、中年の男の巨大な一つの『顔』が埋め尽くしていました。

 剥き出しの歯をガチガチと鳴らし、凄まじい苦悶の表情で絶叫しているその顔は、もはや写真という概念を超えています。

 引き伸ばされたことで、毛穴から噴き出す血混じりの汗や、眼球に走る不気味な毛細血管、剥がれかけた皮膚の繊維までもが、まるで立体物のように禍々しく描写されていました。

 白く透き通っているはずなのに、ドクドクと流れる血液の拍動までもが聞こえてきそうな、圧倒的な暴力性を孕んだ迫力です。


「……うわ。これ、マジで気持ち悪い。さすがに悪ふざけが過ぎたかも」

 ユイの顔から、さぁっと血の気が引いていきました。

「ねえ、これやばいって。不吉すぎるよ……。これさ、夜になったら焚き火で焼いちゃおう? そうすれば消えるよ」

 ルリルリの震える提案に、三人は何度も何度も、自分たちに言い聞かせるように頷きました。


 15時。

 キャンプ場に戻ると、そこには弁護士である健三らしい緻密さで設営された、完璧な拠点が出来上がっていました。

「お帰り。探検は楽しかったかい、お姫様方」

 健三は日焼けした理知的な顔を綻ばせ、設営されたばかりの大きなテントを指差しました。

「こっちが大人用のテントで、あっちの可愛い方が君たち専用だ。少し地面が硬いかもしれないけれど、寝心地は保証するよ」

「わー! すごい! 健三さん、ありがとうございます!」

「パパ、最高! まるで森の別荘じゃん!」

 三人は、飛び跳ねるようなオーバーなリアクションで健三を囲みました。

 そうして「正しい夏休みの風景」を必死に演じることで、ポケットの中にある「あの顔」の、生暖かい肉のような感触を忘れようと必死でした。


 夕食前、一行は近くの天然温泉を訪れました。

 薄暗い脱衣所を抜け、重い引き戸を開けると、立ち込める白く重い湯気と、鼻を突く濃い硫黄の匂いが三人を包み込みます。

 露天風呂へ出ると、頭上には夕闇に沈みかけた深い杉林が迫り、時折、乾いた音を立てて枯葉が湯面に落ちてきます。

 その葉が波紋を広げ、ゆっくりと湯底へ沈んでいく様さえ、ユイには何かの「指」が暗がりに引き込まれているように見えて仕方がありません。


「もう、みなみんったら。背中、うっすら水着の跡になってるじゃない。女の子なんだから、もう少し日焼けに気を使いなさいよ」

 ルリルリの母、佳苗が、実の娘のように慈しみ深い手つきで、みなみんの背中にそっとお湯をかけました。

「えー、佳苗さん。私たち水泳部なんだから、こればっかりは仕方ないですよ。お父さんも『健康的でいいぞ』って言うし」

 湯船に漂うのは、完璧なまでに平穏で、家族同然の親密な空気です。

 だが、ユイだけはその輪の端で、顔に張り付いたような笑みを浮かべたまま、じっと排水溝の暗い穴を見つめていました。

 スマホの中の異形。コンビニのコピー用紙。

 親たちに話せば、この輝かしい時間は一瞬で崩壊し、あの「顔」がこの優しい佳苗さんたちの元へも飛び火する……。その本能的な加害者意識が、ユイの喉を塞いでいました。


 ザッ、ザッ……、と湯口から溢れ出すお湯の音。

 その規則正しい音の中に、粘り気のある「別の音」が混じり始めます。


(……ミズ……ミズを……)


 ユイはシャワーを止めました。

 浴室に、しずくが床に落ちる小さな音だけが響きます。

 鏡は湯気で白く曇り、自分の顔さえ判別できません。

「……ねえ、今、誰か呼んだ?」

「え、何が? 佳苗さん、何か言った?」

 ルリルリが不思議そうに首を傾げます。佳苗も「ううん、何も。ユイちゃん、のぼせちゃったかな?」と、優しい声を向けてきます。

「……だよね。ごめん、気のせい」


 ユイは震える手で再びシャワーを捻りました。だが、噴き出した飛沫が耳に触れた瞬間、それは明確な「男の呪詛」となって鼓膜を貫きました。


(イタイ……イタイ……。ミズ、ミズをクレ……)


 それは、一人ではありません。

 地の底から響く男の低い唸り声、それに重なる女のすすり泣き、そして、すぐ背後で歯をガチガチと激しく鳴らすような、骨を噛み砕く異様な音が。

 カランの奥、暗い配管から響くその音は、タイルの床を伝い、ユイの足の裏から全身の骨へと這い上がってきました。

「ねえ、本当に聞こえない!? ほら、この音! 誰か絶対喋ってるってば!」

 ユイの声が、鋭い悲鳴となって浴室に反響しました。

 しかし、佳苗たちの「何も聞こえない」という正気が、今のユイには絶望として突き刺さります。


 キャンプ場に戻り、夜が更けると、辺りはバーベキューの香ばしい匂いと炭がはぜる音に支配されました。

 健三たちがワインを片手に談笑し始めた隙を、ユイは見逃しませんでした。

「よし、今だ。ゴミと一緒にポイしちゃお」

 ユイはポケットの中で湿り、自重で重くなった二枚のコピー用紙を、燃え盛る焚き火の中へと投げ込みました。


 しかし、異変はすぐに起きました。

 炎の中に落ちたはずの紙が、灰にならないのです。

 それどころか、炎が不自然な『青紫』に変色し、薪の音に混じって「ギチッ、ギチッ」と、生々しい肉身が砕ける音が響き始めます。

 紙の中から、あの男の巨大な顔の口が、炎を吸い込むように歪んで開きました。


(いたい……いたい……イタイ……)


 焚き火の煙は、意思を持つ縄となって空へ伸び、三人の頭上を覆い尽くしました。


「水……水をくれ……」


 バキィッ! と、焚き火台の脚が不自然に折れました。

 崩れた薪から火の粉が舞い、と同時に、周囲のキャンパーたちの笑い声が、まるでスイッチを切ったように一瞬で消え去りました。

 すべての「火」が死に、訪れたのは完全な静寂と、異常なまでに腐った魚の臭さが混ざった、あの泥水の匂いでした。


 そして、ユイの目にだけ、それは見えていました。

 薪の死骸から這い出す、内臓を溢れさせた男の胴体。

 暗い水面から突き出るように現れた、首のない女。

 足元の地面からは、どろりとした泥水が彼女たちの足首を掴もうと勢いよく湧き出していました。


「ねえ、ねえ、ユイってば。ぼーっとしてないでさ、これやろうよ」

 みなみんの明るい声が、氷のような沈黙を破りました。

「カードゲーム『はいって言いなさい』だよ。罰ゲーム用に激マズのジュースも買ってあるんだから。ほら、このドロドロした色、ウケるよね」

 ユイは、ガタガタと震える膝を必死で押さえつけ、現実にしがみつきました。

 頬を痙攣させながら、精一杯の「日常」を演じます。

 今、この場から離れ、一人になることは――自分にとって、永遠の破滅を意味するのだと本能が理解していたからです。

 ユイは震える手を隠しながら、友人たちが差し出すカードへと、吸い寄せられるように手を伸ばしたのでした。

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