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第16話 深夜の攻防

 深夜から午前四時にかけて、タワーマンションのリビングは現世と冥府の境界線と化していた。 

 交代制で見張りを始めた大人たちだったが、怪異は隙を突くという概念すら捨て、力ずくで獲物を奪いに来た。


 午前四時。

 冷気が極限に達した瞬間、仮眠中のみなみの足首に黒い影が絡みついた。

 しかし、その刹那、爆発的な反応を見せたのは義明だった。

 コンマ一秒の遅れもなく、彼の剛腕が娘の体をソファに固定する。

 みなみの体は見えない力で宙に浮くほど猛烈に引かれたが、義明は岩のように動かず、指一本分さえも娘を渡さなかった。


「……甘く見るなよ」  

 義明は鋭い眼光を暗闇に向けた。

 幾多の修羅場で培った警察官の、元機動隊員の即応能力が、今、娘を死守する絶対的な力へと昇華していた。


 異変は連鎖する。

 健三の娘、瑠璃の細い腕が、まるでクレーンが鉄骨を巻き上げるような速度と力強さで窓へと引き摺られそうになる。

「させん……ッ!」  

 健三もまた、法律書をめくる指先からは想像もできない膂力で娘を掴んで離さない。

 腕の血管を浮き上がらせ、絶対的な拒絶をもって娘をこちら側に繋ぎ止めた。


 リビングの至るところから、泥を滴らせたふやけた腕がゆっくりと無数に伸びる。

 その数はすでに十五回を超えていた。

 誠一は、妻の美奈代が襲われた際の衝撃を思い出し、戦慄と共に確信した。

「……これは、妻では無理だ。普通の人間なら、あっという間に連れ去られてしまう」  

 誠一の目にも、娘たちが怯えていたあの地獄の光景が、今はもうはっきりと映っていた。

 誠一は思った。

(現実世界が侵食されているのだ。)


「……娘に、手を出すなァ!!」  

 義明が吠えた。

 みなみの胸元に伸びてきた、とりわけ巨大で醜い男の腕。

 それに対し、義明は躊躇なく、全体重を乗せた拳を叩き込んだ。


(……ギィイィィイイィィィィィィン!!)


 金属が軋むような、この世のものとは思えない絶叫が響き渡る。

 義明の拳が触れた瞬間、あの大男の腕は、乾いたガラスが砕けるように四方に霧散した。


 気がつけば、窓の外には白々と朝日が差し込み始めていた。


 時刻は午前五時十五分。

 あれほど執拗だった襲撃は、義明の拳によって物理的に粉砕されたかのように、ピタリと止んでいた。


 五百旗頭いおきべはソファから立ち上がり、自嘲気味に首を鳴らした。

「やれやれ……。義明さん、あなたがこの家の『最強の防波堤』でしたよ。普通、あちら側の存在に物理的な打撃を通わせるなんてのは、宗教家が一生かけて修行して届くかどうかの領域だ。それを『親の執念』だけでやってのけるとは。……あの一撃で、奴らも少しは怯んだでしょう」


 五百旗頭は時計を確認し、健三に内線を指し示した。

「さて、コンシェルジュが動く時間だ。サンドイッチとパックのジュースを多めに注文してください。ペットボトルはダメだ。奴らが映り込む。今の君たちが、キッチンで火を使うのは厳禁だ。火は奴らのしもべのようなもの。火の回りは、連中がこちらの世界へ這い出し、意識を乗っ取るための最も安易な隙になる」


 届いたばかりのサンドイッチを口にする少女たちの指は、まだ震えていた。

「五百旗頭さん……もし、あなたが来てくれなかったら」  

 誠一の問いに、五百旗頭いおきべはパックジュースのストローを咥えたまま淡々と答えた。 「昨夜のトイレで、まず一人が絶命していたでしょう。死は最も強い呼び水になる。そうなれば連鎖は止まらず、今頃このリビングは――エアコンの音だけが虚しく響く、もぬけの殻だったでしょうね」


 それにしても


 義明は自分の拳を見つめ、静かに言った。 「……制圧の覚悟なんてない。ただ、娘が、娘の手が、自分の手が届かない場所へだけは、行かせたくなかった。それだけだ」


 三人の少女は、たまらずそれぞれの父親たちの背中に顔を押し当てた。

「お父さん、強かった……。ありがとう」  

 しかし、五百旗頭は立ち上がり、冷たく現実を突きつけた。

「褒め合うのは、生きて帰ってからにしましょう。……車が来た。ここからは一歩も外に出さず、バスに詰め込みます。一秒でも早く、日の光が届かない場所へ連れ去られる前に」


 廊下の鏡に映った少女たちの背中には、夜には見えなかった「真っ黒な指」が、ネックレスのように首筋に添えられていた。

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