第12話 夜警
三家族がリビングで身を寄せ合う中、みなみんが震える声で切り出した。
「……お願いがあるの。お風呂に入りたい」
その言葉に、ルリルリとユイも弾かれたように顔を上げた。
「私、もう何日もちゃんと髪も体も洗えてないの……ボサボサで、泥の臭いが染み付いてる気がして……」
「お願い、お父さん。お風呂に入らせて」
健三は「ああ、入っておいで」と事もなげに答えたが、三人は必死の形相で首を振った。
「違うの! 普通には入れないの! お父さんが、ずっと……ずっと腕を掴み続けてくれてないと入れない!」
一瞬、父親たちは困惑から苦笑いを浮かべた。
だが、娘たちの目に宿る「狂気的なまでの切実さ」を見た瞬間、表情が凍りついた。
入浴という日常の行為が、彼女たちにとっては「処刑台」に等しい恐怖なのだと悟ったからだ。
「よし。まずは、みなみから行こう」
みなみんの父、義明が立ち上がった。
父親たちの中で最も格闘技術に長け、修羅場を潜ってきた男だ。
浴室には、湯気が白く立ち込めていた。
義明は服を脱ぎ捨て、全神経を研ぎ澄ませてみなみんの傍らに立った。
みなみんが髪を洗っている間、義明は彼女の二の腕を、軽く添え続けた。
シャワーの音だけが響く中、体も洗い終えた。 (……何も起きないな)
みなみんの表情に、久しぶりの安堵が浮かぶ。温かいお湯が肌を撫でる心地よさに、彼女が「お父さん……」と、感謝を口にしようとしたその時だった。
「――っ! お父さん!!」
みなみんが悲鳴を上げた。
何もないはずの空間から、土色の、ふやけた「無数の手」が突き出し、彼女の右足を掴んで浴槽の底へと猛烈な力で引き込んだ。
「来た! 誠一、健三! 手伝ってくれ!」
義明が叫ぶ。
リビングから大人たちが駆けつけるが、浴室の扉は何かに固着されたかのように、びくともしない。
義明は奥歯を噛み締めた。
(力が……強すぎる!)
それは並の成人男性の力ではなかった。
現役の刑事である自分の筋力と完全に拮抗している。
力任せの引き合いを続ければ、娘の関節が外れるか、あるいは自分ごと深淵に引きずり込まれる。
義明は思考を切り替えた。
彼は瞬時に腰を落とし、逮捕術の根幹にある古流武術の円運動を用いた。
力に力で抗うのではなく、相手の引き込む力を利用して、回転の遠心力で娘の体を「弾き出す」動きだ。
「おおぉぉりゃあああ!!」
気合一閃、みなみんの体が鋭い弧を描き、浴槽から一気に洗い場へと放り出された。
その瞬間、あれほど固く閉ざされていた浴室の扉が、何事もなかったかのように「スッ」と開いた。
床に転がったみなみんの右足には、どす黒い「六箇所の手の跡」が、肉にめり込むように残っていた。
(……お父さん、ありがとう。もし引きずり込まれていたら……死ぬより、もっと恐ろしいことになっていた……)
みなみんは言葉にならない感謝を、心の中で繰り返した。
リビングに戻ると、泣きじゃくるみなみんを、ルリルリとユイが蒼白な顔で抱きしめた。
健三は、娘たちの足跡をなぞるように床に残った濡れた手形を凝視し、ポツリと言った。
「……ルリルリ、ユイ。今日は、入浴はやめておこう」
ユイの父、誠一も、激しく同意した。
「ああ。一番屈強な義明さんが、純粋な力比べを諦めて技を使ったんだ。我々では……娘たちを奪われてしまうかもしれない」
義明は激しい息を整えながら、妻たちのほうを冷徹な目で見つめて断言した。
「……いいか、はっきり言っておく。母親たちの力では、絶対に勝てない。あいつらは、本気で殺しに来ている」
一晩中、リビングに満ちる泥の臭い。
朝を待つ大人たちの背中には、冷や汗が絶えることはなかった。
深夜二時。
リビングの点滅する明かりの下、六組の布団は一つの巨大な防波堤のように固まって並べられていた。
浴室での凄惨な引き摺り合いの後、もはや誰も「気のせい」だとは言わなかった。
ルリルリは父、健三の右腕を両手で抱きしめるようにして、浅い眠りの中にいた。
健三は、娘の体温を感じながら、闇の中で目を光らせていた。
辣腕弁護士として、あらゆる証拠を疑うのが彼の信条だったが、今、腕に伝わる娘の激しい鼓動こそが、唯一にして最大の「真実」だった。
その時だ。
ルリルリの体が、まるで見えない重機に引かれたかのように、突如として布団の上を滑った。
「……っ!!」
健三は即座に反応した。娘の腕を掴む手に、渾身の力を込める。
ルリルリの体は、窓の方へ向かって凄まじい速度で引きずられていく。
そこには何もない。
ただ、深夜のカーテンが不気味に揺れているだけだ。
揺れている?締め切った室内で?
しかし、ルリルリの足首には、肉に食い込むほどの「土色の指」がくっきりと浮かび上がっていた。
「義明くん! 誠一くん! 援護を!!」
健三の叫び声に、隣で横になっていた二人が飛び起きた。
義明がルリルリの腰を抱え、誠一がもう一方の腕を掴む。
「なんだ……この力は……っ! 車にでも引かれてるのか!?」
誠一が歯を食いしばる。
医師として人体の構造を熟知している彼は、このままでは娘の関節が外れてしまうと直感した。
ルリルリは叫びたいのに、喉に泥が詰まったような感覚で、喘ぐような音しか出せない。
彼女の視界では、窓ガラスから無数のふやけた腕が伸び、自分を地上数百メートルの虚空へと、あの泥濘の底へと連れ去ろうとしていた。
「させるか……っ! 私の家で、私の娘を!!」 健三は、普段の理知的な弁護士の顔をかなぐり捨て、剥き出しの殺意を込めて叫んだ。
三人の父親が、血管が浮き出るほどに腕を震わせ、力任せに引き戻す。
刹那、義明がルリルリの体を一回転させる。
一本背負いの変形。
ルリルリの体が空を舞うと同時に、ブチッ、ブチリ。
空中で、何かが千切れる不快な音が響いた。
次の瞬間、反動で三人とルリルリはリビングの壁際まで飛ばされた。
ルリルリの視界には、世界が反転すると同時に自分を掴む腕が引きちぎれて見えた。
解放されたルリルリの足首には、赤紫色の手の跡が、まるで鎖のように何重にも巻き付いていた。
それを見ていた母親たちは、絶望に顔を覆った。
「……無理。……私たちじゃ、無理よ……」
みなみんの母、恵が震える声で呟いた。
先ほどの浴室での出来事。
そして今の、大人三人がかりでようやく引き剥がせるほどの怪力。
自分たちがどれだけ娘を愛していても、その「物理的な暴力」の前では、母親の細い腕は何の盾にもならない。
その残酷な事実が、彼女たちの心を折った。
「トイレも……一人じゃ絶対に行かせられないな」
義明が、額の汗を拭いながら言った。
その目は、獲物を狙う獣のように玄関と窓を警戒している。
「トイレの中でも、我々が交代で娘を抱きしめておくしかない。いいか、一瞬でも隙を見せたら……連れて行かれるぞ」
それからの数時間は、まさに地獄だった。
誰かがトイレに立つたびに、父親二人がかりで同行し、便器から伸びる「手」に備えて、その間も娘の肩を、腕を、万力のような力で掴み続けた。
年頃の娘としての恥じらいなど、もうそこにはなかった。
ただ、「離されたら、終わる」という動物的な恐怖だけが、親子を繋ぎ止めていた。
一睡もできないまま、窓の外が白み始めた。
朝日は、三人の少女の足元にある「黒い水」を消し去ることはなかった。
それどころか、リビングのカーペットが黒い血に染まり、カーテンはドス黒く血に染まる。
彼女たちには、そう見え続けていた。
「……来たな」
正午ちょうど。
重厚なインターホンが、希望の鐘のように鳴り響いた。
健三が立ち上がる。
体全体から疲労が立ち上っていた。
しかし、その瞳には救世主を迎えるための鋭い光が宿っていた。
玄関を開ける。
そこには、三家族の運命を握る「専門家」が立っていた。




