第11話 希望の光明
時刻は午後一時。
娘たちから一通りの凄惨な告白を聞き終えた健三は、静かに椅子を引いた。
「……すまないな、気が利かなくて。まずはランチにしよう。話を聞く限り、今は汁物は避けたほうがよさそうだ」
健三は迷いなくタワマンのコンシェルジュへ連絡し、喉の通りが良いサンドイッチとパックジュースを注文した。
届いた食事を口にしながら、ユイとみなみんは、数日ぶりに「守られている」という安らぎを実感していたのです。
ふとした沈黙の中、みなみんがポツリと呟きます。
「わたしさ、今、音楽聞こうとするとさ、全部、『あの声』が流れてるから音楽聞けなくなっちゃって」
ユイと、ルリルリは(それは私だって同じだよ)と心で思うのですが、精神的にも体力的にも限界を迎えていた彼女らは、親友の呟きに何も返す言葉を出す事が出来ませんでした。
一方、佐伯健三という男の脳内では、すでに戦いのスイッチが切り替わっていた。
弁護士として数々の修羅場を潜り抜けてきた彼は、目に見える物証がなくとも「娘たちの瞳に宿る絶望」という真実を、何よりも重い証言として採用したのだ。
彼は書斎のデスクへ向かい、淀みのない手つきでパソコンを操作しながら電話を始めた。
「ああ、近藤くんか。急にすまない。……明日からしばらく休む。事務所は寺本に任せてくれ。私の抱えている案件は君と佐藤くんで分担してくれ。……ああ、あの埼村市の件は、理由を話して君が新たに選任しておいてくれ。埼村警察には私から一報入れておく。選任の変更はあそこに『出せば』……ああ、わかるな? ……休みの期間は未定だ。早くて十日だろう直。また連絡する」
有無を言わせぬ指示を終えると、彼は間髪入れずに次の番号をタップした。その声は、先ほどよりもさらに一段低く、重い。
「……お世話になっております、佐伯です。まさか私が個人的にあなたのお世話になるとは思いませんでしたよ。……ええ、クライアントではありません。支払いは私個人で行います。……はい、いわゆる『G案件』です。娘がやってしまいましてね……。日程? 明日の昼か、来週ですか。(横を見ると三人が必死の形相で首と両手を振り続ける)明日が可能です。……ええ、承知いたしました。では、明日」
電話を切ると、健三はリビングで身を寄せ合う三人を見つめ、静かに、しかし力強く告げた。
「すまないが、二人の親御さんにも連絡させてもらったよ。君たちの命に関わることだ」
二時間後、三家族が佐伯家のリビングに集結した。
健三の招集に応じ、みなみんとユイの両親も揃っていた。
もともと家族ぐるみの付き合いがある彼らだが、今日ばかりは誰の顔にも笑みはない。
「勝手をして申し訳ない」
健三は集まった親たちを見渡し、深々と頭を下げた。
「しかし、彼女たちの話を聞く限り、これは一刻を争う事態です。私はすでに、専門家を手配しました。明日、この家に来てもらいます。そのため、三人には明日、必ずここにいてもらわなくてはならない。いいですね?」
「健三さんがそこまで仰るなら……只事では無いのでしょう」
みなみんの父親が、青ざめた顔で頷いた。
「正直、最初は勉強のストレスだと思っていました。でも、最近のみなみの怯え方は普通じゃない」
「さあ、三人とも」
健三が促す。
「もう一度、我々大人に全部話してくれるかな? 大丈夫だ、我々は決して怒らない。しかし、解決しなければいけないんだ」
三人は互いの手を握りしめ、震えながら語り始めた。
鳳党の悲劇。少女を含む大量の惨殺。
引き摺り込まれそうになって出来た痛々しい負傷。
だが、話が進むにつれ、リビングの空気は奇妙な二層に分かれていった。
大人たちの視界にあるのは、高級な家具に囲まれた、清潔で乾燥した夕日の差し込む、いつも通りのリビングです。
何かが腐乱した臭いもしなければ、水の音もしない。
「……あ、……っ、来てる……!」
ユイが突然、自分の足をひっこめてソファの上に蹲った。
「パパ、そこ! 足元に手が落ちてる! 周りが黒い血の池になってる……!」
「えっ? 何も無いないわよ、ユイ?」
ユイの母親が驚いて足元を見る。
そこにあるのは、完璧に乾いたペルシャ絨毯だけだ。
「違うの、しかも外から草鞋の音がするの! 何かが、そこから這い上がってこようとしてる……!」
ルリルリもまた、健三の腕に狂ったようにしがみついた。
彼女たちの視界では、乾燥したリビングの床を怪異が侵食し、さらには白紫にふやけた少女たちが、泥水を吐き出しながら窓ガラスに張り付いている。
「落ち着きなさい、ルリルリ。……私たちには見えないが、君たちには見えているんだな」
健三は、娘が指差す「何もない空間」を冷徹な眼差しで見つめた。
五感ですべてを否定できる状況でありながら、健三は娘の言葉を微塵も疑わない。
それが「G案件」――理屈の通じない怪異を受け入れた者の顔だった。
「……皆さん、これが現状です。私たちには何も知覚できませんが、彼女たちにとっては今、この部屋は逃げ場のない地獄になっています」
大人たちは戦慄した。目の前で娘たちが、見えない「何か」を避けようとしてソファの隅へ追い詰められ、泣き叫んでいる。
「……明日だ。明日の昼、専門家が来るまで、私たちがついている。いいな」
みなみんの母、守屋恵が尋ねました。
「こころの病では無いのよね?」
「おそらく違うでしょう」
健三と、夫の守屋義明が即座に否定する。
特に義明は、私服の警察官でありその道のプロである。
病が見せる幻覚では無い、現実の何かに娘が襲われている事を大人達は再認識する事となった。
健三は娘を抱き寄せながら、何も見えない空中に向かって、心の中で静かに、しかし冷徹な宣戦布告を突きつけた。




