第10話 父の帰宅
高級感あふれるタワーマンションのロビー。自動ドアが左右に滑ると、そこには外界の湿った熱気を一瞬で忘れさせるような、冷房の効いた静寂と、鏡面のように磨き上げられた大理石の床が広がっていた。
しかし、その洗練された空間に足を踏み入れた二人の少女の姿を見て、フロントのコンシェルジュは絶句した。
八月の猛暑だというのに、彼女たちは髪を乱し、顔からは幽霊のように血の気が引き、ガタガタと小刻みに震えていたからだ。
「ねえ、あなたたち大丈夫? 気分が悪いなら、少し休んでいかない?」
コンシェルジュが親切心から差し出そうとした、トレイの上の「冷たいお水」。
「ひっ……! 嫌、いらないっ! ごめんなさい!」
みなみんは悲鳴を上げ、差し出されたその「水」から逃げ出した。
今の彼女たちにとって、善意の水分ですら、自分たちを泥濘へ引きずり込む死神の手にしか見えないのだ。
逃げ込むように入ったエレベーターの中。
上昇するGを感じながら、二人は鏡に映る自分たちの無惨な姿を、互いに直視できずにいた。
「……健三さんなら、なんとかしてくれるよね」
ユイが、いまにも消え入りそうな声で、縋るように呟いた。
「健三さんはすごい人脈があるから。本物のお祓いができる人とか、絶対に知ってるはずだよ」
二人は、その唯一の希望に、縋るようにここに来たのだ。
目的のフロアに着き、震える指でインターホンを押す。
玄関が開いた瞬間、待ち構えていたルリルリを含めた三人は崩れ落ちるように抱き合い、リビングへと転がり込んだ。
ルリルリは、昨夜の孤独な地獄を吐き出すように泣きじゃくり、ユイとみなみんもまた、自分たちの身に起きた「指の爪が剥がれるほどの怪異」を涙ながらに打ち明けた。
そこへ、玄関の鍵が開く音が響いた。
「ただいま! お土産たくさんあるぞー! おや、みなみんにユイちゃん、いらっしゃい。君たちにもお土産があるんだ」
明るい、いつもの父の声とともに現れたのは、ルリルリの父、佐伯健三だった。
「パパぁ!!」
「健三さん!!」
三人が一斉に駆け寄り、健三のスーツに顔を埋めてワンワンと泣き始めた。
「お、おいおい、どうしたんだ。喧嘩でもしたのか?」
健三は困惑し、苦笑いを浮かべながらも、その目は三人の異常な様子を鋭く観察していた。
ルリルリの手足に残るどす黒い手形。
ユイとみなみんの、血が滲んだ包帯だらけの指先。
そして、夏場にはあり得ない長袖で隠された、内出血で腫れ上がった腕。
弁護士である彼は、混乱の中でも即座にいくつかの質問を投げかけた。
「誰かに暴力を振るわれたのか?」
「不審者に追いかけられたのか?」
理性的で、かつ具体的な問い。
しかし、返ってきた答えは現実では決して通用しない、けれど彼女たちにとってはあまりにも残酷な「真実」だった。
「キャンプ場の祠を……」
「鳳党のコピーを……」
「首の無い幽霊が……」
健三は、これが人間による犯罪ではないことを確信した。
少女たちが狂言を言っているようには見えないし、何より、その傷は通常の傷害事件とは何かが違う。
彼女たちの傷は、間違いなく「何か」と死闘を演じた凄惨な証だった。
彼は深く溜息をつき、苦笑いを浮かべながら、乙女たちが泣き止むのを静かに待つことにした。
「……よし、落ち着きなさい。パパが帰ってきたからには、もう大丈夫だ」
「まずは温かいココアでも飲んで……」
健三が言いかけた時、みなみんが小刻みに首を振った。
「ダメ……。健三さん、水は……水だけは、持ってこないで……」
リビングの窓の外、地上数百メートルの青空の下で。
健三には見えていないが、三人の目には明らかに、何かが見えていた。
窓ガラスに張り付き、リビングの中を覗き込む、十一人の死者たちの影。
健三は娘たちの視線の先を一度だけ見つめ、静かにキッチンへと足を向けた。




