1.ブラックトリミングサロンで過労、犬を守ろうと……もふもふの神様に呼ばれて異世界へ
第一話「ブラックトリミングサロンで過労、犬を守ろうと……もふもふの神様に呼ばれて異世界へ」
犬の毛は、嘘をつかない。
艶がなく、ボソボソとした束になり、フケが出ていて、めくると皮膚が赤くただれているとき――それは「助けて」の合図だ。
今日もまた、その合図を出した子が目の前にいる。
「花守、まだ終わらないの!?」
背後から飛んできた声に、花守澪は反射的に肩をすくめた。
このペットサロン《rux dog》に入社して一年が過ぎた。
店長の竹田先輩は、猫のようなつり目を今日もきつく吊り上げて、周りのスタッフを睨みつけている。
竹田先輩に怒鳴られない日は、無い。彼女にとって、売上を伸ばすため時短最短で動かないトリマーは無能だから。無能なトリマーは叱責される。
「すみません、すぐ終わります」
目の前の小型犬は、アンダーコートがびっしりと絡まり、ブラシがまったく通らない。皮膚炎も起きている。いっそバリカンを入れて異常なほどに短く刈ってしまえば、早く終わる。
でも、その短さではこの先、紫外線によって余計に皮膚を痛めてしまう。
「時短! 時短って言ってるでしょ! 次詰まってるんだから!」
先輩の声が鋭く刺さる。苛立ちとともに吐き出される冷たい言葉の数々。彼女の目に犬は映っていない。あるのは売上、そしてお金だけ。
澪は唇を噛んだ。
この店に、犬への優しさはない。
回転率。それを上げるための効率。そして、売上。
道具は錆びと脂のついたバリカン、毛の詰まったブラシ。スリッカーはピンが欠け、曲がり、ケガをさせかねない。道具の手入れを申し出たら「そんな時間はない、余計なことするな」と怒鳴られた。
休憩はない。昼も食べていない。それも、いつものこと。
それでも。
「もう少しだけ、我慢してね」
澪は犬にだけ聞こえる声で囁き、ブラシで引っ張るのではなく、指先で優しく毛束をほどいていく。その手つきは優しく、同時に熟練のトリマー並みの速さだ。
犬の身体が、ほんのわずかに力を抜いた。
――大丈夫。私がいる。
その瞬間だけは、自分が無能だなんて思わなくて済む。
先輩に与えられた短い時間で、必死に小型犬のアンダーコートのもつれを、できる限り優しくほどいて、その後はひたすらシャンプー。五頭もシャンプーに入れて、乾かした。就職一年目の澪は、まだお客様の犬をカットさせてもらえない。
だから、カットは閉店後、ウィッグや、オーナーの犬で練習する。
その間に先輩たちは帰ってゆき、残された澪がサロンの掃除とオーナーの犬たちの世話を一人でこなす。
全てを終えて帰路につくときには、澪の足取りはふらついていた。
夜風が冷たい。
過度な疲労からか、視界が揺れる。
もう限界かもしれない、とどこか他人事のように思ったとき。
道路の向こう側に、小さな影が見えた。
……犬?
ぼんやりと、淡く光る毛並み。小型犬の大きさだけど、光って見えるせいか、不思議と目を引かれる。
その犬が、怖がりもせずふらりと車道に出る。
夜だから、道を走る車もスピードが速い。その犬にヘッドライトが迫る。
犬の金色の瞳が、まっすぐ澪を見る。
おかしなことに、犬はそのまま立ち止まって、逃げない。
「……なんで逃げないの!」
澪は走った。腕を伸ばす。
その瞬間。犬の毛が、淡く光った。
「え――」
強烈な光と、衝撃。
世界が、白く弾けた。
――ごめんね。
守れなかった。そう思ったのに。
ふわり、と。
腕の中で温かな毛が抱かれている感触があった。
車に撥ねられたと思った瞬間から、ぎゅっと閉じたままにしていた目を、おそるおそる開ける。
そこは、見知らぬ草原だった。夜だったはずなのに、昼の明るい草原。
そして、腕の中には――
毛玉だらけの、ボロボロの犬がいた。
さっきの光る犬ではない。
汚れ、固まり、皮膚は荒れ、痩せ細っている。元々の毛色もよく分からない。
それでも、その金色の目だけは、澪を見ていた。
助けて、と。
澪の喉が震える。
「……大丈夫。私、トリマーだから」
ここがどこかなんて、どうでもよかった。
手が、自然に毛に触れる。
指先で、状態を読む。
絡まり具合、皮膚の状態、体温や関節、筋肉の付き具合。
とたん、情報が、頭に流れ込む。
――治せる。
その瞬間、澪の視界に淡い文字が浮かんだ。
【従魔毛並鑑定 発動】
【グルーミングEX 解放】
そして遠くで、誰かがくすりと笑った気がした。
――ようこそ。
毛守りの世界へ。
澪の視界に浮かんだ光は、すぐに文字へと変わった。
【従魔毛並鑑定】
【グルーミングEX】
【皮膚再生】
【魔力ブロー】
「……なに、これ」
混乱よりも先に、腕の中の犬が震えた。
アンダーコートの固まりによる毛玉が皮膚を引っ張り、痛みを生んでいる。
澪は迷わなかった。両手を毛に添える。
触れた瞬間、指先に“流れ”を感じた。
絡まりがほどける最短の道筋が、はっきりと見える。
「大丈夫。すぐ楽にしてあげる」
淡い光が、澪の手から零れた。毛玉が、するりとほどけていく。
赤く荒れていた皮膚が、少しずつ色を取り戻す。
犬が、はじめて小さく息を吐いた。痛みで固まった体から力が抜けていくのも感じ取れた。
そのとき。
「さっきはびっくりしたよねぇ、大丈夫?」
場違いなほど明るい声が、空から降ってきた。
澪が顔を上げると、そこには。
ゾウを越えるサイズ感の、巨大な、光り輝く“もふもふ”が浮いていた。
犬のようで、狼のようで、狐のようでもある。
狐のようなふさふさの尾は合わせて五本。それぞれ色は違うが、すべて毛並みは星屑みたいに瞬いている。
「……え」
「ごめんねぇ? ちょっと事故っちゃって」
「事故?」
「さっきの“犬”、あれね。うちの子」
澪の思考が止まる。
「……うちの子?」
「うん。ぼくが可愛がってる従魔。たまに君たちの世界に遊びに行くんだけど、君だけ見えちゃったみたいで」
神様は悪びれもせず、尾をぱたぱた振った。
「本来なら、見えないはずなんだけどねぇ。うちの子と君、波長? 相性? なんかぴったりだったみたい」
「じゃあ……私が轢かれたのは」
「ぼくのせい」
あっさり認めた。
「ほんっとごめんねぇ?」
巨大もふもふが、しょんぼりと耳を垂らす。
澪はしばらく黙っていた。
怒るよりも先に、腕の中の犬を見下ろす。
「……この子は?」
「その子はね、捨てられた従魔」
神様の声が、少しだけ静かになる。
「主を失って、契約も切れて、魔力も足りなくて、ああなった」
澪の胸がきゅっと締まる。
「放っておけば、あと数日だったかな」
澪の指が、ぎゅっと毛を握った。
「だから君をここに連れてきた」
「……え?」
「正確には、謝罪とお詫びだよ。でもね、君があの子を抱いてる時、思ったんだ」
神様は、にやりと笑う。
「この世界、変わるかもって」
草原に風が吹く。
「君にスキルをあげる。さっき見えたやつ全部。この世界での生活基盤は……まあ、なんとかなるでしょ」
「雑……ですね」
「細かいこと気にしない気にしない!」
澪は、ゆっくりと息を吸った。
「……私、元の世界に戻れますか」
少しの沈黙。
神様は、やわらかく首を振った。
「肉体はもう無理。でもね」
淡桃色の一本の尾の先が、澪の額に触れる。
「ここでなら、君はちゃんと評価されるよ」
その言葉は、不思議と温かかった。
澪の脳裏で、ブラックトリミングサロンの怒号が、遠くなる。
無能だと言われ続けた日々が、霞んでゆく。
澪は意を決して、腕の中のボロボロの犬をぎゅぅと抱きしめた。
腕の中の犬が、弱々しく尻尾を振った。
澪は、決めた。
「……じゃあ」
顔を上げる。
「この子、私が綺麗にして、守ります」
神様は満足げに目を細めた。
「うん。いい顔」
空が、金色に染まる。
「ようこそ、花守澪」
巨大なもふもふの輪郭が、光に溶ける。
「ここは、従魔と人が共に生きる世界」
最後に、いたずらっぽい声が残った。
「――もふもふ天国へ」
光が消えたとき。
澪の腕の中で、犬が小さく鳴いた。
その声は、確かに喜びを含んでいて。
一人新しい世界にやって来た澪にとって、最初の希望だった。
トリミング用語解説
アンダーコート……ダブルコート犬種(二種類の被毛を持ち、換毛期になると毛が抜ける)の、換毛期に抜ける方のふわふわホワホワした毛のこと。
適切なブラッシングを行わないと、アンダーコートが溜まってしまい、もつれ、毛玉の原因になります。




