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毎朝君は俺を忘れるけれど リセットヒロインと二十日間の初恋
しげみち
第1話「君は昨日の私を知らない」
放課後の図書室は、ひどく静かだ。
チャイムが鳴り終わってから一時間もすれば、テスト前でもない限り、生徒の姿はまばらになる。数少ない常連組も、五時の閉館が近づくにつれて一人、また一人と席を立っていき、最後に残るのはたいてい俺――篠森圭斗か、あるいは今日みたいに「例の転校生」だ。
地方都市の、どこにでもあるような公立高校。二階のいちばん奥まった場所にある図書室は、放課後の喧騒から切り離された、妙に現実感の薄い空間だ。窓の外では部活帰りの掛け声が聞こえるはずなのに、厚いガラスと本棚の壁に遮られて、ここまで届いてこない。
その静けさが、俺は嫌いじゃない。
家に帰れば、成績の話と大学受験の話と「期待してるからね」の笑顔が待っている。廊下を歩けば、誰かの何気ない一言が耳に残って、いつまでも頭の中でリピートされる。
ここにいるときだけは、そういうものから少しだけ距離を取れる気がした。
――のはずだったのに。
その日の図書室は、いつもと少しだけ違っていた。
俺の三つ向こうの机に、白凪ゆきがいたからだ。
長い黒髪を耳の後ろでひとつにまとめ、眉の少し上でぱつんと切り揃えられた前髪。制服のリボンはきっちり結ばれていて、ブレザーのボタンも一つも外れていない。目立つアクセサリーも、派手なメイクもない。
一見すると、「真面目そうな転校生」のテンプレみたいな見た目だ。
けれど、彼女の存在が噂の中心にいるのは、その見た目のせいじゃない。
彼女が、毎日毎日、同じノートを必死に書き続けているからだ。
そのノートを、俺は今、真正面から見てしまっている。
薄い青色の表紙。B五サイズ。表紙の端は何度も開け閉めされたせいで白く擦り切れ、手の脂で少し黒く光っていた。開かれたページには、細かい文字がこれでもかと並んでいる。
太い罫線の上に、「白凪ゆき」と名前。すぐ下に、「一七歳 高二」「好きな食べ物 プリン」「嫌いな食べ物 ピーマン」といった、自己紹介カードみたいな情報が羅列されていた。
その下には、「家族構成」「今日あったこと」「信用していい人リスト」と、マーカーで引かれた項目名が並んでいる。
……テストの要点をまとめるにしても、ずいぶん変わった書き方だ。
そんなことを考えていると、カウンターから、「そろそろ閉館の時間ですよー」という司書の先生の声が飛んできた。
「本を借りる人は、五分以内にカウンターまで持ってきてくださーい」
ぱらぱらと本を閉じる音があちこちから聞こえ、椅子が引かれる。常連組の何人かが慌ただしく席を立っていく中、白凪は顔を上げない。ボールペンを走らせる手は、まるで期限に追われているかのように止まらなかった。
視線を外そうとして、外せない。
あんなに真剣にノートを書く姿なんて、そうそう見られるものじゃない。教科書に向かっているときのクラスメイトより、百倍は集中しているように見えた。
それは、俺が持っている「全部を覚えてしまう」頭とは、真逆の努力の仕方だった。
気がつけば、教科書を閉じて立ち上がっていた。
司書の先生に借りる本を預けてから、俺は出入り口とは逆方向に足を向ける。机の前に立つと、白凪がようやく顔を上げた。
驚いたように見開かれる、黒目の大きな目。
近くで見ると、その瞳の中にも、細かい文字が映り込んでいるように見えた。
「あの」
自分でも、なんて声をかけるつもりだったのか分からないまま口が動く。
「そんなに必死に書いて、手、疲れない?」
ひどく間抜けな台詞だった。
けれど白凪は、きょとんと瞬きをしたあと、ほんの少しだけ笑った。
「……疲れるよ。でも、書かないと困るから」
その声は、透明なガラスみたいに澄んでいた。ちょっとだけ冷たいけれど、触れたら割れてしまいそうな脆さも含んでいる。
俺は慌てて続ける。
「白凪だよな。同じクラスの、二年四組の」
「あ……うん。私の名前、知ってるんだ」
「席、窓側の後ろから二番目。転校してきたの、四月の終わり。ホームルームで自己紹介して、『よろしくお願いします』って二回言った」
口にしてから、「あ、やば」と思う。
こういうところが、気持ち悪がられるんだ。
俺は、一度見聞きしたことを、ほとんど忘れない。先生が黒板に書いたことも、クラスメイトの雑談も、廊下ですれ違ったときの表情も、細かいところまで全部。
便利だと言われることもあるけれど、忘れたいことまで、いつまでも鮮明に残り続ける。
小学三年のときに友達と殴り合いになったときの、あの拳の痛みも。
父親が家を出ていくとき、母さんが見せた笑顔の端のひきつりも。
昔のことなのに、今日の昼休みみたいに思い出せてしまう。
それを、つい癖で口にしてしまった。
「えっと、ごめん。暗記するのが癖で」
慌てて言い訳すると、白凪は首をかしげる。
「暗記って……すごいね。私には、とてもできないから」
「いや、すごくは、ない。というか、まあ、その……」
言葉を探して口ごもる俺を見て、白凪はペンをくるりと回した。
「ごめん、えっと」
彼女は真剣な顔で俺のことを見つめる。
「あなたとは、初対面……だよね?」
「は?」
思わず変な声が出た。
「だって、すごく話しかけ慣れてる感じだったから。私のことも、よく知ってるみたいだし」
「いや、同じクラスだし。席も近いし。体育のときとかも、何回か同じ列になったし」
「そう、なんだ……」
白凪は、そこで一瞬だけ眉を寄せた。困ったとき特有の、記憶を手探りで探しているみたいな顔。
けれど、すぐにあきらめたように首を振る。
「ごめんね。本当に、思い出せないや」
その言い方は、申し訳なさと、諦めと、自分への苛立ちが少しずつ混ざったような響きだった。
噂話が、頭の中で線になる。
――白凪ゆきは、変な転校生だ。
――毎日、同じノートを読んで、自分のことを覚え直しているらしい。
――昨日のことも、覚えていられないんだってさ。
冗談半分で流していた噂が、急に現実味を帯びる。
「それ」
俺は、気づけばノートを指さしていた。
「テスト勉強じゃないんだな」
「うん。これは……私自身の、勉強というか」
白凪は少しだけためらってから、ノートをこちら側に押し出した。
「見せてあげる。ただし、笑わないって約束してくれる?」
「笑わない。絶対に」
俺が真面目にそう答えると、白凪は安心したように息を吐く。
ノートのページには、細かな字がびっしりと並んでいた。
左上の大きな見出しには、「白凪ゆき 取扱説明書」と書かれている。
その下には――。
私は記憶が一日ごとにリセットされる。
毎朝、このノートを読んで、自分が自分であることを思い出している。
という、一文。
文字を追った瞬間、自分の鼓動が一拍分だけ跳ねた。
ふざけているわけではなかった。行間の詰まり方や、筆圧の強さから、冗談ではないことぐらい分かる。
「……これ、本気で書いてるのか」
「本気、だよ」
白凪は、あくまで淡々と答える。
「物心ついた頃から、ずっとこんな感じなんだって。お医者さんは、いろんな難しい言葉を使ってたけど、私にとって大事なのは『昨日の私が何をしていたか、覚えていられない』ってこと。それだけ」
ノートの別の箇所には、こんな文もあった。
昨日までの記憶は、だいたい寝たら消える。
でも、このノートに書いておいたことだけは、朝になっても「事実」として信じられる。
だから私は、毎日ここに書き足している。
俺の視線が走るのに合わせて、文字が頭の中にどんどん焼き付いていく。
紙をめくった先のページには、こうも書いてあった。
このノートを奪おうとする人がいたら、絶対に逃げる。
笑顔で近づいてくる人ほど、少し距離を取る。
信用していい人は、ここに書いた人だけ。
「信用していい人リスト」の欄には、すでに何人かの名前が並んでいた。
担任の名前。保健室の先生の名前。司書の先生の名前。
その一番下に――。
クラスメイトの篠森圭斗。多分、信用していい。
と、書かれている。
思わず固まった。
「……俺」
「うん。今日、初めてちゃんと話したけど」
白凪は、ペン先でそこを軽く指し示す。
「授業中に当てられた子が答えにつまってたとき、さりげなくノートを見せてあげてたよね。先生からは見えない角度で」
あの日のことが、鮮明に蘇る。
英語の授業。前の席のやつが英文を読み飛ばして、教科書のどこを読んでいるか分からなくなっていた。そのとき、俺は自分の教科書をそっと前にずらして、ページの位置を示した。
そんな些細なことを、白凪は見ていた。
「それに、今日も、困った顔をしてる私を笑わなかった」
「当たり前だろ」
「そういう『当たり前』が通じない人が、世の中には案外多いんだよ」
白凪は、少しだけ寂しそうに笑う。
「私がこういう状態だって、クラスのほとんどは知ってるんだと思う。でも、ちゃんと話しかけてくれたの、あなたが初めて」
その言葉は、思いのほか重く感じられた。
教室にいるときの白凪を、俺は思い出す。
休み時間、教科書をじっと読んでいる彼女に声をかける人はほとんどいない。小さく話題にされることはあっても、近づいていく勇気のあるやつは少ない。
「記憶が持たない」なんて、あまりにも異常だから。
どう接していいか分からないから。
「……怖くないのか」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「昨日の自分を、覚えていられないって」
「怖くないと言えば嘘になるけど」
白凪は、少しだけ考えるように視線を落とす。
「でも、私にとっては、これが普通なんだ。昨日のことを覚えていられないのが、私の日常。朝起きたら、このノートを読んで、『ああ、私はこういう人間なんだ』って確認するのも、いつものルーティン」
「ルーティン」
「うん。歯を磨くみたいなもの。忘れたら大変だけど、やること自体はもう慣れてる」
そう言って、白凪はノートの「今日あったこと」の欄に目を落とした。
そこには、今日一日の出来事が、箇条書きで整理されている。
一時間目 古典 小テスト 八十五点
二時間目 数学 範囲が広くて泣きそう
三時間目 英語 篠森圭斗が当てられた子をさりげなく助けていた
昼休み お弁当 卵焼きが甘くて嬉しい
放課後 図書室でノートを書いている ここまで
そして、その下に、新しい行が空けられていた。
「……この行には、何を書くつもりだ?」
「うーん、そうだね」
白凪は、ペン先を唇に当てて、少しだけ考える。
「たぶん、『放課後、篠森圭斗と話した。多分、信用していい』かな」
「多分、なんだな」
「ごめん、慎重なんだ、私」
そう言ってくすっと笑う彼女につられて、俺も少しだけ笑った。
図書室の時計を見ると、針は五時を指している。
「閉館しますよー。続きはまた明日にしてくださいねー」
司書の先生の声に、現実に引き戻される。周囲の明かりが一段階暗くなり、窓の外の空は、いつのまにか薄い紫色に染まっていた。
白凪はノートを閉じ、丁寧にペンをペンケースにしまうと、最後にページの隅を開いて、そこに小さく文字を書き加えた。
「何を書いたんだ?」
「秘密」
「そこまで見せておいて、最後だけ秘密かよ」
「だって、これは、明日の私へのサプライズだから」
そう言って、白凪はノートをこちら側へ少しだけ傾けた。
視線を落とせば、そこには小さな文字で、こう書かれている。
明日、この人にもう一度話しかけてみる。
その一文と一緒に、細い矢印で、「篠森圭斗」と今日の日付が指し示されていた。
胸のあたりが、ぎゅっと縮まる。
たった一行の文字なのに、そこに込められた「期待」が、妙に重く感じられた。
「……本当に、明日も俺のこと、覚えてないのか?」
思わず聞いてしまう。
「たぶん、覚えてないと思う」
白凪は、あっさりと言った。
「でも、このノートには、あなたのことが残る。『明日話しかけてみる』って書いてあるから、明日の私は、きっとここを読んで、あなたを探す」
「怖くないのか。知らない相手に、話しかけるの」
「『知らない』って言ってもね」
白凪はノートの表紙を撫でる。
「私にとって、この中に書いてあることは、全部『信じていい事実』なんだ。だって、昨日までの私が、一生懸命考えて残してくれたものだから」
その言い方には、不思議な信頼がこもっていた。
自分自身への信頼。
昨日までの自分と、明日の自分をつなぐ、ただ一冊のノートへの信頼。
「だから、きっと大丈夫」
白凪は、少しだけ照れくさそうに笑う。
「……それに」
「それに?」
「あなた、さっき『笑わない』って約束してくれたからね」
その笑顔は、今まで図書室で一度も見たことのない種類のものだった。
いつも無表情に見えていた彼女が、こんなふうに笑うのかと、素直に思った。
――忘れられることなどない。
その瞬間、そう確信した。
あのノートに書かれた文字も、彼女の笑顔も、今、この図書室に満ちている夕方の匂いも。全部、俺の頭の中に焼き付いて、一生消えない。
でも同時に、胸の奥で別の感情が、ひやりと顔を出す。
もし明日、本当に彼女が俺を覚えていなかったら。
あの笑顔も、この会話も、全部、俺の一方的な記憶になってしまう。
それは、どこか不公平で、少しだけ怖かった。
「……じゃあ、また明日」
白凪はノートを大事そうに胸に抱え、立ち上がる。
俺も荷物をまとめて、図書室を出た。
廊下に出ると、夕焼けが窓ガラスを真っ赤に染めている。床に伸びた自分と白凪の影が、少しだけ重なって、すぐに離れた。
その光景までも、俺の頭は勝手に保存してしまう。
家に帰る道すがら、さっき見たノートの文章を、頭の中で何度も再生した。
白凪ゆき 取扱説明書。
私は記憶が一日ごとにリセットされる。
毎朝、このノートを読んで、自分が自分であることを思い出している。
文字の形。書き出しの位置。インクの掠れ方まで。
目を閉じれば、ページ全体がスクリーンのように浮かんでくる。
俺の脳は、一度見たものをほとんど忘れない。
それがどれだけ便利で、どれだけ面倒なものなのか、俺はよく知っている。
忘れた方が楽なことなんて、いくらでもある。
父親が家を出ていった日の、母さんの笑顔。
中学のとき、親友だと思っていたやつに裏切られた日の、ひどく冷たい言葉。
「全部覚えている」ということは、「全部、何度でも思い出せる」ということだ。
だから俺は、人と深く関わるのが苦手だった。仲良くなればなるほど、もし関係が壊れたとき、その痛みを一生抱えていくことになると思ってしまうから。
それなのに――。
今日初めてちゃんと話しただけの転校生のことを、こんなにも考えている。
「……何やってんだ、俺」
小さくため息をついて、スマホを取り出した。
メモアプリを開いて、「白凪ゆき」とタイトルを打ち込む。そこに、さっき見たノートの内容を、そのままの形で書き写していく。
文字の配置から、空白の取り方まで、できる限り忠実に。
これは、俺にしかできないコピーだ。
俺の頭の中にだけある、彼女の「取扱説明書」のバックアップ。
自分でも、何のためにこんなことをしているのか分からない。
でも、そうしておかなければいけない気がした。
明日、彼女が本当に俺を忘れてしまっていたら。
もし、あのノートに何かあったとき、彼女が自分を見失ってしまったら。
そのとき、俺だけは――昨日の彼女を、全部覚えている。
そんな役目を、勝手に自分に押しつけていた。
◇
翌朝。
いつもより少し早く家を出た俺は、教室のドアの前で一度だけ深呼吸をしてから、中に入った。
まだ席についている生徒は少ない。
窓側の後ろから二番目の席には、すでに白凪がいた。机の上には、例の青いノートが開かれていて、彼女は真剣な顔でそこに目を走らせている。
昨日と同じ光景。
でも、今日の彼女にとっては、初めての光景なのだろう。
喉が少しだけ渇く。
俺は、自分の席に荷物を置いてから、白凪の方へ歩いていった。
「おはよう、白凪」
声をかけると、白凪は顔を上げた。
大きな瞳が、俺のことを映す。
そこには、懐かしさも、気まずさも、照れくささもなかった。
昨日、図書室で見せていたような、柔らかい笑顔もない。
ただ、初めて会うクラスメイトに向けるような、少しだけ警戒した視線だけがあった。
「……おはようございます」
白凪は、丁寧に頭を下げたあと、首をかしげる。
「あの、ごめんなさい。どちら様、でしたっけ?」
その言葉を聞いた瞬間、昨日の夕焼けと図書室の匂いが、一気に蘇る。
忘れられない俺と、何も覚えていられない彼女。
昨日の彼女を知っている俺と、昨日の自分を知らない彼女。
その距離が、はっきりした形を持って眼前に現れた。
胸の奥が、少しだけ痛くなった。
でも同時に、心のどこかが、静かにざわめき始める。
ここから始まるのだと、直感した。
俺の、一生忘れられない高校生活が。
そして――。
彼女が昨日の自分を知らないように、彼女もまた、昨日までの俺を知らない。
俺は昨日までの自分から、一歩だけ踏み出すことを選ぶ。
「篠森圭斗。同じクラスの」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「昨日、図書室で少し話した。……お前のノートに、俺のことが書いてあるはずだ」
白凪の瞳が、わずかに揺れる。
彼女はおそるおそるノートに視線を落とし、「信用していい人リスト」の欄を確認した。その指先が、ある行の上でぴたりと止まる。
クラスメイトの篠森圭斗。多分、信用していい。
明日、この人にもう一度話しかけてみる。
文字を追った瞬間、白凪の表情が変わった。
驚きと、戸惑いと、ほんの少しの安堵。
「……本当に、書いてある」
白凪は、顔を上げた。
「私、あなたのこと、昨日も見てたんだね」
「ああ。俺も、お前のことをずっと見てた」
言ってから、「ずっと」という言葉の重さに、少しだけ頬が熱くなる。
でも、もう引っ込められない。
白凪は、俺の顔とノートを交互に見比べていたが、やがて、少しだけ笑った。
「そっか。じゃあ――」
彼女はノートの片隅に、新しい行を作る。
そこに、さらさらと文字を書き足した。
篠森圭斗。昨日も今日も、私に話しかけてくれた人。
その一行が、俺の胸のどこか深い場所に、静かに刻まれた。
彼女は昨日の私を知らない。
でも、今日の俺は、昨日の彼女も、今目の前にいる彼女も、全部覚えている。
そんな、最悪で最高に面倒くさい関係が、今始まった。
第2話「ノートに書かれた“信じるべき人”」
翌朝の教室は、妙にざわついていた。
梅雨入り前の曇り空が窓いっぱいに広がっているせいか、教室の中の色は少しだけ薄い。けれど、クラスメイトたちの視線だけはやけにくっきりしていて、そのいくつかが、明らかに同じ一点に向けられていた。
窓側の後ろから二番目。
白凪ゆきの席だ。
彼女は、椅子にちょこんと座っていた。背筋を伸ばし、制服のスカートの裾をきちんと揃えて、机の上に青いノートを広げている。
その周りに、目に見えない白線が引かれているみたいだった。
誰も、その線を越えようとしない。
「なあなあ、白凪さん、今日もノート読んでるぞ」
「毎朝あれやってんの、マジなんだな」
「教師もよく許してるよなあ。あれサボり扱いにならんの」
「なんか事情あるらしいって聞いたけど」
後ろの方から聞こえてくるひそひそ声が、耳に勝手に飛び込んでくる。
聞きたくなくても、聞こえてしまう。
俺の脳は、そういう取捨選択がうまくできない。
黒板の上の時計は、始業五分前を指していた。ほとんどの席は埋まっているのに、教室の空気はまだ「ホームルーム前」の落ち着かなさを残している。
俺は自分の席に鞄を置いてから、ほんの少しだけためらって、立ち上がった。
視線がいくつか、こちらに向く。
気にしないふりをするのは慣れていた。
ただ、今日はいつもと違う理由で胸がざわついていた。
白凪の席の横まで歩き、机の縁に軽く手を置く。
「おはよう、白凪」
そう声をかけると、彼女はぴくりと肩を揺らしてから顔を上げた。
大きな黒目が、まっすぐこちらを見る。
そこには、やっぱり昨日の夕方のような懐かしさはなかった。
「おはようございます」
きちんとした言葉遣いでそう言ってから、彼女は首をかしげる。
「あの、ごめんなさい。どちら様、でしたっけ」
分かっていたはずの言葉だ。
分かっていたのに、心臓の奥の柔らかいところを、指でつつかれたみたいにちくりと痛んだ。
昨日の記憶は、やっぱり一晩で消える。
彼女にとって、俺は「初対面のクラスメイト」に逆戻りだ。
「篠森圭斗。同じクラスの」
昨日も口にした自己紹介を、もう一度繰り返す。
「……二年A組で、席も近い。昨日、図書室でも少し話した」
「図書室」
白凪は小さく復唱した。
その言葉に、ほんの一瞬だけ瞳が揺れる。
けれど、すぐに困ったように視線を泳がせた。
「ごめんなさい。全然、思い出せないや」
「いや、まあ、だよな」
分かっている、と言うには、声が少しだけ上ずっていた。
昨日、俺はちゃんと覚えていてほしいと願っていた。頭のどこかで、もしかしたら例外が起きているかもしれないと期待していた。
そういう自分の浅ましさが、今さらのように恥ずかしい。
白凪は、そんな俺の表情を読み取ったのか、慌てたように鞄の中を探り始めた。
「え、あの、ごめんね。今、確認するから」
「確認」
「うん。ちょっと待って」
彼女は青いノートを取り出すと、ぱらぱらとページをめくった。表紙の内側には、昨日図書室で見せてもらったのと同じ文章が並んでいる。
私は白凪ゆき
私は記憶が一日ごとにリセットされる
この学校の二年A組
信じていい人 椎名先生
そして、その下に――。
篠森圭斗
という名前が、昨日より濃いインクで書き足されていた。
すぐ横に、「多分、信用していい」と小さな字で添えられている。
白凪は、それを一気に読み通した。
文字を追っている間、彼女の視線の動きは早いのに、その表情はほとんど変わらない。けれど行を一つ読み終えるごとに、ほんの僅かずつ眉の位置が変わっていくのが分かった。
困惑から、納得へ。
そして、少しだけ柔らかさを含んだ何かへ。
「……そっか」
読み終えた白凪は、小さく息を吐いた。
「ごめんね。本当に、昨日の記憶がなくて」
「別に、謝ることじゃない」
「でも、私にとっては、初対面だから」
そう言って、彼女はノートを軽く撫でる。
「でも、昨日の私が『信じていい』って書いてるなら、多分大丈夫なんだと思う」
そう言って、ぎこちなく笑った。
その笑顔は、昨日図書室で見せたものと似ているようで、少し違っていた。
昨日は、俺を「初めてちゃんと認識した」瞬間の笑顔。今日は、「知らない相手を、ノートを通じてもう一度信じ直す」ための笑顔。
どちらも、俺にとっては忘れられない。
「にしてもさ」
俺は、ちらとノートを見ながら言う。
「俺の名前、わりとあっさり書いてあるよな。昨日、そんなに信頼されるようなこと、したか俺」
「えっと……」
白凪は、ペン先で別の行を指さした。
三時間目 英語 篠森圭斗が、当てられた子をさりげなく助けていた
「これ、だって。私、こういうの、好きだから」
「そんなことで」
「そんなことだよ」
白凪は、ぽつりと言う。
「私ね、自分の記憶があてにならないから、人の『当たり前』には慎重なの。でも、誰かが誰かをさりげなく助けた、とか、困ってる人を笑わなかった、とか、そういう小さいことは、信じていいと思ってる」
その言い方があまりにもまっすぐで、俺は一瞬だけ言葉を失った。
教室のあちこちから、また小さな視線が飛んでくるのが分かる。
「篠森と白凪が話してる」という、それだけの事実を観察する好奇心の目だ。
からかい半分のものもあれば、距離の測り方を計算しているような冷静なものもある。
俺は、そういう視線にも、慣れているはずだった。
けれど今は、そのどれよりも、目の前の一人の視線の方が重かった。
「あのさ、昨日ってさ」
白凪が、おそるおそる口を開く。
「図書室で、私、あなたに何を話した?」
「何をって」
「ノートには『図書室で少し話した 多分、信用していい』って書いてあるけど、具体的に何を話して、どうしてそう思ったのかは書いてなくて」
「……説明不足だな、昨日のお前」
「だよね。反省してる」
白凪は、ちょっとだけ肩をすくめる。
その仕草が、意外と普通の女子高生っぽくて、思わず笑いそうになった。
と、そこで。
「はいはーい、そこの二人。朝からイチャイチャしない」
軽い声が、上から降ってきた。
顔を上げると、すでに教壇には担任が立っていた。四十代手前、ネクタイが似合わないジャージ姿の男。クラスメイトからは、名前をもじって「カワタツ」と呼ばれている。
「いや、別にイチャイチャは」
「見ようによっては充分そう見えるけどなあ。篠森、お前が女子と話してるの、初めて見たぞ」
「ひどくないっすか、それ」
「いやいや、褒めてる褒めてる。青春してるなあって。……よし、ホームルーム始めるぞー。席につけー」
カワタツの軽口とともに、教室中の視線が一気に前に向く。
俺は咳払いをして、自分の席に戻った。
ちらと横を見ると、白凪もノートを閉じて、真面目な姿勢で前を向いている。
さっきまでの会話の余韻は、俺の中にだけ、やけにはっきり残っていた。
◇
ホームルームが終わって、一時間目の現代文が始まった。
教科書を開き、黒板に映るプリントを何となく眺めながらも、頭の片隅ではさっきのノートのことを考えていた。
信じていい人 椎名先生/篠森圭斗
どうして、その二人だけが、そこに列挙されているのか。
椎名先生は、養護教諭だ。去年の冬に赴任してきて、まだ一年も経っていないはずなのに、生徒からの信頼は妙に厚い。保健室の前を通るたびに、誰かしらが椎名のところに相談に来ているのを見かける。
白凪の症状のことも、きっと一番近くで見てきたのだろう。
じゃあ俺は、なんだ。
昨日今日と、ちょっと話しただけの、地味で目立たない男子だ。
客観的に見れば、「信じていい人リスト」に入る理由なんてない。数学のテストで毎回九十点以上取れることなんて、信頼とは何の関係もない。
それでも、昨日の彼女は俺の名前を書いた。
それが、どうしようもなく気になっていた。
「篠森。ここの段落、音読してくれるか」
「はい」
先生に指名されて、立ち上がる。教科書を開いたページ、問題文の三段落目に目を落とし、口を動かす。
読むことにも、聞くことにも、困ったことはほとんどない。
一度読めば、大体の内容は頭に入るし、重要なフレーズは文字ごと記憶される。だからこそ、俺は「全部覚えてしまう」自分の頭を、あまり好きになれなかった。
授業が進んでいく中で、ふと妙な違和感が背筋を撫でた。
黒板の左端。
さっきまでチョークで書かれていたはずの、先生のメモ書きがなくなっている。
例文の構造を簡単に図解しただけの、たいした内容じゃない。けれど、数分前にチョークの音を聞いて、文字が書かれていくのを見ていた記憶がある。
それが、いつのまにか、きれいさっぱり消えていた。
先生は何事もなかったように授業を続けている。クラスメイトも誰も気にしていない。
俺は、手を挙げるタイミングを逃したときみたいに、変な息苦しさを覚えながら、視線を横にずらす。
白凪は、教科書とノートを見比べていた。
自分の青いノートではなく、普通の授業用ノート。そのページには、黒板の左端に書かれていたのと同じ図解がきちんと写されていた。
彼女の視線は、まるでそこにしか答えがないみたいに一点に集中している。
――彼女の周りで、妙に物事が忘れられることがある。
昨日、自分の頭の中で組み上げた彼女のプロフィールの一文が、不意に耳の奥で反芻された。
まだ誰からも聞いていないはずの言葉。
それでもなぜか、そんなフレーズが浮かんだ。
黒板の文字は、先生が消したのかもしれない。単に俺がぼんやりしていた時間に、何か説明が終わって、必要なくなったのかもしれない。
そう言い聞かせても、違和感だけが小さく残った。
◇
二時間目が終わって、休み時間になった。
次は数学。ノートと教科書を出そうとしていると、教室のドアが開いて、見慣れた顔が覗いた。
「ごめんなさいね、授業の前に。篠森くん、ちょっといいかしら」
柔らかい声とともに現れたのは、白衣にカーディガンを羽織った女性だった。
肩までの髪を一つにまとめ、淡い色の眼鏡をかけている。にこにことした笑顔の裏に、仕事モードの冷静さを隠し持っているタイプ。
養護教諭の椎名先生だ。
「椎名先生、どうかしました」
「ちょっと、お話が。保健室まで来てもらえる?」
その言い方は、体調不良を心配しているときのものとは違った。
俺は一瞬だけ周りを見回す。
クラスメイトたちの視線が、またこちらに集まっていた。
誰かが、小さくひそひそと囁く。
「白凪の次は篠森か」
「何かあったんかな」
そういう声も、耳に勝手に残る。
椎名先生は、それらをさりげなく無視して、俺に軽く微笑んだ。
「そんな緊張しなくて大丈夫。怒られるようなことじゃないから」
「怒られるようなことは、別にしてないつもりですけど」
「そうでしょうね。だから来てほしいの」
意味ありげな言い方に、胸のざわつきが少しだけ強くなる。
「分かりました」
俺は席を立って、教室を出た。
廊下を歩きながら、さっきの黒板のことを思い出す。
あれは、ただの見間違いか。消し忘れたと思い込んでいただけか。
それとも――。
◇
保健室のドアをノックして開けると、ひんやりとした空気と、薬品の匂いが鼻をかすめた。
ベッドが三つ。窓際には観葉植物。棚には救急セットやファイルが整然と並べられている。
椎名先生は、デスクの椅子に座って俺を迎えた。
「どうぞ。そこに座って」
丸椅子に腰を下ろすと、先生は眼鏡を少し上げて、俺の顔をまじまじと見た。
「具合はどう。頭痛とか、めまいとかはしてない?」
「大丈夫です。体育の授業もまだないですし」
「そう。じゃあ、本題に入るわね」
椎名先生は、机の上のファイルをぱらぱらとめくった。
そこには、生徒の健康記録が挟まっているらしい。
「昨日、図書室で、白凪さんと話していたでしょう」
「……見てたんですか」
「図書室の司書さんから報告が来たのよ。『あの子が、初めてちゃんとクラスメイトと話してました』って」
椎名先生は、嬉しそうに目を細める。
「私も、ちょっと嬉しくて」
「別に、大した会話じゃなかったですけど」
「篠森くん本人にとってはね。でも、彼女にとっては、大きな一歩だったと思う」
椎名先生の声には、白凪に対する特別な感情がにじんでいた。心配と、期待と、責任感が混ざったような色だ。
「まず、最初に言っておくわね。ここで話すことは、できるだけ簡単にするけど、それでも『秘密』にしてほしいの。白凪さんのこと」
「分かりました」
俺がうなずくと、椎名先生は少しだけ表情を引き締めた。
「白凪ゆきさんは、記憶にまつわる、ちょっと特殊な症状を持っているわ」
「一日で記憶がリセットされる、ってやつですよね」
「そこまで聞いているのね。彼女自身のノートから?」
「はい。本人が見せてくれました」
「そう。……彼女は、自分でも『記憶が一日ごとに途切れる』と説明しているけど、正確にはもう少し複雑なの」
椎名先生は、言葉を選びながら続ける。
「医学的な用語はここでは使わないけれど、とにかく、彼女は『エピソード記憶』に大きな問題を抱えている。昨日の出来事を、経験として思い出すことが難しいのよ」
「じゃあ、テスト勉強とか、どうやって」
「知識として覚えたことは、ある程度残るみたい。公式とか、単語とか。完全に何もかも忘れてしまうわけではない。でも、誰とどこで何をして、どんな気持ちになったか、という部分が、ぽっかり抜け落ちてしまいやすい」
それは、昨日彼女が自分で説明していた話と、大体一致していた。
だからこそ、毎朝ノートを読み返して、自分の輪郭を確かめている。
「学校としては、医師の診断書も踏まえて、できる範囲の配慮をしているわ。テスト時間の延長とか、重要な連絡事項の個別フォローとか。もちろん、クラス全員に詳細を説明することはできないから、『少し変わった事情のある転校生』という形でしか伝えていないけれど」
「それで、あんなふうに距離を取られてるわけですね」
「人は、よく分からないものに対しては距離を置くものだから」
椎名先生は、少しだけ寂しそうに笑う。
「でも、その中で、昨日初めてクラスメイトが彼女に近づいてくれた。それが、あなただった」
「……偶然ですよ」
「そうね。最初はきっと偶然だった。でも、彼女のノートには、あなたの名前が、『信じていい人』として書かれていた」
椎名先生は、じっとこちらを見る。
「それは、偶然にしておくには、惜しいことだと思わない?」
言葉の意味を咀嚼するのに、少し時間がかかった。
「……俺に、何をしてほしいんですか」
自分でも驚くくらい、ストレートな問いが口から出た。
椎名先生は、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「素直で助かるわ。そうね、要望は二つかな」
「二つ」
「一つ目は、彼女とこれからも話してあげてほしいということ。休み時間でも、放課後でもいい。無理に特別なことをする必要はないから、普通のクラスメイトとして、彼女と関わってあげて」
「普通、って難しいっすね」
「そうね。でも、あなたならできると思う」
椎名先生は、俺の健康記録のファイルを軽く叩く。
「あなたのことも、少しは知っているつもりよ。成績は優秀。提出物もきちんとしている。友人関係に問題なし。……ただし、少し『距離を置いて見ている』ところがある」
「健康記録にそんなこと書いてあるんですか」
「先生の観察メモにね」
にこりと笑って、椎名先生は続ける。
「だから、二つ目。これは、白凪さんのためでもあり、あなた自身のためでもあるかも」
「……なんですか」
「彼女の周りではね、ときどき妙に『物事が忘れられる』ことがあるのよ」
昨日頭をかすめた言葉と、同じフレーズだった。
「忘れられる、って」
「黒板に書いたはずの文字を、先生が覚えていない。昨日借りたはずの本を、図書室の貸出記録が示していない。そんな、小さな齟齬が、時々起きるの」
ぞわり、と背中を冷たいものが撫でていった。
黒板の左端の図解。俺以外の誰も、気にしていなかった違和感。
「もちろん、全部が全部、彼女のせいとは限らない。人間は誰しも、物事を忘れるものだもの。ただ、どうしても『彼女の近くで起きている』という印象が拭えない」
椎名先生は、言葉を選ぶようにゆっくりと喋る。
「だから、もしあなたがこれから彼女と関わる中で、何かおかしいと思うことがあったら。そのときは、遠慮なく私に教えてほしいの」
「おかしいこと」
「昨日までそこにあったはずのものが、急に『なかったこと』になっているとか。誰かが何かを忘れているとか。でも、あなたの頭はきっと、普通の人よりもずっとたくさんのことを覚えていられるのでしょう?」
その言い方には、軽い驚きと興味が混ざっていた。
「……何で、それを」
「保健室にも、噂ぐらいは届くのよ。『一度聞いたことは忘れない』とか、『テスト前にノートを見せてもらうなら篠森が一番』とか」
「そんな噂は初耳ですけど」
「匿名の評判って、なかなか本人には届かないものだから」
椎名先生は、わざとらしく肩をすくめて見せる。
「だからこそ、あなたにお願いしているの。私は、彼女のそばにずっといることはできない。でも、クラスメイトであるあなたなら、日常の中の小さな違和感に気づけるかもしれない」
「……それ、かなり重い役目じゃないですか」
「嫌なら、断ってもいいわ」
即答だった。
その潔さが、逆にずるいと思った。
「でも、白凪さんのノートに、あなたの名前が書かれたのは、私の意志じゃない。彼女自身が『信じていい』と判断した結果よ」
そう言われてしまうと、簡単には「嫌だ」とは言えなかった。
昨日ノートを見たときの感覚が、胸の奥でじわりと広がる。
自分の名前が、誰かのノートに書かれること。
それも、「信じていい人」として。
それが、どうしようもなく、嬉しかったのだ。
自分でも驚くくらいに。
「……分かりました」
俺は、小さく息を吐いてから答えた。
「できる範囲で、彼女のそばにいます。何かおかしいと思ったら、先生にも言います」
「ありがとう」
椎名先生の笑顔は、さっきよりも少しだけ温度が高かった。
「もし、あなた自身がしんどくなったら、そのときも遠慮なく来てちょうだいね。誰かの記憶を背負うのは、簡単なことじゃないから」
その言葉に、心臓が一瞬だけ強く脈打った。
父親が家を出ていった日の記憶。
親友だと思っていたやつに裏切られた日の記憶。
忘れたい記憶は、確かに重い。
でも――。
「大丈夫です。慣れてますから」
口が勝手にそう言った。
椎名先生は、「そう」とだけ答えて、俺を保健室から送り出した。
◇
教室に戻ると、ちょうどチャイムが鳴るところだった。
俺がドアを開けると、クラスメイトたちの視線が一斉にこちらに向く。中には、あからさまに「どうだった」と聞きたそうな目もあったが、誰も口には出さない。
「大丈夫だったか、篠森」
「変な病気とかじゃないよな」
「お前まで『忘れる側』になったらどうしようかと」
「そしたらテスト楽勝じゃね? 何も気にせずカンニングできる」
「お前らの発想どうなってんだよ」
適当に返事をしながら、自分の席に向かう。
途中で、白凪と目が合った。
彼女の机の上には、青いノートと、授業用のノートが並んで開かれている。
そのうちの青い方は、さっきまでと違うページになっていた。
ページの一番上には、大きくこう書かれている。
今日の篠森圭斗
その下に、箇条書きで文字が並んでいた。
朝教室で声をかけてくれた
私が覚えていないことに、少し傷ついた顔をしていた
でも、笑わなかった
話し方は丁寧。少しだけドライな感じ
でも、目の動きは優しい
ちらりと見えた行間に、俺の胸の奥がきゅっとなった。
そこに描かれているのは、俺自身のはずなのに、自分では意識していなかった部分ばかりだった。
俺がどんな表情をしていたか。
俺の目が、どんなふうに動いていたか。
俺は、人の細かい仕草をよく覚えているくせに、自分のことについてはほとんど考えたことがなかった。
それを、彼女は自分の言葉で記録している。
今日の俺を、明日の自分に伝えるために。
「……ノート、増えてるな」
思わず声が漏れた。
白凪は、はっとしたようにノートを少し閉じかけたが、すぐに手を止める。
「ごめん。勝手に、人のことを書いて」
「いや、別にいいけど」
いいけれど、と言いながら、鼓動が少しだけ早くなる。
「それ、何のページだよ」
「今日のあなたの、覚え書き」
白凪は、少し照れくさそうに言う。
「昨日のノートだと、あなたのこと『多分、信用していい』ってしか書いてなかったから。今日の私がどう感じたか、ちゃんと残しておきたくて」
「残すって」
「明日の私は、今日のあなたを覚えていないかもしれない。だから、そのときにこのページを読めば、『今日の私がどう感じたか』が分かるでしょう」
彼女の言っていることは、理にかなっている。
頭では分かる。
でも、そのたった数行の文字が、俺の中にとんでもない破壊力を持って響いてきた。
誰かの記憶の中に、自分が具体的な形を持って残ること。
それも、「優しい」とか、「声をかけてくれた」とか、そういう言葉で。
それが、こんなにも重くて、嬉しいものだとは思わなかった。
「……じゃあさ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「そのページ、俺にも見せてくれよ。全部」
「え」
「俺がどう書かれてるのか。気になるだろ、普通」
「普通って」
白凪は、困ったように笑う。
「でも、恥ずかしいよ。私の感想ノートなんて」
「こっちだって、かなり恥ずかしいけど」
そう言いながら、俺はスマホを取り出した。
「代わりに、俺のも見せてやるよ」
「……え」
「昨日の図書室のこと。俺のメモ帳に、そのまま写してるから」
画面を開き、「白凪ゆき」とタイトルの付いたメモを表示させる。
そこには、彼女のノートの文章と、俺の印象が細かく書き込まれていた。
私は記憶が一日ごとにリセットされる
毎朝、このノートを読んで、自分が自分であることを思い出している
信用していい人リスト
椎名先生 保健室の先生 信頼できそう
篠森圭斗 授業中に困ってる子をさりげなく助けていた 多分、信用していい
そして、俺の付け足した一文。
ノートを書いているときの表情は、真剣そのもの。あれを冗談でできる人間はいない
「ちょっと、これ」
白凪は、目を丸くした。
「私のノート、丸コピーじゃない」
「俺の特技をなめるなよ。一度読んだものは、大体このくらい再現できる」
「さらっと怖いこと言わないで」
そう言いながらも、彼女は画面から目を離せないでいた。
「……ねえ」
白凪は、ゆっくりと顔を上げる。
「私たち、なんか似てるね」
「似てる」
「うん。私が『忘れる側』で、あなたが『覚えてしまう側』だけど。どっちも、自分の記憶を信じきれなくて、ノートやメモに頼ってる」
その指摘に、思わず言葉を失う。
確かに俺は、自分の記憶を信じているようで、信じ切れていなかった。
全部覚えているからこそ、「本当にそうだったのか」と何度も自分の頭の中を巻き戻して確認する癖がついている。だからこそ、ノートに写して、第三者の視点で自分を見ようとしている。
白凪の「取扱説明書」と、俺のメモ帳。
用途は違うけれど、目的は似ているのかもしれない。
「だったら、さ」
白凪は、ノートをこちらに少し動かす。
「交換しない?」
「交換」
「あなたのメモと、私のノートのこのページ。お互いに、今のところの『印象』を見せ合う。……嫌じゃなかったら、だけど」
言いながら、彼女の指先は微かに震えていた。
それが緊張からなのか、期待からなのかは分からない。
でも、その提案は、俺の中の何かを大きく揺らした。
誰かに、自分の記憶の中身を見せること。
誰かの記憶の中にいる自分を見ること。
それは、俺にとってずっと避けてきたことだった。
忘れられない記憶を持つ自分を知られたくなかったし、その上で嫌われるのが怖かった。
でも今、目の前にいるのは、昨日の俺を知らない彼女だ。
昨日の失敗も、昨日の卑怯さも、彼女には届いていない。
そして、彼女自身もまた、昨日の自分を知らない。
俺と彼女は、お互いにとって「今日がはじまり」だ。
「いいよ」
だから、俺はうなずいた。
「そこまで言われて断ったら、男が廃る」
「男とか気にするタイプなんだ」
「ちょっとはな」
スマホを彼女に渡し、代わりにノートを受け取る。
ページいっぱいに、俺のことが書かれている。
今日の篠森圭斗
朝、おはようと声をかけてくれた
私が『どちら様でしたっけ』と聞いたとき、少しだけショックを受けた顔をしていた
でも、怒らなかった
昨日の自分を責めるより、今の私に合わせようとしてくれている感じがした
話し方は落ち着いている。よく人の話を聞いてから答える
読み進めるほどに、ページが重くなっていく気がした。
こんなふうに、自分を見ている誰かがいる。
その誰かが、明日の自分に「この人はこういうふうに優しかったよ」と伝えようとしている。
その事実が、胸の奥のどこかに、熱を生んだ。
「どう」
スマホを見ていた白凪が、おそるおそる尋ねる。
「変なこと、書いてない?」
「まあ、変っちゃ変だけど」
「変なんだ」
「でも、嫌じゃない」
それは、嘘じゃなかった。
忘れられない記憶ばかりを抱えてきた俺にとって、「誰かにとっての、自分の記憶」がこうして見える形になるのは、初めての経験だった。
椎名先生は、「誰かの記憶を背負うのは簡単じゃない」と言っていた。
でも、今こうして白凪のノートのページを見ていると、別の感情も芽生えてくる。
誰かの記憶の中に、きちんと残る自分でありたい。
忘れられないだけの存在じゃなく、「忘れたくない」と思ってもらえる自分で。
そんなことを、人生で初めて、ちゃんと言葉に近い形で意識した。
◇
窓の外の空は、相変わらず薄い灰色だった。
でも、教室の中の色は、少しだけ違って見えた。
俺の頭の中にも、彼女のノートにも、今日の「篠森圭斗」と「白凪ゆき」が、確かに刻まれた。
彼女は昨日の私を知らない。
俺は昨日の彼女を、全部覚えている。
そのアンバランスさは、きっとこの先も続いていく。
でも、それでもいいと思えた。
彼女にとって、俺が「信じていい人」であり続ける限り。
そして俺にとって、彼女が「忘れられない人」になっていく限り。
この面倒くさくて、どうしようもなく青春じみた関係は、きっと簡単には終わらない。
第3話「放課後デビュープロジェクト」
昼休みの教室は、いつもより少しだけざわついていた。
机を動かして弁当を広げるグループ。コンビニパン片手にスマホをいじるやつ。廊下に出ていく運動部組。そんな中で、ひときわ浮いている席が一つある。
窓側、後ろから二番目。
白凪ゆきは、今日もそこに座っていた。
机の上にはコンビニのおにぎりが一つと、青いノート。おにぎりの包装は、まだ開けられていない。白凪はペンを持ち、ノートに何かを書き込んでいた。
その周りに、目に見えない半径一メートルの結界が張られているみたいだった。
そこだけぽっかりと空間が空いていて、誰も近づこうとしない。
「ねえねえ、見た? 今日もやってる」
「やば。自分で自分のプロフィール書いてるんでしょ。昨日の話、全部忘れるから」
「ガチで? ドラマじゃん」
「でもさあ、昨日仲良く喋ってたのに、今日『どちら様でしたっけ』って言われたら、普通に無理じゃない?」
「それな。私だったら泣く」
「てか怖くない? 自分との会話だけ、毎日リセットされるんだよ?」
「ホラーだよね」
女子たちの声は、驚くほどよく通る。
小さく抑えているつもりなんだろうけど、耳が勝手に拾ってしまう。内容まで一字一句、頭に刻まれていく。
「無理」「怖い」という単語だけが、やけに濃く残った。
白凪の席は、彼女たちから少し離れた位置にある。本人に聞こえているかどうかは分からない。でも、クラス全体に広がる空気は伝わっているはずだ。
俺は自分の弁当箱を開けたまま、箸を持つ手を止めていた。
「……なあ、篠森」
向かいの席でご飯をかき込んでいた男子が、口をもぐもぐさせながら小声で言った。
「お前、昨日、白凪と話してたよな」
「見てたのか」
「まあな。図書室でさ。なんか真面目な顔して向かい合ってたから、付き合い始めたのかと思ったわ」
「どんなスピード感だよ」
「で、どうなん。今日も覚えられてなかった感じ?」
核心を突くな、この男は。
さっきの朝の会話が、鮮明に蘇る。
どちら様でしたっけ、と首をかしげた白凪の顔。ノートを慌てて開いて、自分で書いた文字を一気に読み込む様子。それから、「昨日の私が信じていいって言ってるから」という、ぎこちない笑顔。
「……覚えてなかったよ。きれいさっぱり」
「マジか。きっつ」
友人は、正直な感想を漏らした。
「俺だったら心折れるわ。昨日どんな会話してても、『初対面ですよね?』って言われたら、二度と話しかけない自信ある」
その「二度と」という言葉が、やけに重かった。
教室の端では、噂好きの女子たちがまだ盛り上がっている。
「あ、見て。今日のおにぎり、昨日と同じやつじゃない?」
「マジでルーティンなんだ。毎日同じことして、毎日忘れるってさあ……」
「リセットされる人生とか、ゲームじゃないんだから」
「いや、ゲームだとしてもハードモードすぎるでしょ」
笑い混じりの言葉が、刃物の先みたいに耳に刺さる。
俺は弁当箱のふたを閉じた。
「お、おい。もう食わねえの?」
「腹は減ってるけど、後で食う」
「何それ。ダイエット?」
「黙れ」
席を立つ。
視線がいくつか、こちらを追ってくるのが分かった。興味と、好奇心と、少しの野次馬根性。
それらをまとめて無視して、俺は白凪の席まで歩いていった。
「白凪」
声をかけると、白凪はペンを止めて顔を上げる。
大きな瞳が、びくりと揺れた。
「……あ。えっと、おはようございます?」
「もう昼だ」
「そうだった。こんにちは、だ」
少しだけずれた挨拶に、変な笑いがこみ上げる。
けれど、笑っている場合じゃなかった。
「ちょっと、来い」
「え」
「話がある。ここじゃなくて」
俺は、彼女の机に片手をついて、身を屈める。
白凪の視線が、一瞬だけ周りを泳いだ。噂話をしていた女子グループと目が合い、すぐに逸らす。
その肩が、ほんの少し縮こまるのが見えた。
「い、今から?」
「今から」
「おにぎり、まだ食べてないんだけど」
「持ってけ。それごと」
「屋上、飲食禁止じゃない?」
「階段の踊り場でもいい。とにかく、ここじゃない所」
ぐだぐだ言ってる暇はなかった。
このままクラスの中に置いておいたら、彼女はじわじわと漂白されていく。誰の記憶にもちゃんと残らないまま、「例の変わった転校生」というラベルだけが固定されてしまう。
それが、どうしても嫌だった。
「……分かった」
白凪は、おにぎりとノートを鞄にしまい、小さくうなずいた。
「連れて行って」
◇
屋上へ続く階段の前には、「立入禁止」の札がぶら下がっている。
けれど、この学校では、実質的には「自己責任でどうぞ」に近い扱いだった。鍵がかかっているわけでもない。風紀委員に見つかれば軽く注意される程度だ。
俺と白凪は、札をくぐって階段を上がる。
屋上のドアを押し開けると、湿った風が顔を撫でた。
曇り空の下、コンクリートの床と金網のフェンスが広がっている。誰もいない空間。遠くから体育館の歓声がかすかに聞こえるだけだ。
「わあ」
白凪が、小さな声を漏らした。
「初めて来たか?」
「うん。そもそも、校舎の二階より上にあんまり来たことがないから」
「どういう生活スタイルだよ」
「教室と、保健室と、図書室と、トイレぐらい」
限られた動線。世界そのものが狭い。
俺はフェンス際まで歩いて、振り返った。
「ほら、そこ座れ」
屋上の片隅にある古いベンチを顎で示す。
白凪は素直に従い、ベンチに腰を下ろした。鞄からおにぎりを取り出し、包装をびりっと開ける。
梅おかか。
昨日と同じ味だ。
その規則正しさに、少しだけ胸が締め付けられる。
「で、連れてこられた理由を教えてもらってもいい?」
おにぎりにかぶりつきながら、白凪は首をかしげる。
「怒られるのかな、私」
「怒らねえよ」
「じゃあ説教?」
「それも違う」
言いながら、何から切り出すべきか迷う。
頭の中では、さっきの女子グループの会話がリピート再生されていた。
怖い。無理。ホラー。
白凪本人の耳には届いていなくても、あの言葉たちは、確実にクラスの空気を少しずつ変えている。
このまま放っておけば、彼女は「触れちゃいけない存在」になってしまう。
それが、嫌だった。
「……なあ、白凪」
「うん」
「お前さ、自分のこと、怖いと思うか」
「え」
おにぎりを持つ手が止まる。
「自分が毎日昨日のことを忘れるっての、怖いって思ってるかどうか」
「それは」
白凪は、しばらく黙った。
曇り空を見上げ、フェンスの向こうの街並みに視線を投げ、それから手の中のおにぎりに視線を落とす。
「……正直に言えば、怖いよ」
ぽつりとこぼした声は、風にすぐ持っていかれそうなくらい小さかった。
「毎朝起きるたびに、『今日は何を忘れてるんだろう』って考える。目が覚めて、頭の中が真っ白な感じがして。そこにこのノートの情報だけが、どさっと落ちてくるの」
鞄から青いノートを取り出し、表紙を撫でる。
「ノートさえあれば、『私はこういう人間なんだ』って分かる。でも、ノートすらなかったら、私は私じゃなくなる。そういう想像をするときが、一番怖い」
「だよな」
「でもね」
白凪は、少しだけ笑う。
「一番怖いのは、自分が怖がられてることを、覚えていられないことかも」
「……どういう意味だ」
「さっき、教室でね。なんとなく、空気が変だなって思ったの。みんな、私のことちらちら見てるのに、誰も近づいてこない感じ」
ちゃんと見えていたのか。
「前にも似たことがあった気がするの。転校先の学校で、最初は普通に話しかけてもらえてたのに、いつのまにか距離を取られるようになってた。きっと私が何回も『どちら様でしたっけ』ってやったから」
「……」
「でも、その過程を私は覚えていない。気づいたときには、もう距離ができてる。どうしてそうなったかも分からない。きっと、何回も同じことを繰り返してきたんだろうなって、想像だけが増えていく」
言葉を重ねるごとに、彼女の声は少しずつ掠れていく。
「だから、怖いよ。怖くないって言ったら嘘になる。でも」
「でも?」
「怖いって感情も、明日になったら薄れてるかもしれないんだよね」
白凪は、自嘲気味に笑った。
「私の感情は、私だけのものなのに、続きがない。昨日の私がどんなことを考えて、何を怖がっていたか、私は知らない。知ってるのは、ノートに書かれた、箇条書きの事実だけ」
その言い方に、俺の胸の中の何かがきしんだ。
俺は逆だ。
一度抱いた感情は、いつまでも薄れない。時間が経っても、色褪せない。嫌な記憶も恥ずかしい記憶も、全部そのまま残る。
だからこそ、人と距離を取ってきた。
「だからさ」
口が勝手に動いていた。
「一個、提案がある」
「提案?」
「名付けて、『放課後デビュープロジェクト』」
「なにそれ、いきなりタイトル感強い」
白凪がぽかんとする。
自分でも、何を口走っているのか分からなくなりそうだったが、もう引っ込められない。
「お前が毎日記憶リセットされるって前提は変えられない。医者にも学校にもできないことだ。俺にも、きっと無理だ」
「うん」
「でも、その中身は変えられるかもしれない」
「中身?」
「『何を忘れるか』じゃなくて、『何を書き残すか』の話だ」
俺はベンチの背にもたれ、フェンス越しに空を見上げる。
「今のお前のノートってさ、『私は白凪ゆき』『二年A組』『信じていい人』って、最低限のプロフィールと、今日起きた出来事が箇条書きで並んでるだろ」
「うん。効率重視」
「それをさ、もっとこう……楽しくしてみないか」
「楽しく」
「例えば、毎日、『今日の自分が楽しかったと思えるイベント』を必ず一つ作る。それをノートにしっかり残す」
「イベント」
「そう。放課後に何か新しいことをするとか、昼休みに誰かと一緒にご飯食べるとか。なんでもいい。『今日の私、けっこう楽しそうだったぞ』って、明日の自分が読んで思えるような一行を、必ず作る」
言いながら、自分でもそれがどれだけ無茶な提案か分かっていた。
記憶がリセットされる日々の中で、毎日イベントを用意しろなんて。俺が同じことを言われたら、面倒くさすぎて断る。
でも、白凪は「普通の放課後」をほとんど知らない。
教室と保健室と図書室しかない世界で、その日の終わりにノートを開き、「今日も何もなかった」と書くしかない日々。
それが、どうしても嫌だった。
「それってさ」
白凪は、少し考えるように視線を宙に泳がせる。
「毎日、無理やり楽しそうなことを探すってこと?」
「無理やり、って言い方するとアレだけど」
「でも、楽しそうではある」
ぽつりと言って、彼女はふっと笑った。
「少なくとも、今の私のノートよりは、カラフルな感じがする」
「だろ」
「でも、どうやってそんなイベント作るの?」
「それはこれから考える。俺と……まあ、誰か協力してくれるやつがいればそいつも巻き込んで」
「協力者」
「例えば、クラスの誰かとか」
「クラスの誰か……」
そこで、白凪の表情が少し陰る。
「でも、私、クラスの人が何を話してるか、ちゃんと覚えていられない」
「ノートに書けばいいだろ」
「書く前に忘れたら?」
「じゃあ、そのときは俺が覚えてる。そういうのは得意分野だから」
思い切って言い切った。
「お前が『忘れる側』なら、俺は『覚えてしまう側』だ。だったら、その特性を組み合わせれば、ちょっとはマシな世界にできるかもしれない。……ってのが、俺なりの策」
「策」
「そう。名付けて、『放課後デビュープロジェクト』」
二度目の命名。
白凪は、しばらく黙って俺の顔を見つめていた。
風が吹いて、彼女の髪が少し揺れる。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……今日の私、けっこう楽しそう」
「え」
「だって、こんな提案されるの、初めてだもん」
そう言って、白凪は笑った。
どこかぎこちなさの残る笑顔だったけれど、そこにはさっきまでの陰りはなかった。
「いいよ。そのプロジェクト、参加する」
「即決か」
「だって、明日の私はどうせまた『知らない』状態からスタートするんでしょ。そのときにこのノートを読んで、『今日の私は放課後デビューしたんだ』って知るわけでしょ」
「まあ、そうなるな」
「それって、ちょっと面白そうじゃない?」
その一言に、俺は不意を突かれたみたいに笑ってしまった。
「だな」
「で、具体的には何をすればいいの?」
「まずは、形から入ろう」
「形?」
「ノートだよ。今のそれ、ただのメモ帳みたいだろ」
「効率重視だからね」
「それを、『人生ログ』にカスタマイズする」
「人生ログ」
白凪は、その単語を面白そうに繰り返した。
「いいね、響きが中二病っぽい」
「褒めてんのかそれ」
「褒めてる。たぶん」
「じゃあ放課後、文具店行くぞ」
「文具店」
「シールとか、色ペンとか、マスキングテープとか、そういうの適当に買って、お前のノートを見た目から可愛くしてやる」
「可愛く」
白凪は、自分の青いノートを見下ろす。
今のノートは、機能一点張りの無駄のないデザインだ。そこにシールを貼って、カラーペンで見出しを書いて、日付ごとにページを区切る。
それだけで、「生きるための取扱説明書」が、「生きてきた証」になるかもしれない。
「……なんか、わくわくしてきた」
白凪は、そう呟いた。
「ありがとう。今日の私は、放課後デビューする」
◇
放課後。
予鈴が鳴り終わり、ホームルームが締めくくられると、教室から一斉に生徒たちが飛び出していった。
部活へ向かうやつ。駅へ直行するやつ。友達とたむろするやつ。
その中で、俺と白凪は、教室の片隅で待ち合わせをしていた。
「お待たせ」
「別に待ってない」
「でも、こういうときに『お待たせ』って言うんでしょ」
「まあ、間違ってはない」
白凪の鞄からは、青いノートの端が顔を覗かせている。
教室の出入り口まで歩いていくと、廊下の向こうから、ひときわ明るい声が飛んできた。
「あ、圭斗じゃん。珍しい。部活行かないの?」
長いポニーテールを揺らしながら近づいてきたのは、雨宮空良だった。
同じクラスで、バスケ部のムードメーカー。誰とでも気軽に喋れるタイプの女子だ。
「今日はオフ」
「へえ、レア。……って、あれ? 白凪さんも一緒?」
空良の視線が、俺の隣にいる白凪に向く。
白凪は、少し肩を竦めながら会釈した。
「こ、こんにちは」
「こんにちはー。なんか意外な組み合わせだね、その二人」
「そうか?」
「そうだよ。圭斗は『一人で生きていける男子ランキング』上位で、白凪さんは『話しかけるタイミング分からない女子ランキング』上位だもん」
「いつそんなランキング集計したんだよ」
「私の脳内アンケート」
空良はケラケラ笑ってから、興味津々といった顔になる。
「で、どこ行くの? 二人で」
「文具店」
即答すると、空良は目を丸くした。
「渋っ。デートスポットとしては渋すぎない?」
「デートじゃない」
「プロジェクトの一環」
白凪が、真面目な顔で言った。
「放課後デビュープロジェクト」
「なにそれめっちゃ楽しそうなワード出てきたけど」
空良の目がきらっと光る。
「ねえ、それ、私も参加しちゃダメ?」
「え」
俺と白凪の声が、見事にハモった。
「いや、だってさ」
空良は両手を広げる。
「白凪さんが放課後デビューするんでしょ? だったら、陽キャ代表として立ち会わないと」
「自分で言うな、陽キャ代表」
「謙虚さは持ち合わせてないんだ、私」
空良は悪びれず笑う。
「どう? 圭斗。三人の方が、青春イベントっぽくない?」
「……まあ、確かに」
二人きりで文具店に行ってシールを選ぶ絵面を想像し、急に顔が熱くなる。
それに比べれば、空良が一人増えた方が、だいぶ健全だ。
「白凪は?」
「えっと」
白凪は、少し戸惑ったように空良の顔を見た。
「雨宮さんと、私、ちゃんと話すの初めてだと思う」
「だね。私は勝手に喋ってたけど」
「怖くない?」
「何が」
「私と一緒にいても。忘れられて、その……何回も自己紹介しなきゃいけなくなるかもしれないのに」
その問いに、空良は少しだけ目を丸くしたあと、肩をすくめた。
「まあ、そういうこともあるかもね」
あっさり認めた。
「でも、それってさあ、『何回も自己紹介できる』ってことでもあるじゃん」
「え」
「私、初対面の人と話すの、結構好きなんだよね。同じ人に何回も初対面できるって、ちょっとレアで面白そうじゃない?」
「……変わってるね」
「よく言われる」
空良は笑って、白凪の肩を軽く叩く。
「あとさ、忘れられても、こっちが覚えてればそれでよくない? 私が『昨日も一緒にいたよ』って思えてれば、それで充分じゃん」
その言い方は、驚くほどあっけらかんとしていた。
そこに、怖がりとか、引き気味とか、そういう感情は一切なかった。
「というわけで、参加表明します。放課後デビュープロジェクト、私も混ぜてください」
「……どうする?」
白凪が俺を見る。
「圭斗」
「俺に決定権あるのか、それ」
「発案者だから」
変なところで責任を押しつけられる。
でも、悪くない流れだった。
「じゃあ、歓迎する。雨宮、今日からお前もメンバーだ」
「やったー。青春っぽい」
空良は両手を上げて喜んだ。
◇
学校の近くの商店街に、小さな文具店が一軒ある。
昔からやっているらしく、外観は少し古い。でも、店内には今どきのキャラクターグッズやおしゃれな文具も並んでいて、意外と品揃えは悪くない。
「うわ、懐かしい匂いする」
店に入った瞬間、空良が声を上げた。
紙とインクと、少しの埃の匂い。俺にとっては、図書室とそう変わらない安心する匂いだ。
「じゃあ、まずはシールからだな」
「さすが分かってる。ノートデコの基本はシールだよ」
空良は、シールコーナーにまっすぐ向かった。棚には、丸シール、星形シール、動物のキャラクターシール、英字ロゴシールなどが所狭しと並んでいる。
「白凪さん、どんなのが好き?」
「えっと……」
白凪は、少し戸惑いながら棚を眺めた。
どれもこれも、彼女のノートには似合わないようで、似合うようでもある。
青いノートのシンプルさは、それはそれで完成されていた。でも、そこに色を足すことを、彼女は楽しめるだろうか。
「こういうシンプルなのもいいよ」
俺は、透けるタイプのドットシールを指さした。
「日付の横に貼ったり、その日の気分で色変えたりできる」
「いいね、それ」
「あと、こういうの」
空良は、猫の絵が描かれた小さなシールセットを手に取る。
「可愛すぎるのは苦手?」
「……可愛いの、嫌いじゃない」
白凪は、猫シールをじっと見つめた。
「この猫、私よりちゃんと毎日覚えてそう」
「猫に記憶力負けないで」
空良のツッコミに、思わず笑いがこぼれる。
「じゃあ、ドットシールと猫シール。あと、何かアクセントになるやつ」
「マスキングテープもいいよ。ページの区切りに貼れるし」
「それ、いい」
俺たちは、あれこれ言いながらシールやマステを選んでいった。
カゴの中に、色ペンのセットも追加する。黒一色だったノートに、少しずつ色が加わっていく未来を想像すると、胸の中が少し温かくなる。
「なんかさ」
会計を待っている間、空良がぽつりと言った。
「こういうの、普通の女子高生っぽくない?」
「普通の女子高生」
白凪が、小さく繰り返す。
「放課後に友達と文具店寄って、『どのシールにする?』って悩むの。漫画とかドラマだと当たり前にあるけど、実際にやると意外とないんだよね」
「空良は毎日どっか寄ってそうだけど」
「部活があるからね。放課後満喫してそうに見えて、案外直帰コースよ?」
そんな会話をしているうちに、会計が終わった。
◇
「せっかくだからさ」
商店街を歩きながら、空良が指を伸ばした。
「プリクラ撮っていかない?」
「今時プリクラってまだあるんだな」
「失礼な。あるわ。うちのバスケ部、試合の後とかみんなで撮るし」
指さす先には、小さなゲームセンターがあった。外からでも、プリクラ機のピンク色のフレームが見える。
「ど、どうしよう」
白凪は、少し不安そうに俺を見上げる。
「プリクラとか、撮ったことない」
「じゃあ、初めての放課後イベントにはちょうどいい」
「だな」
俺と空良は、顔を見合わせた。
「じゃあ行こう。今日のイベントに認定」
「認定された」
ゲームセンターに入ると、音楽と電子音が一気に押し寄せてくる。プリクラ機のブースは、女子高生グループで賑わっていた。
「うわ、人多い」
「人気機種はこれだな」
空良は、慣れた様子で別のプリ機に案内する。
「こっちはちょっと空いてる。顔盛れるし」
「顔盛れるって何」
「女子の秘密」
空良はウインクして、ブースのカーテンをめくった。
「圭斗、料金入れて」
「なんで俺が出す前提なんだよ」
「男子たるもの、初プリは奢りでしょ」
「そんな慣例初耳だわ」
文句を言いつつ、小銭を投入する。画面にタイマーが表示され、撮影が始まる。
「せーの、はいチーズ」
一枚目。三人で並んで笑う。
「次、変顔いくよ」
二枚目。空良が変顔をし、つられて俺も中途半端な顔になる。白凪は、ギリギリまで普通の笑顔を保とうとして結果よく分からない表情になった。
「ラストは真面目に。放課後デビュー記念!」
三枚目。空良がピースサインを掲げ、白凪はノートを胸に抱え、俺は親指を立てた。
画面の中の自分たちは、どこからどう見ても普通の高校生だった。
記念すべき「初プリ」としては、上出来だ。
「仕上がり楽しみだね」
「なあ」
印刷を待ちながら、白凪が呟く。
「明日の私は、このプリクラのことも忘れてるのかな」
「物としては残るだろ」
「そうだけど。撮ったときの気持ちとか、『初めてプリクラ撮った』っていうワクワクとか。そういうのは、ノートに書いておかない限り、きっと思い出せない」
言いながら、彼女は少しだけ目を伏せる。
「でも、今日の私は、ちゃんと覚えてる」
その言い方に、はっとした。
さっきまで「忘れる」側として話していた彼女が、「覚えてる」側として言葉を紡いでいる。
「だから、ちゃんと書くよ。今日の私が感じたこと」
プリクラ機から、ガガガと音を立ててシートが出てきた。
空良がそれを受け取り、三人で覗き込む。
「おお、盛れてる盛れてる」
「変顔のやつひどいな」
「白凪さん、意外と表情豊かじゃん」
「や、やめて」
自分の顔が紙の上に並んでいるのを見て、白凪は照れくさそうに頬を染めた。
「この一枚は、ノートの一番後ろに貼りなよ」
「一番後ろ?」
「うん。人生ログの『表紙の裏』みたいな感じで」
空良の提案に、白凪はこくりとうなずいた。
◇
プリクラを分け合ったあと、三人は駅前の小さなカフェに入った。
学生にも優しい価格のドリンクメニュー。制服姿のままの客も多い。
「うわ、放課後にカフェとか、マジ女子高生」
「お前はいつもどこで生きてる設定なんだよ」
ツッコミを入れつつ、俺はアイスコーヒーを頼む。
白凪はホットティー、空良は期間限定のいちごミルクフロートを選んだ。
席について、ドリンクが運ばれてくる。
「いただきます」
三人でストローをくわえたり、カップに口をつけたりする。
「どう、白凪さん」
空良が尋ねる。
「初めての『普通の放課後』の味は」
「……ちょっと甘い」
白凪は、ティーカップを両手で包み込みながら笑った。
「でも、悪くない」
「それはよかった」
会話は他愛もないことばかりだった。
授業の愚痴。カワタツの今日のダジャレがどれだけ滑っていたか。体育祭の練習がだるい話。バスケ部の最近の試合のこと。空良がハマっている動画配信者の話。
白凪は、最初こそ聞き役に徹していたが、少しずつ自分からも話すようになっていった。
「私、家帰ったらまずノート読むから、アニメとかほとんど見たことないんだ」
「マジで。人生損してるよ」
「そんなに?」
「うん。今度家で一緒に見よう。ノートに『初めてアニメ一気見した』って書きなよ」
「それ、楽しそう」
そのやり取りを横で聞きながら、俺は妙な感覚を覚えていた。
この光景は、俺の頭の中に、一生消えない形で刻まれる。
でも、白凪の中では、今日の出来事は、明日には「ノートの中の一行」になる。
それでも、今この瞬間、彼女は確かに笑っている。
それだけで、十分だと思えた。
◇
カフェを出て、駅へ向かう帰り道。
街灯が少しずつ灯り始めている。曇り空は濃い灰色に変わり、風が冷たくなってきた。
「じゃあ、私こっちだから」
空良が駅とは反対方向の道を指さす。
「今日はありがとう。めっちゃ楽しかった」
「こっちこそ。いろいろ助かった」
「またやろうね。放課後デビュープロジェクト第二弾」
「……うん」
白凪は、少し照れくさそうに笑ってうなずいた。
「雨宮さんのこと、ノートに書く」
「やった。名前、漢字間違えないでね」
「頑張る」
そう言って笑いあい、空良は手を振って走り去っていった。
残された俺と白凪は、並んで駅まで歩く。
夕方の人混みの中、制服姿の高校生たちがあちこちにいる。笑い声や話し声が、風に乗って流れていく。
ふと、白凪の足が止まった。
「……どうした」
俺も立ち止まり、彼女の顔を覗き込む。
白凪は、前を見たまま、小さく呟いた。
「明日、この人たちのことを覚えていないのが、ちょっと嫌だなって」
その言葉は、あまりにも自然に出てきたように聞こえた。
本人も驚いたのか、自分で言った直後、目を見開いていた。
「……あれ、今、私、何て言った?」
「『覚えていないのが嫌だ』って」
俺はゆっくりと言葉をなぞる。
「雨宮のことと、俺のことだろ」
「……うん」
白凪は、自分の胸に手を当てた。
「変だな」
「何が」
「忘れるのは、もう慣れてるはずなのに。自分でもびっくりするぐらい、『嫌だ』って思ってる」
その表情は、戸惑いと、ほんの少しの喜びが混ざっていた。
「でも、きっと明日になったら、この『嫌だ』って気持ちも薄くなるんだろうね」
「かもしれないな」
「でも」
白凪は、ぎゅっと鞄の肩紐を握りしめた。
「ノートに書いておけば、明日の私は知るよね。『今日の私は、空良さんと圭斗と一緒にいて、明日この人たちのことを覚えていないのが嫌だと思った』って」
その一文が、どれだけの重さを持つか、彼女はまだ知らない。
でも俺は、分かってしまった。
俺の中で、何かが決定的に変わったのを自覚する。
今までは、「可哀想な転校生」を放っておけないという、半分は義務感みたいなものだった。
椎名先生に頼まれたから。俺が覚えていられるから。そういう理由で、彼女のそばにいようと思っていた。
でも今は違う。
彼女が「忘れたくない」と思った瞬間を、俺は見てしまった。
その瞬間に立ち会ってしまった。
だったら、その「忘れたくない」を、できるだけたくさん作ってやりたい。
そのためなら、俺の過剰な記憶力ぐらい、いくらでも使ってやる。
「……白凪」
「なに」
「今日のこと、全部書いとけよ」
俺は、なるべく軽い口調で言う。
「文具店行って、シール選んで、プリクラ撮って、カフェ寄って。雨宮に変なこと言われたのも含めて」
「変なことって失礼」
「あと、『明日覚えてないのが嫌だ』って思ったこともな」
「それも、書く」
白凪は、強くうなずいた。
「今日の私は、少しだけ幸せだったって、ちゃんと書く」
その言葉に、胸がきゅっと鳴った。
駅の改札前で、俺たちは足を止める。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
そう言って別れた。
彼女は明日、俺のことを覚えていないかもしれない。
でも、今日の彼女は、明日の自分に「この人たちのことを忘れたくない」と伝えようとしている。
それだけで十分だと思った。
◇
その夜。
白凪ゆきは、自分の部屋の机の前に座っていた。
青いノートは、もう「青いだけのノート」ではなかった。
ページの端にはドットシールが貼られ、猫のシールがところどころに跳ねている。ページの上部には、マスキングテープで日付が区切られ、「放課後デビュープロジェクト 一日目」と書かれていた。
プリクラの一枚は、ノートの一番後ろのページに丁寧に貼られている。
三人で笑っている写真。
その写真を見つめながら、白凪はペンを握った。
今日あったこと。
放課後、圭斗と空良さんと文具店に行った。
シールとマスキングテープと色ペンを買った。
プリクラを初めて撮った。
カフェで甘い紅茶を飲んだ。
文字を一つずつ並べていく。
そして、ページの最後の行に、小さくこう書き添えた。
今日の私は、少しだけ幸せだった。
書き終えると、胸の中のざわざわが、少しだけ静かになった。
「……おやすみ、今日の私」
そう呟いて、白凪はノートを閉じた。
そのページは、明日の彼女にとって「知らない誰かの思い出」になるかもしれない。
でも、それを読んだ明日の彼女は、きっと同じように笑おうとするだろう。
その未来を思い描きながら、白凪は静かに目を閉じた。
第4話「刻印の数字」
体育の授業の日は、朝から空気がざわつく。
男子は男子で、「今日シャトルランじゃね」とか「持久走マジ無理」とか騒ぎ、女子は女子で「髪結んで」「ゴム持ってる?」と更衣室に消えていく。
二時間目の予鈴が鳴ったときも、教室はいつもの体育日前の慌ただしさに包まれていた。
「白凪さーん、更衣室行こ」
「うん」
女子たちの固まりの中に、少し浮いた存在として白凪ゆきがいた。
彼女は青いノートをそっと鞄にしまい、体育ジャージの入った袋を手にして、女子更衣室へ向かう。
その背中を、何人かの視線が追っていた。
面白がる目。怖いもの見たさの目。距離感を測っている目。
俺はそれらを、席に座ったまま全部見ていた。
見たくなくても、見えてしまう。
視線の動きも、口の動きも、ひそひそと交わされる言葉も、全部。
◇
女子更衣室の扉が閉まると、むっとした空気と柔軟剤の匂いが押し寄せてきた。
「暑っ」
「窓開けてー」
何人かが文句を言いながら、制服のボタンを外していく。
白凪は、人の少ない隅のロッカーの前に立ち、ネクタイをほどいた。ブラウスのボタンを上から外し、ジャージの上を取り出す。
「ねえ」
ふいに、後ろから声がした。
「白凪さん、首、なんか光ってない?」
「え?」
白凪は思わず振り向く。
声をかけてきたのは、同じクラスの女子だった。髪をひとつにまとめながら、じっと白凪の鎖骨のあたりを見つめている。
その視線の先に、何人かの女子の目も集まった。
「ほんとだ。なんか、キラッてしてない?」
「ラメとかじゃないよね」
「タトゥーシール?」
「そんなの貼ってないよ」
白凪は、慌ててロッカーの扉の内側の鏡を覗き込む。
鎖骨の少し上。ブラウスの襟元からのぞく肌のところに、何かがあった。
薄く光る、数字のようなもの。
20
見間違いじゃなかった。
細いペンで書いたような、でもインクとは違う、内側からぼんやり光っているような数字。
昨日までは、確かになかった。
少なくとも、今まで一度も見たことがない。
「……なにこれ」
自分で呟いた声は、思ったよりも小さかった。
「やっぱシールじゃない? でも、そんなぴったりきれいに貼れる?」
「てか、校則的にアウトじゃない?」
「でも、光ってるよね。なんか、やばい病気だったりしない?」
「ちょっと、そういうこと言わないで」
冗談混じりの声が、次第に不安と好奇心を帯びていく。
白凪は、咄嗟にブラウスの襟元を引っ張って数字を隠した。
「先生に言った方が良くない?」
「保健室案件じゃない?」
「……そうだね」
自分の鼓動が、どくん、どくん、とやけに大きく聞こえる。
ただの悪戯ならいい。シールなら、すぐ剥がせる。
でも、鏡に映るそれは、どう見ても「肌の上に乗っている」ものじゃなかった。もっと深いところから浮かび上がっている感じ。
ふざけたシールにしては、綺麗すぎる線。
白凪は、震える手でブラウスのボタンを留め直した。
◇
「ピー、ピー」
笛の音とともに、男子の体育の授業が始まる。
今日はバスケットボールだった。
体育館の中は湿った熱気で満ちていて、ボールの弾む音とシューズが床をきしませる音が響き渡る。
「篠森、パス!」
「はいよ」
俺は、走り込んでくるクラスメイトにボールを投げた。
動きながらも、頭のどこかでは別のことを考えていた。
女子の体育は、グラウンドで持久走のはず。
白凪は、ちゃんと走れているだろうか。
階段で一緒に屋上へ行ったときも、少し息が上がっていた。運動は得意じゃなさそうだ。
そんなことを考えていると、体育館の扉が開いた。
「先生、すみません。ちょっといいですか」
顔を出したのは、女子体育の先生だった。真剣な表情でこちらに歩いてくる。
「どうした?」
「保健室から連絡があって。白凪ゆきさん、すぐ連れてきてもらえますか」
名前を聞いた瞬間、胸がざわついた。
俺は思わずプレーを止めてしまう。ボールが手からこぼれ、床を転がった。
「白凪が、どうしたんですか」
「ちょっと、様子がおかしくて。詳しいことは保健室で聞いてください」
女子体育の先生は簡潔にそう告げ、すぐに引き上げていった。
男子の担任がこちらを向く。
「おーい、集中しろよ。試合は続けるぞ」
そう言いながらも、表情は少しだけ曇っていた。
俺は、汗で張り付くジャージの袖を握りしめる。
胸の中で、嫌な予感が静かに膨らんでいた。
◇
体育の授業が終わったあと、シャワーもそこそこに浴びて教室に戻ると、すでに噂が流れ始めていた。
「見た? 白凪さんの首」
「なんか数字浮かんでたんでしょ。マジで?」
「20って書いてあったって」
「怖すぎない?」
「刻印とか呪いとかさ。最近そういう動画あったよね」
誰かがスマホを覗き込みながら言う。
刻印。
その単語が、嫌な形で耳に引っかかった。
俺は自分のタオルを椅子の背にかけながら、鞄から学年便りを取り出すふりをして、耳だけを噂話に向ける。
「保健室行ったらしいよ」
「なんか、光ってたって」
「光るタトゥーとかあるじゃん。そういうやつ?」
「でも本人、そんなの貼った覚えないって言ってた」
噂はいつだっていい加減だ。
でも、その中に、ときどき真実の欠片が混ざる。
数字。20。光る。覚えがない。
白凪に何かが起こっている。
それだけは間違いなかった。
◇
「篠森くん、ちょっといいかしら」
四時間目が終わって昼休みに入ろうとしたとき、教室のドアから顔を覗かせたのは、白衣とカーディガン姿の椎名先生だった。
養護教諭。
俺を見るなり、軽く手招きする。
「また保健室ですか」
「ええ。今日はちょっと、話がややこしいの」
先生の表情は柔らかいけれど、その目の色は真剣だった。
俺は頷いて席を立つ。
「おーい、また保健室かよ」
「付き添い彼氏か?」
「違う」
クラスメイトの茶化しを背中で受け流しながら、教室を出た。
廊下を歩く間にも、女子たちの噂話が耳に入ってくる。
「首のやつ、ほんと何なの」
「ガチでお祓い案件じゃない?」
「消えたりしないよね」
消える。
その言葉が、妙に重く感じられた。
保健室の扉をノックして開けると、白凪がベッドに腰掛けていた。
体育のジャージのまま。前を少し開けていて、鎖骨のあたりが見える。
そこに、あった。
20、という数字。
薄い光を帯びて、肌の上に浮かんでいる。
距離を詰めるまでもなく、はっきりと目に入った。
「……マジか」
思わず息が漏れる。
椎名先生は、いつもの机ではなく、白凪の向かいの椅子に腰を下ろしていた。手には数枚のコピー用紙が挟まれたファイルを持っている。
「来てくれてありがとう、篠森くん」
「いえ。その……これは」
「見たまんまよ」
椎名先生は、ため息をひとつ吐いた。
「白凪さんの首に、今朝突然浮かび上がった数字。20。本人も、昨日まではなかったと証言している」
「痛みとか、ないのか」
白凪を見る。
彼女は、少し青ざめた顔でこちらを見返してきた。
「痛くはない。ただ、ちょっとひんやりする感じがする」
「ひんやり」
「うん。冷たい水に触ったあとのみたいな」
説明が生々しくて、逆にぞっとした。
椎名先生は、手元のファイルから一枚の紙を取り出した。
「正直に言うとね。今から話すことは、医者としての私は信じたくない。でも、『養護教諭としての私は知っておくべきだ』と思って、昔読んだ文献を引っ張り出してきた」
「文献?」
「古い医療雑誌の記事よ。今から十数年前に、ある地方病院の医師が書いた症例報告」
椎名先生は、コピー用紙を机に置いた。
「そこにはね、こう書かれていたの」
彼女は、紙の一部を指で押さえながら、ゆっくりと読み上げる。
「『忘れられた記憶が、皮膚の上に痣のような形で刻まれる現象。患者の身近な人間たちは、その痣が濃くなるにつれて、患者本人に関する記憶を徐々に失っていった。最終的に、患者は家族からも医師からも存在を認識されなくなり、痣は跡形もなく消えた』」
保健室の空気が、急に重くなった気がした。
「オカルトみたいな話だと思うでしょう?」
椎名先生は、自嘲気味に笑う。
「私も最初はそう思った。科学的な説明のつかないことは、基本的に信じない。でも、その症例報告には、検査データや経過記録が事細かに書かれていた。『患者の存在を忘れている』はずの家族の証言も、当時の録音から起こしたものとして添えられていた」
「それって」
「『刻印』と呼ばれていたわ」
椎名先生は、白凪の首元に視線を落とす。
「忘れられた記憶が、皮膚の上に刻まれる印。痣のようなもの。あるいは、数字や記号の形を取ることもある、と」
俺は、思わずごくりと喉を鳴らした。
「世界から、存在ごと忘れられる」
椎名先生は、言葉を選ぶように続ける。
「その症例の患者は、最後には、自分の名前を呼んでくれる人が、一人もいなくなったそうよ。カルテからも、その人の記録は消えた。病棟の記録にも、担当医のメモにも。まるで最初から存在していなかったかのように」
「そんな、バカな」
口が勝手に動いていた。
「記録が消えるって。紙だって物理的に残ってるだろうし、データだってバックアップがあるはずだ」
「論理的には、そうね」
椎名先生は、俺を見る。
「でも、ここまで話しておいてなんだけど、私自身、その症例を見たわけじゃない。ただ、現場の医師が『こういうことが起きた』と書き残した記録がある、それだけ」
「……伝承みたいなものですか」
「そう言ってしまえば、それまでだけどね」
椎名先生は、顔をしかめる。
「ただ、こういう話もあるのよ」
今度は、別の紙を取り出した。
「ある小さな町で、『あるはずのない家』の噂が広がった。古い住宅街の一角に、不自然な隙間がある。地図上では、そこに家が一軒建っていることになっているのに、現地に行くと空き地になっている。周りの住人に聞いても、『前から空き地だった』としか答えない」
「ホラー番組みたいですね」
「実際、その話は一度テレビでも取り上げられた。でも、その後、その放送回の映像データだけが紛失したの」
「……本当ですか」
「これは、私も直接見たわけじゃない。あくまで資料として読んだだけ。でも、その『空き地』の話にも、『刻印』の痣を持っていた人間がいたという記述が、別の資料に残っていた」
椎名先生は、その紙をぱたんと閉じた。
「私は、信じたくない。信じたくないけれど、『記憶』に関する異常に向き合ってきた立場として、まったくの無関係だとも言い切れない」
ゆっくりと、白凪の首元を見つめる。
「白凪さん。あなたの症状――毎日記憶がリセットされるという状態と、この『刻印』の話。どこかでつながっているんじゃないかと、どうしても考えてしまうの」
「……」
白凪は、自分の首に触れようとして、途中で手を止めた。
「この数字も、その『刻印』ですか」
「そう決めつけるのは危険だけれど、特徴が似ているのは確かね」
椎名先生は、数字の部分をライトで照らす。
20、という数字は、光に反応しているのか、ほんの少しだけ強く輝いた。
「それに、この数字」
椎名先生は、ペンで紙に「20」と書く。
「カウントダウンのようにも見える」
「カウントダウン」
「ええ。症例報告の中には、数字が少しずつ減っていくケースの記述もあった。21から20、19と、日を追うごとに」
背筋が冷たくなる。
「つまり」
俺は、喉を震わせて言った。
「この20って数字は……何らかの猶予、みたいなものかもしれないってことですか」
「そう考えるのが自然でしょうね」
椎名先生は、正面から俺を見る。
「もちろん、これはあくまで仮説よ。医学的に証明されたものではないし、もしかしたら単なる偶然かもしれない。それでも――」
「それでも、怖いです」
白凪が、搾り出すように言った。
「ごめんなさい。私、今ちょっと、怖いです」
握りしめた手が震えている。
「明日の朝、これが19になってたらどうしようって考えると……胸が、ぎゅってなる」
その言葉に、俺の胸も同じように締めつけられた。
世界から、存在ごと忘れられる。
そんな話、普通なら笑い飛ばして終わりだ。
でも、目の前には、首に光る数字を刻まれた少女がいる。
毎朝、昨日の自分を思い出すためにノートを開く少女が。
冗談で済ませるには、あまりにも現実感がありすぎた。
「……だったら」
口が勝手に動いていた。
「だったら、その二十日間、俺は毎日ここに来る」
椎名先生と白凪の視線が、一斉にこちらを向く。
「なに、急に」
「何を、って」
「そのまんまの意味だよ」
自分の心臓の音を聞きながら、言葉を継ぐ。
「数字がカウントダウンだろうが何だろうが、俺にはどうしようもない。医学的なことも、呪いのことも分からない」
「圭斗」
「でも一つだけ、今ここで決められることがある」
俺は、白凪の目をまっすぐ見た。
「二十日間。お前が消えようが消えまいが、俺は毎日お前に会いに来る。授業の合間でも放課後でもいい。どんな形になってもいい。俺はお前のことを覚えてる人間として、ここにいる」
言いながら、自分でも驚くくらい、声が震えていなかった。
「世界中の誰が忘れてもいい。教室全体から忘れられても、先生たちの記録から消えても。少なくとも一人、全部覚えてるやつがいれば、『完全に消えた』とは言えないだろ」
それは、半分は強がりだった。
俺一人が覚えていたところで、世界が変わるわけじゃない。現実的な意味では、何の役にも立たないかもしれない。
それでも、言わずにはいられなかった。
白凪にとっての「放課後デビュープロジェクト」が、彼女のノートを少しだけカラフルにしたように。
俺にとっての「記憶」は、誰かの存在を証明するために使うべきだと思ったから。
「だから、お前は……」
言葉を探す。
「お前は、明日も、明後日も、ちゃんとノートを書け」
「ノート」
「今日何があったか。誰と話したか。何を感じたか。『嫌だ』と思ったことも、『少しだけ幸せだった』と思ったことも。全部、書いて残せ」
それは、俺自身への宣言でもあった。
俺は、忘れない。忘れないままでいる。
たとえ、それがどれだけ重くても。
「……そんなこと、言われたの、初めて」
白凪は、ぽろりと涙をこぼした。
自分で驚いたみたいに、目を見開く。
「ごめん。泣くつもりじゃなかった」
「謝るな」
「だって、涙も、明日になったら忘れてるのに」
「忘れるのは『明日のお前』だろ」
俺は、少しだけ笑った。
「今日の涙は、ちゃんとここに残る」
自分の頭を指差す。
「ここに、全部」
白凪は、しばらく黙って俺を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「……うん」
唇をぎゅっと噛んでから、もう一度強く頷いた。
「じゃあ、お願い、します」
「おう」
そのやり取りを見ていた椎名先生が、静かに息を吐いた。
「……やっぱり、ただの『優しいクラスメイト』では終わらなそうね、あなたたち」
「どういう意味ですか」
「悪い意味じゃないわ」
椎名先生は、真顔に戻る。
「むしろ、少し安心した。『誰かが、ちゃんと覚えていてくれる』というのは、それだけで一つの支えになる」
その言い方には、医師としての冷静さと、人としての感情が混ざっていた。
「ところで、篠森くん」
「はい」
「さっき、『全部覚えている』と言っていたけれど」
椎名先生は、机の上のペンをくるりと回す。
「あなたの記憶について、少し詳しく教えてもらってもいいかしら」
「俺の、ですか」
「ええ。これは白凪さんのことと無関係ではないと思うから」
椎名先生は、ファイルからまた別の紙を取り出す。
「あなたの噂は、前から少し聞いていたの。『一度見たページは忘れない』『授業中に黒板を丸ごと写せる』『教科書を貸したら、次の日には全部暗記して返してきた』とか」
「脚色されすぎじゃないですか」
「多少の誇張はあるにせよ、『記憶力が異常に良い』という評価は一致している」
椎名先生は、興味深そうにこちらを見る。
「実際、どうなの?」
「……まあ、普通の人よりは、覚えてる方だと思います」
そんな曖昧な表現しかできなかった。
どこまでが「普通」で、どこからが「異常」なのか、自分でも分からないから。
「例えば、小学校の卒業式の日の黒板に何が書いてあったか、とか」
「『卒業おめでとう』の横に、クラス全員の名前と、先生が描いた下手な桜のイラストがありました。右下に、チョークの粉が落ちてて、『ここ消し忘れてる』って思いました」
そう答えると、椎名先生は小さく目を見開いた。
「中学二年のときの学級目標は?」
「『挑戦』って四文字を、いろんな色の紙に一文字ずつ書いて貼ってました。『挑』だけ赤くて浮いてたから、バランス悪いなって思いました」
「なるほど」
椎名先生は、軽く頷く。
「エピソード記憶と意味記憶の両方が、かなり鮮明に残っているタイプね。いわゆる『超記憶症候群』に近い状態かもしれない」
「超記憶、症候群」
「一度見聞きしたことを、ほぼ完璧に長期記憶として保持できる人たちのこと。世界でもケースはそう多くないけど、日本でも何人か報告されているわ」
そういえば、テレビで似たような人物を見たことがある気がする。
何年何月何日に何を食べたか全部言える、みたいな。
「ただ」
椎名先生は、少し真面目な顔になる。
「そういう人たちにも、たいてい一つや二つ、『どうしても思い出せない空白』があると言われている」
「空白」
「何らかのショックやトラウマが関係していることが多い。ある出来事を境に、その前後だけ記憶が曖昧だったり、完全に抜け落ちていたり」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと固くなった。
「……あります」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
「一つだけ。どうしても、思い出せない夜が」
椎名先生と白凪が、同時にこちらを見る。
「いつの、夜?」
「小学校五年のときです」
口にした瞬間、あの日の空気の感触だけが、ぼんやりと蘇った。
「夏休みの終わり頃。たぶん、八月の最後の週。夕方までは、ちゃんと覚えてるんです」
蝉の鳴き声。焼けるように熱いアスファルト。友達と公園でサッカーして、汗だくになって帰ったこと。
「家に戻って、シャワー浴びて、晩飯食って。そこまでは、普通の一日だった」
そこで、記憶が途切れる。
「でも、その日の夜だけ、すっぽり抜けてるんです」
真っ黒な画面みたいに。
「普通なら、ベッドに入って、本を読んで、どこまで読んだかも覚えてるはずなんです。次の日の朝に何を考えて起きたかも。でも、その日に限って、そこが真っ白で」
何度思い出そうとしても、思い出せない。
スクロールバーを必死に動かしても、該当する場面が出てこない感じ。
「次の記憶は、病院の天井です」
白い天井。消毒液の匂い。点滴のチューブ。
「隣に、母さんがいて、『良かった』って泣いてました」
そのときの母の表情だけは、やけにはっきりしている。
「でも、その間に何があったのか。どうして病院に運ばれたのか。誰に運ばれたのか。全然、思い出せない」
その夜に関係したはずの人たちの顔も、声も。
病院側の説明は、「急なおう吐と意識障害だった」というだけだった。精密検査をしても、特に異常はなかった、と。
「その日を境に、俺の記憶の精度が一気に上がった気がしてます。それまでも覚える方ではあったけど、その日から先のことは、本当に細かいところまで残ってる」
蝉の鳴き声の高さ。チョークの粉の位置。誰かの笑い声の音程。
でも、その「空白の夜」だけは、何度巻き戻しても再生されない。
「それを、今まで誰かに話したことは?」
「ないです」
友達にも、家族にも。
「変だと思われるのが嫌だったので」
「そう」
椎名先生は、少しだけ目を細める。
「その『空白の夜』と、白凪さんの症状の関係は、現時点では分からない。でも、『記憶』に関する異常が、同じ学校に二人同時にいるというのは、偶然にしてはできすぎている」
「……そうですね」
「白凪さんは、小学校のとき、事故に遭っているわ」
椎名先生は、さりげなく付け加えた。
「本人もあまり覚えていないようだけど、医療記録にはそう残っている」
「事故」
その単語に、胸のざわつきが強くなる。
「いつですか」
「詳しい日付までは、今ここでは言えないけれど」
椎名先生は、俺の目を見た。
「小学校五年の夏。八月の終わり頃だったはずよ」
脳の奥で、何かが音を立ててひび割れた気がした。
小五の夏。
八月の終わり。
俺の「空白の夜」と、白凪の「事故」。
それが、同じ時間軸の上に並んでいる。
「……」
言葉が出てこなかった。
黙り込んだ俺を見て、椎名先生は口調を和らげる。
「もちろん、だからと言って『二人の間に何かあった』と決めつけるつもりはないわ。ただ、何かしらの接点がある可能性は高い。あなたの記憶と、白凪さんの空白。『刻印』の伝承」
保健室の窓から差し込む光が、白凪の首の数字を薄く照らす。
20、という数字は、さっきよりも少しだけ輪郭がくっきりしているように見えた。
「だから、篠森くん」
椎名先生は、静かに言う。
「自分の記憶を、大事にして。無理にこじ開けようとして傷つく必要はないけれど、『思い出そうとする意志』だけは、どこかに残しておいてほしい」
「……分かりました」
小さく頷く。
俺は、白凪の横顔を見る。
彼女は、自分の首の数字をじっと見つめていた。
20。
俺たちに与えられた時間なのか。
それとも、ただの悪い冗談なのか。
どちらにせよ、数字が減ろうと減るまいと、俺がやることは変わらない。
彼女の二十日間を、全部覚える。
彼女が笑った日も、泣いた日も、「嫌だ」と言った日も、「少しだけ幸せだった」と書いた日も。
全部、俺の中に刻みつける。
それが、忘れられない記憶を抱えて生きてきた俺にできる、唯一の戦い方だと思った。




