侯爵令嬢の損切り(ロスカット)~私は愚かな王国ではなく、隣国の市場を選びました~
侯爵令嬢ルチアーナ・ノイシュタインは、その日の社交界で、人生最大の損切り(ロスカット)を終えたばかりだった。
三年前。ルチアーナは、乙女ゲーム『花と剣のロンド』の悪役令嬢に転生していることを思い出した。そして、ルイス王太子殿下の卒業記念夜会で、ヒロインである子爵令嬢ミレーユに嵌められた断罪の場面に立たされたのだ。
ルチアーナは、その場での弁明も、涙による憐れみを請うことも拒否した。
王国の経済状態は、前世の記憶に照らし合わせれば、あと数年で債務不履行を起こすことが確実だった。ルイス王太子は感情的なだけで政治的知性を持たず、ミレーユ嬢は現実を見ない夢想家だ。そんな泥舟にしがみつくのは、ビジネスとして最悪だった。
あの時、ルチアーナは傲然と笑った。 「畏まりました、殿下。わたくしの愚かな行い、心より反省いたします」
そして、王太子が「辺境の不毛の地へ追放する」と高らかに宣言した瞬間、ルチアーナは心の中で勝利を確信した。
―――ありがとう、愚かな王太子殿下。これで私は、王国の呪縛から解放された。
ルチアーナが選んだのは、王国という古い市場からの完全な撤退と、新天地での再投資という戦略だった。
◇
追放先の領地は、王都から遠く離れた『風の荒野』。魔力資源は枯渇し、農地は痩せて、誰も見向きもしない場所だった。
だが、ルチアーナの目には、この不毛の地に眠る風力と、湿地帯の奥に隠された特殊合金の鉱脈が見えていた。前世の工業知識と、乙女ゲームの背景設定資料集にあった「未発見の資源」に関する小さな記述。これこそが、ルチアーナの持つ最大の資本だった。
ルチアーナはまず、自らの追放金と私財全てを投じ、領地の住民たちをノイシュタイン独立公社の共同経営者とした。
旧体制の「貴族の支配」ではない、「契約と実力」による新しい組織。
「私は貴族の令嬢としての『矜恃』を捨てません。ですが、この地では、貴族の『血筋』より、貴方たちの『労働力』と『忠誠心』に価値があります」
ルチアーナは、かつての社交界の女王のドレスを脱ぎ捨て、機能的な作業服に身を包んだ。彼女の指示は正確無比だった。風力タービンの設計、特殊合金の精錬技術、魔導回路の効率化。全てが、この世界では存在しなかった革新的な技術だった。
三年の歳月は、荒野を巨大な風車群と、洗練された研究都市へと変貌させた。ノイシュタイン公社の製造する高効率魔導蓄電池は、瞬く間に隣国へ輸出され、ルチアーナの富と権力は、王国のそれを凌駕した。
そして今、王国の破綻は、ルチアーナの予測通りだった。魔導具は止まり、経済は麻痺。貴族たちは飢え、ルイス王太子は援助を求めて、この『風の都』へ乗り込んできたのだ。
◇
ルチアーナの執務室は、合金の柱とガラスの壁で構成されたモダンな空間だった。ルイス王太子とミレーユ嬢は、そのあまりの繁栄ぶりに、貧相な外交団を従え、息を飲んでいる。
「ルチアーナ!よくやった!貴様が辺境でこれほどまでに富を築き上げたとは!これも貴様が、かつての王国の王妃となるべき者だった証だ!」
ルイス王太子は、三年前と変わらない傲慢さで、ルチアーナの成功を自分の功績のように断言した。
ルチアーナは、豪華な黒い執務椅子に座ったまま、優雅にカップを傾けた。この紅茶も、王都ではすでに手に入らない高級品だ。
「……殿下。相変わらず、ご自身の判断能力を過大評価されているようですね」
ルチアーナの瞳は、氷のように冷たい。
「殿下がわたくしを追放したのは、単なる感情的な報復。しかし、わたくしがそれを受け入れたのは、王国という破綻確実な投資先を切り捨てる戦略的な損切りです。殿下の功績など、微塵もございません」
「なっ……貴様、それでも貴族か!王国の危機に、その資源を提供せよ!」
王太子はテーブルを叩くが、ルチアーナは動じない。
「王国の危機?その危機は、殿下ご自身が招いたものです。わたくしが婚約者であった当時、財政の健全化を何度進言したか。ミレーユ嬢の非現実的な慈善事業に夢中になり、全て無視したのは、殿下でしょう?」
隣でミレーユ嬢が青ざめた顔で口を開く。
「ルチアーナ様、お願いです。国を、人々を救ってください。貴女は力を持っている。それは、愛と善意のために使うべきです!」
ルチアーナは、冷笑を浮かべた。
「善意?愛?ミレーユ嬢。わたくしは、善意でノイシュタイン独立公社を築き上げたのではありません。契約と対価によって、この地を豊かにしたのです。わたくしが王国を善意で救えば、この地の住民への裏切りとなります」
彼女は立ち上がり、巨大なガラス窓から広がる、整然とした工業都市の景色を一瞥した。
「わたくしにとって、この公社が全て。王国は、単なる取引先の一つに過ぎません。その取引先が破綻寸前であるならば、わたくしの知性は、当然回収できる利益を優先します」
「ルチアーナ!貴様、一体いくら積めば気が済む!金を要求するのか!」
王太子は絶望的な顔で叫んだ。
ルチアーナは、彼の顔を見て心底つまらなそうな顔をした。
「金?いいえ、殿下。わたくしが要求するのは、殿下の命や金ではありません」
彼女は、背後にある巨大な地図を指差した。それは、この公社が隣接する巨大な『テオドール帝国』との経済圏を示している。
「わたくしは、この公社の未来のために、安定的かつ長期的な契約を求めています。その契約先は、すでにテオドール帝国で確定しています。帝国は、わたくしの技術に対し、完全な独立と政治的庇護を提案してくれました」
そして、ルチアーナは王太子に最後の刃を突きつけた。
「殿下。貴方の国には、わたくしに独立と庇護を提供するだけの力も、わたくしの知性に平等な価値を見出す知性も、ありません。それが、わたくしが王国という商品を切り捨てた理由です」
その時、執務室の扉が開き、テオドール帝国の若き皇帝アルブレヒトが入室した。彼は、ルチアーナの横に立ち、ルイス王太子を一瞥した。
「ノイシュタイン公社は、我が帝国の保護領として、明日付で正式に条約を結びます。これ以上の交渉は、我が帝国への内政干渉と見なします」
冷徹で簡潔な宣言だった。
ルイス王太子は、ルチアーナの傲慢な顔と、アルブレヒト皇帝の圧倒的な威圧感に挟まれ、完全に膝を折った。彼の視線の先にいるルチアーナの姿は、もはやかつての婚約者ではない。
―――彼女は、愚かな王国を見捨て、世界の新しい市場を掴み取った、知性の魔女だった。
ルチアーナは、ルイス王太子を見下ろし、まるで価値のない商品を見るかのように、静かに言い放った。
「さようなら、殿下。そして、どうかご自身の破綻した人生に、心より反省なさいませ」
ルチアーナは、アルブレヒト皇帝と視線を交わし、薄く笑う。それは、悪役令嬢としての『矜恃』と、冷徹な『ビジネスの成功』に裏打ちされた、最も美しい笑顔だった。




