のっぺらぼう
私が全く馬鹿げた事をこれから申しますのも、あなたを信用しているからです。私は覚悟を持って話すのですから、あなたも覚悟をして聞いて下さいよ。
私はこのように何ともうだつの上がらない男でして、今年で三十になるというのに人目ばかりが気になって好きな事もろくに楽しめない始末でした。
ええ、何をしても人目が気になるのです。歩いていてすれ違えば、あの人は私の事をどう見ていたか、もしかして馬鹿にされていたんじゃ無いか、とかこんな風な事ばかり考えていますので、会社で働いていた時なんぞはそれはもう言葉にならないほど心労があったのです。
これに加えて自尊心が強いのですから、誰かに見下されていると思えば(これは完全に私の思い込みですが)不愉快な顔をそこら中に振りまいて、ろくに人間関係も結ぶことが出来なかった訳です。結局、会社から煙たがられて、私もそれならばと暇を出したのです。
それから私は職を転々として何とか糊口を凌いでいたのですが、いつものように安い定食屋で飯を済ませて往来に出たとき、こう、クラッとした感覚が襲ってきまして、これはまずいと思って壁に手をついてしゃがみこんだんです。初めは目眩だと思っていたのですが、それが10分か15分ぐらい続くもんですからただ事じゃないと思いました。そうしてしゃがみこんでいると、中々親切な人も居るもんで寄って来て、救急車呼びましょうかなんて言ってくれたんですね。流石に私も感動しまして世の中まだまだ棄てたもんじゃ無いなと、その人見上げたんですよ。
するとどうでしょう、その人の顔がつるつるで目も鼻も口も無いんですから、私は素っ頓狂な声を上げて後ずさってしまいました。そうして辺りを見渡すと往来を行く人も皆顔がつるつるなんです。
私は遂に気が狂ってしまったんだなと、できうる限りの笑顔をしながらその人にお願いしますと言いました。
救急車が来て病院まで運んでくれました。救急隊員も皆顔が無いんです。
お医者さんにこの事を話しました。気が動転していてそう見えるのかも知れませんと、顔のない白衣が言いました。
でもね、これは私にとって悪いばかりか良いことずくめだったんです。まあ、初めのうちは道行く人が、全員のっぺらぼうに見えるもんですから、甚だ不気味でした。しかし、視線というのを感じない訳でもあります。
私は人から解放されたのです。歩いていても何も考えなくて良いし、好きなものを堂々と買えるようにもなりました。新しい職場でも馴染めるようになって、万々歳だったんです。
そうして、恋をしました。勿論顔なんぞはありませんが、その華麗な身のこなし、優しい柔らかい声に惹かれました。それまで女性に対する経験がない割に上手くやったもんだと思っています。遂に結婚までたどり着きました。
しかし問題が起こりました。妻は私の察しの悪さが気に食わなかったのです。結婚する以前にも度々そういうことがありましたが、結婚してからは顔が見えないことによって、些細なコミュニケーションがとれないことが不満の種になったのです。
私も成る可く努力はしましたが、顔だけで何かを表現されたりした場合には気づくことは出来ません。気づかなかった不満はいつの間にか随分堆積されているものです。ある日妻にこう言われました。
「ねえ、あなたって私の事を本当に見ているかしら? いっつも私の方を見ているには見ているけれど、それは私の顔じゃなくて表層を見ているようなの。あなた自身はきっと意識していらっしゃらないのだろうけれど、私を見るその目はものを見るようなの。少なくとも人間に向けて良い目じゃないのは確かね。あなたと付き合っている時も、その目にモヤモヤとした嫌な気持ちを感じたけれどハッキリとしたものは分からなかったわ。でも結婚した今なら分かるの。あなた私を人じゃなくて、魂を持った人形のように眺めていらっしゃるのよ。私だけじゃないわ、他の人もみんな、みーんなそんな風に眺めていらっしゃるわ。あなたは人を好きになったことなんてないのよ」
私は胸を突き刺されたような気分になりました。きっと、こんな長台詞を喋った妻の顔は青くなっていたでしょうが、それすら私には認識することが出来ませんでした。妻は怒って出て行ってしまいました。
ねえ、私は元に戻ることは出来ないでしょうか。もう一度人を人と見ることは出来ないでしょうか。妻を人として見れば今までのような関係は続かないでしょうが、それでも私は人としての妻と話したいのです。
どうか、どうかお願いします。私を人の世界に帰して頂きたいのです。あなたなら出来るでしょう、ねえ、神様、聞こえているんでしょう、どうか返事をして下さい。