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「リンネ?」
私は堪らず彼女の名前を呼んだ。なぜなら彼女の吐く息が短く、不規則になっているからだ。顔も歪んで、まるで汚物を見たかのように眉間に皺が寄っていた。
あそこにいる男女を知っている顔……
リンネは私の呼びかけにも答えず、目をその男女に向けている。こんなこと初めてだ。いつだって私が呼び掛けたら反応していたリンネが、私を無視している。いや、私の声が届いていないのかもしれない。
それぐらい彼女はただ一点を見つめていた。
「あの男、トランクケースをどうするつもりでしょう?」
不意にツキコが小声で話しかけてきた。
見れば男がボンネットの上でトランクケースを開き、人狼に何かを見せている。
まるで薬の密売のよう……いや、これ本当にそうなんじゃ……。
人狼はまた何かを言うように口を開いている。そしてトランクケースからガラスの小瓶を取り出すと、夕焼けで橙に染まった空へかざす。
「闇取引かな〜、映画っぽくない?」
人間のような動作に、気味悪さを感じたモモがコソッと呟く。おちゃらけているがその通りだ。まるで映画のようで現実味がない。
人狼が人間と冷静に話すだけでも可笑しいのに、物品の確認までして……
でもきっと、あれは強化剤だ。
護衛した人狼の発言、夕方にあるという言葉もこれなら当てはまる。
だが、そもそも最初からおかしかったんだ。人狼にはメリットの少ない強化剤、これを作るかの点や作る資金や原材料の調達、知識……いや人狼には到底無理だ。
人狼は昔から北区の西側にある森に生息している。あの森は山が何座も連なってできた巨大な樹海。いくつもの捕獲対象の化物が住んでいるとされている。
あまりの危険さに、立ち入り禁止区域と指定されているほどの場所である。人間が開拓してない、未開の地。
そんなところに生息する人狼が、自分達で強化剤を作れるとは思えない。だとしたら、あの渡された小瓶が強化剤。
でも、そうしたら……人間が人狼に手を貸していたってことになる。
そんな……お父さんは人狼だけじゃない、人間にも殺されたってこと?
確定はされてないけれど、でももしあの小瓶が強化剤だったら!お父さんは!あの日帰って来なかったのは──人間の所為だ。
なんで。
「なんで……」
私、まだ復讐終わってないの……
「見ろ、人狼が何かを取り出してきたぞ」
キョウジ隊長が何かを言っているけれど、頭に入ってこない。こんな現実受け入れたくない!
嘘だ!嘘だ!嘘だ!!なんで人間が!?人狼だけだって、化物だけだって思ってた……それなのに!
「赤い液体ですね、血液パックに見えます」
「え、じゃああれ人狼の血〜?やば、こわ」
「あの小瓶が強化剤だとしたら、人狼はそれを受け取り代わりに血液を渡す……これは密売だ。クソッタレ!最悪なことに、この件には人間が関与している」
ふざけるな……!食人に人間が関わっているなんて、人狼に!食われている人間がいるのに!!
「うう……うっ」
駄目だ、涙が出てくる。
お父さん、私どうすればいい?会いたいよ、私にどうすればいいのか教えてよ。人狼さえ捕まれば全て解決すると思っていた、復讐だって。でも違う、その背後には人間がいる!
「チカ……お前の気持ちは分かるが、抑えてくれ。すまない」
憎い……あの名前も知らない男女も、人狼も!
キョウジ隊長が悲しそうな顔でこっちを見てくるけれど、どうやって抑えればいいんだ。こんなの無理だ!ふざけるな!
流れる涙を拭くこともできず、只々溢れていく。頭では悲しみと憎悪が入り混じる。任務終了の時には確かにあった達成感は消えて無くなり、私には残酷な事実だけが残った。
「帰っていくようですが、如何なさいますか?追いますか、それとも取り締まりますか?」
ツキコの声も
「……いや、連絡機で報告して別隊の人狼捕獲のみにする」
キョウジ隊長の声も
「え、大丈夫ですか〜?これ結構ヤバいと思うんですけど〜」
モモの声も、全てが遠くから聞こえるように、ぼんやりと耳に入った。
「すまない……」
キョウジ隊長はそう言うと、連絡機で支局長に報告をする。人狼のことも、あの人間達のことも、私達が見逃したことも全て。
すまないってなんですか……あいつらの事取り締まらないのはなんで……あれは!
「……あれは誰なんですか。ううっ、私っ私のお父さんもあいつらのせいで……殺されたんじゃないんですか!」
僅かだが、車の走り去る音が聞こえる。ブルルル、と排気ガスをマフラーから吐き出すと、黒い車は港から出て行った。
今すぐ問い詰めたい気持ちで一杯で、握りしめた拳がプルプル震える。その拳にまた大粒の涙が垂れて、濡らしていった。
酷い!こんな事実知りたくない!なんのために私はここにいるんだ、何のためにお父さんは……。
そんな私の様子を見てか、キョウジ隊長が私に向き直る。人狼はもう既にいなくなっていて、ここには私達だけ。だからいつもの声量で語りかけてくる。
「チカ……いや、他の二人も聞いてほしい」
「っ……おっさん!!」
「リンネ、もう隠せる話じゃない。それにここにいる全員が関わる事だ……!」
何、の……まさか!
「あの車に乗った女を俺は知っている……そして、リンネも」
そうだ、さっき固まっていたのは私だけじゃない。リンネも知っている?でも、キョウジ隊長も?
キョウジ隊長のため息が一つ、聞こえてくる。彼の癖だ。本当は言いたくない事なのだろう、何となくそう思う。語り口調もいつもよりゆっくりだ。
「……俺は元々スラム出身だ。十四歳で支局長に引き取られる前までな。そしてあの女は俺の……昔馴染み。スラムでの兄弟だった」
背中をコンテナに預けたキョウジ隊長が、ぽつりぽつりと話し出す。メガネの奥で、瞳を懐かしそうに細めながら。
「俺が引き取られると、あの女……アカネとは連絡が取れなくなって、てっきり俺は養子に取られた先で俺のことも忘れるくらいに楽しんでいると思っていた」
彼は手持ち無沙汰な掌を、ギュッギュッとなんども握りしめながら話を続ける。
「だが、十一年前に……」
「……あたしがアカネに出会った」
え、リンネとキョウジ隊長の繋がりはその、アカネって女……人狼と取引をする茜色の髪を伸ばしたあの人?
「あたしは……っあたし」
私は驚いた顔のまま、リンネと目が合う。何かを口にしたくて戸惑っている顔で、彼女が私を見つめる。
もしかして、リンネ……あれを言うつもりじゃ。
やめて!やめてよ!まだ言わないで!聞きたくないよ!嫌だ!
彼女が──!
「化物、なんだ」
ああ、ああ……こんな日に、こんな気持ちのまま聞きたくなかった。リンネの口から聞きたいと何度も思った、その言葉をこんな気持ちで聞くなんて──最悪だ。
アカネ
スラム出身。キョウジと血が繋がってはいないものの、兄弟のように過ごしていた。生まれてすぐに捨てられて名前も無かったが、髪の毛が茜色なのでスラムの住人からアカネと名付けられる。




