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私は花を生けると水を満杯まで注ぎ、水受けにもたくさん飲めるように何度も入れた。
「私の父……、九年前に死んだの。人狼の有名な虐殺事件、あれの被害者」
私の口からするん、と言葉が出てきた。墓が綺麗になったからかもしれない。キョウジ隊長が初任務を言い渡したあの時、胸の突っかかりは確かにあった。だが今は人狼のことを思っても、目の前のお父さんに向き合いたい気持ちが掻き消している。
「それは、太陰暦二一三〇年に起こった……北区人狼大虐殺ですね」
ツキコが悲しい瞳で私を見る。その口から発せられた事件は士官学校の歴史教材にも記載がある、人狼による人間への虐殺事件。ある特殊な行動により大量虐殺まで至ったその事件は、どこの新聞やテレビを見ても連日そのニュースばかり流れていた。それ程大きい事件だったのである。
「うん……四月の中頃に人狼が現れたの。……なぜか満月じゃない夜にもね。今も満月以外で人狼が現れたことなんてない。でも、……満月じゃないから、て街のみんなが油断していた時に人狼はやって来た」
当時の目撃者が新聞の取材で言った。
満月ではない夜に人狼は現れて、手当たり次第に街の住民を食べていった、その目は血走り牙に人の血がベッタリ付いていた、と。今まで脳裏に焼きつくその取材記事は、人狼という言葉を聞くといつも思い出す。
「私のお父さんはね、生まれて一歳になる弟の為に朝も夜も一生懸命に働く人だった。私はもうちょっと家にいて欲しいって思ってたんだけれど……思うだけじゃなくてちゃんと言葉にして言えばよかった。いつものように、おはよう、行ってらっしゃいって言ったあの日からお父さんは帰って来ない」
本当に突然だった。ありふれた日常の中でいきなりお父さんは死体となった。人狼によってボロボロになった死体を確認するため、死体安置所に行って目を赤く腫らしたお母さんを瞼の裏に思い出す。いつもは明るいお母さんが、私の見たことのない酷い泣き顔で『パパ、パパ』と繰り返し呟いていた。私は声を掛けられずに、ただそれを見ているだけ。
「チカ……」
「私、あれから実感無かったの。お父さんが死んだって、棺桶に入っているのを見ても現実味がなくて……。いつかお父さんはあの玄関から入って来て、また一緒に……ご飯食べて、テレビ見て笑って、いつものように……」
思わず涙が溢れる。喉の奥が痛い。目もズキズキする。
誰かにお父さんのことを聞いてもらうなんて考えたこともなかった。死に向き合うのがこんなに苦しいなんて、分かっていなかった。
「でも……初めての任務で人狼が目の前に来た時にやっと分かった。……もうお父さんは帰って来ない」
あの時私は死ぬと確信していた。いや、あのままであれば私は死んでいたのだ。私はリンネに助けられたが、お父さんはあの恐怖の中死んでいったのだと、私は死の淵で理解した。
「きっとすごく怖かったと思う。……ごめんね、今までお父さんのこと分かってあげられなかった」
墓石に呟く。お父さん、聞いているかな。いや聞いているよね。私の話を聞かない人じゃなかった。それどころか、いつも両手を握って聞いてくれていた。
私はそれを思い出し、両手を墓に当てる。
「お父さん。私、特務部に入ったよ。弱くて守られてばかりだけれど、入ってよかった。お母さん一人じゃお金大変だもん。……実家はね今、東区にあるよ。たまには帰って来てね」
言いたいことがとめどなく溢れていく。今まで向き合えなかった分、たくさんお父さんに伝えたい。
「レイは美術の成績がすごく良いんだよ。今は芸術の専門学校通ってるの。ウイカは来年、初等部の高学年になるのにまだお寝坊さんだよ。ヨウちゃんは十歳になったの。納豆は今でも大好きだって、ふふふ。……お母さんはね、もう泣いてないよ。お母さん強いんだってよく言ってる」
私の瞳から、まだ涙は止まらなかった。
ああ、死んじゃったんだ。本当に死んじゃった。見ないふりなんてできない。この事実は隠すことができない。
お父さんともっと話をすればよかった。長女だからと他の兄弟の顔色伺わないで甘えればよかった。
後悔は過去を消さない。何を思っても手遅れなのだ。
「……チカ」
リンネが私の服の袖を掴む。まるで子供みたいな仕草だった。私はハンカチで涙を拭いて振り返る。そこには悲しい表情の四人が、私を見ていた。
でも……もう大丈夫。私はお父さんの死に向き合う、そう決めた。これからずっと続く虚無感に何度も涙を流そうとも、それでももう私は逃げない。
「リンネを連れて来たのはね、お父さんに私の命の恩人を紹介したかったから。私に……向き合う覚悟をくれたと思ってるから」
真っ直ぐ見据えると、橙の瞳も見つめ返す。陽だまりの中に私が映っているかのようだ。
「……あたし、チカのためなら人狼をぶっ殺せるよ」
「ええ!それは野蛮だなぁ。ふふ、でもありがとうね。ちょっと元気出たよ」
涙はもう止まっている。私は心の底から晴れやかな気持ちになっていた。差し込む太陽は暖かく、柳の葉擦れがまたざぁざぁと墓地に響く。もうあの四人も悲しい顔をしていない。春の陽気は私たちを爽やかに包み込んでいた。
私たち五人は、気持ち晴れやかに談笑しながら宿舎へと帰る。キョウジ隊長の連絡機に“ある一報”が届くまで。
「は?人狼を……護衛?」
キョウジ隊長の戸惑った声に私も反応する。人狼という言葉を聞いて、私の心音が大きく鳴った。




