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ナギサが見える街  作者: しげまつ
1/1

ナギサとフミ

一.


 放課後の校庭では、運動部が精力的に汗を流していた。そういえば、もうすぐ中体連の時期だったなと、達彦は思い出す。息子の渚が持って帰ってきた学校便りに、そう書いてあった。そもそも渚は帰宅部だから関係無いが、もしサッカーや野球をしていたら、毎日お弁当の他におにぎりを三個握ったり、休日は遠征に帯同したり、大会の度に輪番制で車を出したりと、忙しかったのかもしれない。『本人たちは楽しいだろうけど、私たちはやってられないわよ』と、職場の人が言っていた。

 声を大にしては言えないが、シングルにとって、子供が帰宅部というのは本当に有難い。




 「すみません、寒水(しょうず)の父ですが」


 来客用の玄関先にある事務所の窓口へ声を掛けると、事務員が慌てた様子でどこかに内線を掛け、そしてすぐに担任がやって来た。達彦より少し若い女性教師は、とても申し訳ない顔をしながら、開口一番に頭を下げた。


「申し訳ございません、ご心配をお掛けして」

「いえいえ、先生のせいではないですよ」


 どうぞこちらに、と、南校舎を案内される。途中、渚の同級生と擦れ違った。以前、小学校の授業参観後には毎回、『ナギの父ちゃん』と絡んできた人懐っこい男の子は、達彦を見掛けると「ッス」と、ぶっきらぼうな挨拶をする思春期男子に変わっていた。


 廊下の突き当たりの右側に、保健室があった。担任が三回ノックをすると、小さな「はい」が返ってくる。そしてゆっくりと扉を引くと、西日を後光にした渚がいた。彼の顔は逆光でよく分からないが、頬に保冷剤を当てていることだけは分かった。

 そして渚から離れた場所に、バツの悪そうな顔でそっぽを向く少年がいた。肩まである金髪を後ろで結ぶ、今まで見たことが無い子だった。町内に小学校も中学校も一つしかない。つまり、この中学校の面子は小学校から変わらない。こんな派手な子、いただろうか。それとも違う学年だろうか。

 しかし渚の担任は確かに、達彦に電話口で言ったのだ。「同級生」から殴られた、と。


「寒水君、大丈夫?」


 声を掛けられて渚は保冷剤を外した。大して腫れも、内出血もない。


「別に痛くないです」


 達彦も近くに歩み寄り、頬をまじまじと見る。本人が言うように何もなさそうだが、唇の端に血が固まった跡を見つけた。そういえば、殴られて血が出たと電話口で言っていた。


「もう止まったから」


 達彦の視線に気付いたのか、渚が口角を引っ張る。


「ちょっと切れただけ。本当にさ、今、何も痛くないから」


 その言葉の中には、「面倒くさい」というニュアンスが含まれていた。大人が大騒ぎするほどではないと、諌めるような口調だった。渚は椅子から立ち上がり、エナメルの学校鞄を肩に掛ける。


「寒水君、まだ待って」


 子どもが簡単に考えるほど、暴力沙汰はそう易々と水に流せないのだ。担任は金髪の少年に目をやると、やや強い口調で「謝ったの?」と、言い放った。

 少年は不貞腐れたまま、大人達から視線を反らした。達彦は渚が殴られた経緯を何一つ聞いていない。男子中学生同士だから、まあ、いずれ誰かを殴ったり、誰かに殴られたりする時は来ると覚悟はしていた。ただ、今回、息子が殴られたことに対する怒りや不安よりも、息子が加害者側で無くて良かったという、安堵の気持ちの方が強かったのだ。


「ハマベ君!」


 少年の名前を先生が呼ぶ。名札に目をやると、『浜部』と書いてあった。その上に『3ーC』とクラス名が記されてあったことで、ようやく少年が渚と同級生ということが分かった。そして、この学校の制服は黒の学ランなのに対し、彼は濃紺の学ランを着ていたことから、おそらく転校生であるということまで分かったのだった。

 少年は一度は達彦の顔を見ると、小さく会釈をした。まるでさっき廊下で擦れ違った同級生の子みたいに、よそよそしい会釈だった。それでも、見た目の割には悪い子ではなさそうだ、というのが、達彦の印象だ。職業柄、こういう勘は当たる。ただ、やったことは悪いことだから、そこは本人に反省をしてもらうしかないのだが。


「先生、浜部君は謝ったからもういいです。俺、怒ってないし。怪我もしてないし」

「そういう問題じゃないんです!」


 今度は渚に向けて強く言い放つ。これだとどっちが加害者か分からないなと、父子は視線を合わせた。


「もうすぐ浜部君のお父様も来るから」

「私は別に、相手方の親の謝罪は要りませんが……」

「そういう訳にはいきません。お互い、きちんと顔を合わせてもらわないと。向こうのお父様も、二人に謝りたいと言っているんです」


 担任一人だけがヒートアップする中、保健室の内線が鳴る。おそらく少年の父が来たのだろう。電話を受け取ってすぐに、彼女は放課後の廊下を駆け抜けて行った。開けっぱなしの扉の奥に、『廊下は走らない』という注意書きが見えた。





 先生が保健室を出て五分が経った。いまだ戻ってくる足音は聞こえない。相変わらず不貞腐れたようにそっぽを向く少年と、そして居心地悪そうに爪の甘皮をいじる息子の渚、その親の達彦。さらにもうすぐ浜部君の親も参戦する。いや、参戦と言うのだろうか。別に達彦は怒っているわけではない。少年やその親の謝罪が欲しいわけでもない。ただ息子の無事を確認して、自転車を車のトランクに積んで、帰りにスーパーに寄って晩御飯を買って、そして家に帰って。日常の中に突然の非日常が入り込むことが、達彦にはとても苦痛だった。早く帰りたい。ここから相手方との話が始まると、一体何時に帰れるのだろう。謝ってくる相手の親になんと答えれば、親として、渚の父親として『正解』なのだろう。そう思いながら、達彦は夕暮れの校庭を眺めた。


 「すみません、うちの息子が」


 保健室の扉が開くと同時に、少年の親が頭を下げた。肩甲骨までかかる長い髪に、最初は母親かと思ったが、声が男性だったことに達彦はぎょっとした。自分の住む小さな田舎町に、こんなに髪の長い男性は見かけないからだ。


「フミ、何で殴ったんだ」


 父親は少年の名前を呼んだ。怒気など感じさせない、日常会話の延長のようなトーンだった。フミ、と呼ばれた少年は小さく舌打ちをすると、「うるさい」と呟いた。


「浜部君!」


 今度は先生が声を荒げた。先生が被害者と加害者の親、両方の感情を代弁しているようだった。少しだけ肩を竦めた少年を見て、渚が「ちょっと喧嘩しただけです、でも仲直りしたんで」と言った。

 渚の言葉に少年が目を丸くしたのを、達彦は見逃さなかった。おそらく、渚は嘘をついている。仲直りなんかしていなし。ただ、この場の面倒な状況から離れたくて、適当に先生の望んだストーリーを推測し、上からなぞっているのだ。


「寒水君と、そのお父様も。すみません、うちの息子が」


 また深々と頭を下げる。そして顔を上げたとき、達彦は何か、引っかかるものを感じた。どこかで見たような、会ったことがあるような。


「怪我は?」

「ちょっと切れただけです。もう痛くないし、腫れてないし。平気」


 渚が口角を指さす。心配そうに傷跡を確認し、そして少年の父親はポケットからスマートホンを取り出した。


「何かあったらいけないので、連絡先を教えてください」

「いやいや、特に何もないですよ、大丈夫だと思います」


 頑なに首を振るも、少年の父は念を押した。そして小さな声で、先生に聞こえないほどの小さな声で、「また同じことをするかもしれないから」と付け加えたのだ。


「えっ」

「だからお願いします。連絡先を教えてください」

 

『二度と同じことはさせません』という子供の暴力沙汰で親が言う常套句ではなく、その正反対の言葉が出たことに達彦は驚いた。自分の息子を制御できないのか、息子を信用できないのか、反抗期がここまで手に負えないほど酷いのか。

 呆気にとられた達彦は少年の父に言われるがまま、電話番号を交換したのだった。


「ところで先生、喧嘩の理由は何だったんですか」


 自分の息子に聞いても返事がないことは明確なようで、先生に理由を尋ねる。しかし、クラスメイトから報告を受けて先生が教室に入った時にはすでにほとぼりが冷めた後だったようで、詳しい理由は本人以外、誰も知らない。


「俺が」


 沈黙を割ったのは、渚だった。


「俺が浜部君にぶつかったんです、ちょっと強く」


 ──また嘘をついている。達彦には分かった。

 それでも、偽りだとも知らずにその理由を知れたからか、先生は胸を撫でおろす。「もう同じことをしちゃ駄目よ」と、先程までの剣幕はすっかり消え去り、夕暮れの保健室には一件落着の空気が漂っていた。




 結局最後まで、少年の口から謝罪の言葉も、殴った理由も出てくることはなかった。

 後から渚に聞けば本当の理由なんてすぐに分かるのに、帰り道の車内、渚は達彦がその話題に触れないように、一生懸命一人でクラスのお調子者の三田君のエピソードを喋り続けた。普段、こんなに渚が喋ることはないのに。


 ──クラスでいじめられているのか?

 ──少年に何か弱みを握られているのか?

 ──どうして暴力を受けたのに少年を庇ったんだ?


 そのどれもの問いかけを飲み込んで、カーテレビから流れるニュースのボリュームを上げる。すると、『いじめで自殺、学校側が隠蔽』というテロップが流れて、慌ててラジオに切り替えた。


「なあ、」

「なに?」


 一昔前に流行ったバラードが流れる。この曲が出たとき、渚はまだ赤ん坊だった。


「寿司食べるか?」


 言いたい言葉を何一つ言えずに、心配しているという言葉すら伝えられず。本当に息子を愛しているのか、という自問自答にすら答えられず。バックミラーに映る息子の顔に、過去の憎悪が重なる。それを振り切るように努めて明るく振舞うことも、最近は見透かされている気がした。


「いいね、寿司大好き。行こう」

 

 その息子の返事ですら、社交辞令のように思えてしまった。






◯●◯




 渚はいつも通り、七時半に家を出た。特に変わったことは無かった。寿司を十二皿食べ、帰りにコンビニでジュースを買い、帰宅して風呂に入り、自分の部屋で宿題をした後、いつもの時間に就寝した。その間、事件のことは一言も話さなかった。普段の渚と、何も変わらない。それが怖くもあり、かと言って、ひどく落胆していたのならどうすればいいのか分からないから、達彦は心の中で安堵した。


「今日は帰りが八時過ぎるかも」

「分かった」


 いってらっしゃいの代わりの、寒水家の家を出る挨拶。中間管理職に昇進してから、五年。渚が小学校四年生の頃から、この挨拶は続いている。定時で帰れるときなんて、一年のうちに数えるほどしかない。

 渚は自転車のヘルメットを被ると、アパートの階段を降りて行った。あんな事件があった後だから、本当は今日は休ませても良かったのかもしれない。しかし、渚はいつも通り六時に起きてきて、制服に着替えていたのだ。


「何が正解なんだろうな」


 自転車を漕ぐ渚の背中を見送りながら、ぽろりと言葉が零れた。父子家庭が長い中で、がむしゃらに働いてきた。せめて欲しいものや食べたいものは、何不自由なく与えてあげたくて。その代償として息子に寂しい想いをさせてしまった。しかしそれに気づいた時には、あれだけ小さかった息子の背丈は達彦と並び、可愛かった声も低くなり、自分で何でもできるようになっていた。時の流れは早い。

 曲がり角を曲がり、姿が見えなくなったところで達彦も家を出た。渚が小学校の修学旅行のお土産で買ったカステラのキーホルダーが、カチカチと鍵に当たる。再びドアノブを回し施錠を確認してから、駐車場へ向かった。





 出勤して早々、欠員が一名と報告を受けた。大慌てで今日の業務分担を書き換える。そうやって頭を抱えていると、今度は患者家族から昨日クレームがあったと報告を受けた。その話を聞いていると、今度は食堂で患者同士が大声で口論を始めたらしく、応援を呼ぶ声が聞こえた。


「朝からヤバいっすね」


 若い男はそう言って笑いながら、デスクに座って勝手に業務分担を書き換える。


「勝手に書くな」

「田辺さん休みでしょ。俺、この部屋割りそのまま貰いますよ。自分の部屋は忙しくないんで」


 分担表の『俵 慎一郎』という名前の横に、鉛筆で新たな部屋が付け加えられていた。


「いいのか」

「いいっすよ、昼休みコーヒーおごりで」


 にっこりと笑いながら、俵は達彦の背中を叩いて検温に行った。まるでどっちが上司か分からない。入職して8年目、入れ替わりの激しいこの病院では、彼はすっかり中堅ナースになっていた。飄々としていて、でも仕事はきちんとこなす。軽すぎる態度からは想像もできないほど、責任感は人一倍ある。そして人懐っこい風貌から、女だらけの職場で可愛がられる世渡り上手。

 そんな俵は、達彦にとって、この病院で唯一の腹を割って話せる存在だった。

 ナースコールが鳴る。内線が鳴る。カウンターで頓服を希望する患者が来る。点滴台を動かす声がする。モニターのアラームが鳴る。離床センサーのコールも鳴る。昨日の非日常が、いつもの日常に切り替わる。達彦はピッチをポケットに入れると、大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。






 「それ、いじめじゃない気がしますね」


 昼休み、空の面談室で二人きりになり、昨日の一件を打ち明けた。あれだけいじめを疑っていた達彦とは正反対の意見に、思わず面食らった。


「いじめならそもそも何かあるでしょ。学校行かなかったり、元気が無かったり」

「本人がうまく隠しているのかもしれない」

「大人じゃないんだから、まだ中学生でしょう。嫌なら何かしらのサインを出しますよ、フツーは」


 あまりにも他人事すぎる口ぶりにムッとなりそうになったが、そうだった、そもそも俵にとって渚は他人だったと我に返る。


「じゃあ何で殴られたんだよ」

「その理由、その場で聞かなかったんですか」

「息子が庇ったんだよ」

「庇ったんなら、殴ったソイツは友達じゃないんですか」

「いや、きっと弱みを握られているのかもしれない」


 達彦はコーヒーを全て飲み干すと、ポケットからスマホを取り出した。渚からの連絡は、無い。学校からも、無い。そして、あの親からも。


「ああ、俺も自分の子供が欲しいな」

「どうした急に」


 脈絡のない独り言と一緒に、俵は背伸びをして足を組んだ。微笑ましそうに達彦を見る。


「師長ですら自分の子供のことになると盲目的に信じるから、そんな存在いいっすね、って話で」

「俵も結婚」


 『すればいい』と言いかけて、口を噤む。その様子に俵は笑った。気を遣いすぎでしょう、と肘で突っつく。


「ゲイだけど、普通に子供欲しいですもん。ある日家にいるといいのに、自分の子供が」


 その言葉に、達彦は押し黙る。空の缶コーヒーの飲み口を見つめながら、あの晴れた冬の日のリビングを思い出したのだった。






◯●◯



 「おかえり」


 玄関を開けると香ばしい匂いがした。達彦が買っていた鯖を、渚がフライパンで焼いていた。いつからだろう、晩御飯の買い物は達彦が、そしてそれを調理するのは渚の役目になっていた。なるべく簡単そうな、焼くだけ、混ぜるだけ、かけるだけ、入れるだけといったシンプルなものを選ぶよう心掛けている。だから寒水家の晩御飯はある程度ルーティンが決まっている。肉、肉、魚、麺、丼物、のような順番だ。


「あと少しで焼けるから」

「ありがとう」


 達彦は手を洗うと、テーブルの上を片付ける。ディーラーからのダイレクトメールや町の広報誌と一緒に、学校から配られたプリントが並べられていた。『三者面談のお知らせ』という見出しと共に、空欄が三枠。『面談日を第三希望までご記入ください』と書いてある。渚も中学三年生。進路について話し合う大事な時期だ。息子の口からはまだ、希望校はおろか、将来の夢すら聞けていない。最後に聞いた夢は、小学二年生の時の作文で書いた『ユーチューバー』だった。さすがに、今はもう違う夢を抱いていると思うのだが。


「その週、無理だよね」


 達彦が返事をするよりも早く、渚がそう呟いた。カレンダーに書き込んだ勤務を見る。確かに、その週はどこも日勤だ。夜間責任者の日があれば、そこにどうにか当てることができたのだが。

 実は一、二年生の時の三者面談も、予定がどうしても合わずに見送ったのだ。一年生の時は人員不足で休むことができず、二年生の時は希望まで出したのに、病棟で季節はずれのインフルエンザが蔓延してしまい、結局はその対応で行くことができなかった。最終的には電話での面談にはなったが、親としての務めを果たせてない自分に腹立たしい想いがあった。


「大丈夫、どうにか行けるさ」


 カレンダーを机に広げて、ぶつぶつと呟く。月曜は人が多いが外せない会議があるから難しい。火曜は人が少ないから難しい。水曜は多いが新人ばかりだから抜けられない。木曜も人が少ない。金曜なら、午後にリーダー業務を頼んで半ドンで帰れるかもしれない。しかし誰に頼もうか、などと一生懸命に思考を巡らせる。昼からの自分の業務を頼む人選を頭の上に浮かばせては、消していく。


「あの」


 ハッと顔を上げる。渚が皿を両手に持ち、立ち尽くしていた。


「ご飯、できた」

「あっ、ああ、ごめん」


 慌ててカレンダーを片付け、配膳を手伝う。二人掛けのダイニングテーブルに、料理で彩りが添えられる。今日は塩サバに、キノコの味噌汁、ほうれん草のごま和えと冷奴。味噌汁と副菜だけは、毎日家を出る前に達彦が作るようにしている。それぐらいはしないと、だって親だからと、眠い目をこすってそのために少しだけ早起きをしているのだ。


「いただきます」


 二人で手を合わせ、遅めの夕食。渚はリモコンを手に取り、バラエティ番組にチャンネルを変えた。テレビを付けっぱなしで食べることを、達彦の母はよく諌めていた。親子の会話が減りますよ、と。しかし五年前に達彦の母が亡くなってからは、寒水家の食卓ではテレビを常に流れている。結局、テレビを付けようが消そうが、親子の会話はさほど無いことに気付いた。


「あ、この人」


 いつも連絡事項ぐらいしか喋らない渚がテレビを指差し、話し掛けた。テレビには沢山のお笑い芸人が映っている。ネタを披露する番組だ。渚が指さした人物は、スーツを着たすらっとした男で、画面の端のひな壇で手を叩いて笑っていた。隣に座る眼鏡で小太りの男は、どうやら相方のようだ。


「流行ってるのかな?」

「そうじゃなくて、あ、ほら」


 その芸人が映る画面の下に、テロップが表示された。『この番組は5月20日に収録されたものです』と。こういうテロップが表示されているときは、大抵なにかの不祥事を起こしたときだ。


「ありゃ、事故でも起こしたか?」

「フリンして、それがバレたから遺書書いて失踪したって。クラスの女子がこいつのファンだから、昼休みにスマホで知って泣いてた」


 達彦の心臓が止まりかけた。この芸人が失踪したからではない。渚の口から『フリン』というワードが出たからだ。ただ、『フリン』を『不倫』と理解していないような口ぶりだった。それでも達彦は酷く焦った。何かを返事しないといけないのに、言葉がうまく出てこない。動揺が渚に伝わらないように必死に脳を回転させるも、気の利いた返事が出てこない。


「泣くほどそんなに面白い芸人だったのかな」

「いや、ただの顔ファン」


 テレビの中のその芸人は、見切れながらも大きな口を開け、手を叩いて大声で笑う。突然の事実発覚に慌てて編集したのだろう。彼らは画面の中央に映らないように不自然にカットされ、その芸人がアップで映ることは無い。きっとネタが放送されることも無いはずだ。


「フリンって、死んで詫びるほどのものなのかな」


 渚の何気ない一言に、達彦は何も言えなくなってしまった。大好きだった塩鯖が、舌の上で紙粘土のような味になる。達彦の食欲は完全に失せた。一旦箸を置くと、グラスを傾けて麦茶を胃まで一気に流し込む。渚は相変わらずテレビを見ながら、ほかの芸人のネタに小さく笑う。もうさっきまでの不倫の話なんか、どこかに置き去ってしまった。

 渚はこのテーブルで、つい先日まで離乳食を手づかみで食べていた。

 渚はこのテーブルで、つい先日まで嫌いなトマトを黙って達彦の皿に乗せていた。

 渚はこのテーブルで、小学一年生の初めての遠足の思い出を嬉しそうに話していた。

 渚はこのテーブルで、登校班の班長になっての愚痴をこぼしていた。

 サンタは小学校四年生まで信じていたし、テレビでキスシーンが映ると親より早くチャンネルを変えた。ゲームと、読書が好きな純粋無垢な子供だと思っていた。それがいつの間にか、『フリン』という単語を覚えて口にした。そういう不埒な単語が出てきたからショックだったのではない。よりによって渚の口から出てきたことが、許せなかったのだ。


 逆を言えば、息子が渚でなかったら、笑って流せた話なのだ。


 件のお笑い芸人は半分見切れては、大きな口を開けて笑っている。お前のせいで、ファンも、相方も、そして奥さんも泣いているんだぞと、達彦は心の中で激高した。死んでしまえばいい。そのままどこかで首を吊るなり、崖から飛び降りて死んでくれと願う。


「ごちそうさま」


 気付けば渚は完食していた。手を合わせると、食器を流しで予備洗いして食洗器にセットする。そしてそのまま、自分の部屋へと行った。後は寝る前の歯磨きまでは、部屋から出てこない。

 皿にはほとんど手つかずの料理が残っている。完全に食欲が失せた。

 渚に気付かれないように、素早く三角コーナーに残飯を入れ、袋にまとめると外の生ごみバケツに捨てた。息子が作った料理を残したのは、今日が初めてだった。それでも、罪悪感よりもショックと憎悪の感情が勝る。醜い感情を溜息と一緒に吐こうとも、みぞおちの奥にまだ黒い塊がこびり付いている。


「死んで詫びるものだよ、不倫は」


 小さな声でテレビに向かって呟く。不倫をして遺書を書いて失踪した極悪人が、再び映る。


「あいつも死んで詫びればよかったのに」


 渚が部屋のテレビをつけたのだろう、同じ番組の笑い声が聞こえてきた。達彦はリビングのチャンネルを大して興味のない動物番組に変え、渚の部屋のテレビの音が聞こえないように音量を上げた。


 それでも鼓膜に、そして網膜に、あの芸人の汚い笑い声と顔がこびり付いて離れなかった。




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