3.錆びた指輪
「……と、いうのが先日私が突然見舞われた不幸な出来事なのだけれど」
アデルが先日の婚約破棄の顛末を説明し終えると、レギオンの顔色は真っ青になっていた。
今は食事を終え、ノーラの淹れてくれたお茶のカップを前に話していたところなのだが、レギオンの顔色を見てアデルは眉を顰める。
「ちょっと大丈夫? 食事が口に合わなかったかしら。それとも過激な話を聞かせてしまったから? もっと休んで、明日に話した方がいいわね……」
「違います」
レギオンを休ませようとすると、彼は慌てて口を開いた。
「あの……まずまだ名乗ってもいなかった無礼を許してください」
「あら、もしもこの話を聞いて求婚を取り消したいのならば、後腐れなくお別れした方がいいと思ってあえて聞かなかったのは私の方よ」
アデルはそんなこと、とまた朗らかに笑う。
社交界では今や誰もが知っている話なので、アデルの方は身元を明かしていたがレギオンにそれを強要するつもりはなかったのだ。
こんな面倒に関わりたくない、縁を切りたいと思われたのならば、仕方がないと考えていた。
「いえ、俺から取り消すことはないので、どうか名乗らせてください……その上で、アデル様……アデルが、俺を放り出したい、と思ったのならばそれは自由にしてください」
「ぷくぷくになる前に放り出したりはしないけど……?」
アデルは首を傾げたが、強張った表情のレギオンを見遣って名を聞くことにした。
「俺の名前は、レギオン・クルーガー。ゲトウェル伯爵の……私生児です」
「なんですって!?」
レギオンの名を聞いてノーラが悲鳴を上げる。その隣ではリードが顔から表情を消す。
しかし当のアデルは、口元に手をやって瞳をぱちぱちと瞬いただけだった。
「あら……確かにゲトウェル伯爵には、夫人とは別の女性との間に設けた御子がいらっしゃると噂だったけど、ちっとも表に出て来ないのでただの噂なのか、もう亡くなっているのかと思っていたわ。そう、あなたがそうなの……」
アデルはまじまじとレギオンの顔を眺める。
薄茶色の髪に、緑の瞳。
出会った時は分からなかったが、ぴかぴかに磨かれたレギオンは整った顔立ちをしていた。だがゲトウェル伯爵に似ているか、と言われると否だ。
「伯爵のお顔は知っているけれど、あまり似ていないのね? お母様似なのかしら」
「分かりません。母は、俺を生んですぐに亡くなったので……母の形見は、これだけですし」
レギオンは、革紐に通して首からずっとぶら下げていたリングをテーブルに置いた。こちらも随分と汚れて曇っていて、元が何の金属なのかも分からない。
矯めつ眇めつアデルはリングを観察するが、そこから得られる情報はなかった。
「辛いことを言わせてしまってごめんなさい。……こちらはシグネチャーリングかしら? お母様は貴族の方?」
「それも、分かりません。俺を取り上げてくれた産婆が、母に頼まれてこの指輪を俺に持たせてくれたんですが、その時にはすでにこんな風に錆びた状態だったらしく……」
レギオンの育った状況的に、リングの錆びを落とすことも出来ず今日までただ形見として持っていただけなのだ。錆びたリングでは、宝飾としての価値もなく売ろうとも考えつかなかった。
「んー……ではレギオン」
せっかく名前を聞いたので、アデルはレギオンを名で呼んだ。
名を呼ばれて、レギオンはまるで目の前に光が差したかのような気持ちになる。伯爵邸では誰もレギオンのことを名で呼ばない。
名を呼ばれることで、こんなにも鮮烈な気持ちになるとは思っていなかったのだ。
それは、相手がアデルだったからなのだが、この時点でのレギオンはまだ気づいていない。
「……はい」
「このリングを借りてもいい? 錆びを落としたいのだけど」
「勿論です」
「そう……それで、あなたはつまり、リーシャ・クルーガーの……腹違いの兄、ということになるの?」
核心を突くと、レギオンはまた青褪めて頷いた。
「知らぬこととはいえ、義妹が本当に申し訳ないことをいたしました……」
「あ、うん。それは、リーシャ自身に身をもって贖ってもらうつもりだからいいんだけど」
不穏なことを言いだしたアデルに、レギオンは疑問を抱く。
「ようはサミュエルとリーシャに復讐する為に私は早急に婚約者が必要で、あなたの求婚を二つ返事で了承したのは、その為なの」
「え……」
今度はレギオンが絶句する番だった。
最初からずっと屈託なく笑い、明るくて親切で優しいアデルがそんなことを考えていたなんて驚きだ。
「売られた喧嘩は、倍額でも買うのが私なの。あなたの義妹を徹底的に不幸のどん底に陥れるつもりだし、そんな娘を育てて放置したゲトウェル伯爵家にもそれ相応の報いを受けさせるわ」
勿論、サミュエルとワーグス子爵家が復讐の筆頭対象だが。
評判と信用が大切なのは貴族も商人も同じ。アデルは、商会の会頭としてこの喧嘩を受けて立ち、完全勝利を手にするつもりだった。
「聞けばレギオンに伯爵家の子息としての恵みはなかったようだし、私はあなたにまで怒りを広げる気はないわ。でも、自分の家がこれから不幸に見舞われる手伝いをするのは、嫌でしょう?」
「え……」
アデルはそこで、ちょっと申し訳なさそうに眉を下げる。
「出来れば、私がゲトウェル伯爵家やワーグス子爵家に復讐するつもりでいることは黙ってて欲しいけど……無理強いはしないわ。もう遅いし、今日は客室に泊まって。明日になったら私のことや求婚のことは気にせず、帰って構わないから」
「お嬢様! いけません」
「そうです、この男が伯爵家に戻って吹聴するかもしれません」
ノーラとリードが慌てて止めるが、アデルは首を横に振って取り合わない。
「今日会ったばっかりの私の為に、家を捨てろと言うのは酷な話よ。私はサミュエル達に報いを受けさせるつもりだけど、関係のない人まで不幸にするつもりはないの」
アデルはそう言って席を立ち、食堂を出て行こうとする。しかし、それよりも早くレギオンが進路に立ち塞がった。
痩せてはいるものの、自分よりもずっと背の高い男に立ち塞がられてアデルは怯む。それを察したレギオンは、すぐにその場に膝をついた。
「やめて。あなたは伯爵令息なのでしょう?」
「関係ありません。伯爵家の恩恵を、俺は受けたことがありません、この身の使い方を自分で選べるのならば、あなたの為に使いたい」
跪いた視線のまま、レギオンは真っ直ぐにアデルを見上げて真剣な表情で言った。
「レギオン……あなたのお父様のことだって、不幸にするのよ」
「構いません。俺に優しくしてくれて、一緒に食事をしてくれて、名前を呼んでくれたのはあなただけです。アデル。俺がゲトウェル伯爵家の子であることは、有利に使えませんか? あなたの役にたちませんか」
レギオンがそう言うと、アデルの背後でリードは頷いた。伯爵家の内部で、レギオンがスパイとして情報収集などをするのならば、役にたつだろう。
その考えを咎めるようにアデルはリードを睨む。
「……今は私への恩でそう言ってくれていたとしても、復讐に加担して自分の家が落ちていく様を見て心変わりしない保証はないでしょう? 伯爵家に縁もゆかりもない人ならばいざ知らず」
「……心変わりしないと、誓えます。ですが、俺の恩へ報いたい気持ちだけでは信用出来ないのならば事情を全てお話しします、これは俺の復讐でもあるんです」
レギオンがそう言うと、アデルの瞳が少し色を変えた。
互いに深入りしない方がいいだろうと詳しい事情は聞かなかったが、レギオンにはレギオンの事情があるようだ。
「俺の母は、ゲトウェル伯爵に無理矢理攫われて自分のものにされました。俺を授かったことも辛かったようで、出産後すぐに亡くなっています」
その言葉に、アデルの顔に怒りが浮かぶ。
母の為に怒ってくれるアデルに、レギオンは嬉しくなって目を細めた。
「……そして母にしか興味のなかった伯爵は俺には見向きもせず、俺はそのまま屋敷で奴隷のように働かされて、日常的に暴力を受けながら今日まできました。他に行くところも、やりたいこともなく、ただ惰性で生き永らえてきただけです」
アデルの握りしめた拳が震えているのを見て、若い女性に何て話を聞かせてしまったのだろう、とレギオンは後悔した。でも、自分の気持ちを分かって欲しかった。
「……だから、俺に初めて優しくしてくれたアデルには、恩に報いたいと思っています。俺は父にも、伯爵家にも何の未練もありません、これは俺と母の復讐でもあります。……どうか、手伝わせてください」
「アデル?」
レギオンが跪いたまま下から覗き込むと、アデルは大きな青い瞳に涙をいっぱいに溜めていた。
「アデル!?」
驚いてレギオンが再度呼ぶと、アデルは上から彼に覆い被さるようにして抱き着く。ぎゅっと細い腕に抱きしめられて、レギオンは震えた。
「娘が娘なら、父も父ね! レギオン、なんて可哀相なの……あなたも、あなたのお母様も、もっと早く私が出会っていたらよかったのに! そしたら、私、小さなあなたを抱きしめて、そんな辛い思いはさせなかったのに」
ぎゅうぎゅうと抱きしめながら、アデルはゲトウェル伯爵への恨みを吐き、レギオンを労わる。
「……分かったわ。レギオン、あなたの復讐も一緒に果たしましょう」
「いいんですか……」
「ええ。私は一度拾った子は、ぷくぷくになるまで手放したりしないの。あなたのことも身も心もぷくぷくにしてあげるわ」
にかっ、と笑ったアデルの笑顔は、今日一番に輝いていた。レギオンも嬉しくて、つい抱きしめ返す。
「嬉しいです。必ず役にたってみせます。だから、俺を捨てないでください」
ぎゅっと力を入れると驚いたらしいアデルが小さく悲鳴を上げ、すぐさまリードによって引き離されたのだった。