隠密訓練
俺たちの住む城から馬を30分ほど走らせると、「迷いの森」と呼ばれる鬱蒼とした森に着く。
はるか昔、「神話の時代」より存在するとされるこの森は足を踏み入れたら最後、2度と戻って来れなくなる人喰い森として国民から恐れられている。
なぜ人が消えるのか。
これには大きく2つの理由がある。
まず森全体を覆う濃密な霧。
これにより中に入った者は完全に方向感覚を奪われてしまう。
そしてそこにつけ込むのが二つ目の理由。
魔物だ。
霧の中で息を潜め、獲物が狼狽えた隙に狩る。
中には魔物のみならず魔獣もいることがあり、戦う術を知らない一般人は5分もせずに骨すら残らず消え去るだろう。
こんな危険な場所に足を踏み入れるのは精々身の程知らずの冒険者くらいだが、今日は誰もいないのか森はひっそりと静まり返っている。
一攫千金を狙った冒険者達を食い散らすことを日課とする魔物たちも、暇そうに欠伸をする始末だ。
だがそれは見ることの出来ない者の視点の話。
もしここに見ることが出来る者がいたら──
樹々の間を音もなく飛び交う、2人のエプシルの姿を見出すだろう。
この2人のエプシル──俺とタンドラは今、隠密行動の実践練習に励んでいる。
誰にも悟られないまま、敵地に侵入するためだ。
それに隠密行動は魔物への対策にもなる。
魔物は全て魔眼を所持しているので、魔力の流れから獲物を確認する。
だが目にも止まらぬ速さで移動する俺等からは──魔力の乱れを感じられない。
なので魔物にとってはいない存在なのだ。
これは本当にごく一部のエプシルのみが持つ、魔力を意図的にゼロにする技が為せること。
俺が今取り組んでいるのがまさにこれだ。
魔眼の扱いに苦しんでいた日々から5年が経ち、俺は15歳になっていた。
12歳のある日、俺は父の言葉通り突然魔眼の扱いに目覚めた。
それから3年の間に俺はメキメキと力を伸ばし、今はもうタンドラとほぼ互角の実力を有している。
そして10年に渡る修行の日々のフィナーレを飾るのが、この隠密行動の特訓だ。
最後にしては地味な訓練だと思うだろう。
だが、実はこれ。
全ての技術の中で最も習得するのが難しい、言わば最難関と呼べる技なのだ。
それは何故か。
理由は単純明快。
魔力を完全に消すには、流暢な魔眼の扱いが求められるからだ。
通常のエプシルだったら、これの習得に3年はかかるのが常識である。魔眼を扱うのと魔力を扱うのとは、全くの別物だからだ。
だが魔力を完全にコントロールすることができる【神眼】を持つ俺は、たった1週間でこの技を習得した。
そして今やっているのはその実践練習。
国内随一の魔物地帯で腕をならしているのである。
タンドラが先頭を行き、俺がその後を追う。
通常の森だったら追跡にさして苦労はしないが、ここは迷いの森。濃密な霧が1メートル先の視界をも奪う。
こういう状況で互いの位置を確認し合うのは不可能に近いだろう。
そしてこういった場合に用いられるのが──
「グルルルル、ジュルシュハァァ」
この訳のわからない奇声。
普通に声を出しては敵に悟られるので、魔物に擬態しているのだ。
この暗号に気づく者はまずいない。
森の中では魔物の声が聞こえるなんて当たり前のことだからだ。
ちなみに上の声はこの辺りではポピュラーな魔物である《死骨犬》を模しており、
「20メートル先ニ魔物ノ群レアリ」
という意味である。
この他にも10種類ほど魔物のバリエーションがあり、状況や場所に応じて使い分けることとなる。
(父上は10メートル先、2時の方向か)
声の反響から、俺は父の居場所を推測する。
そしてそれに合わせて向きを変えて右斜め前の枝に飛び移り、そのままさらに直進する。
それから間もなく、足元約20メートル下に大きな魔力乱れが見えてきた。
先程父が言っていた魔物の群れである。
推測するに、声を模させていただいたスカルドッグだろう。
群れになって休んでいるらしい。
こちらの動向に気づく気配はない。
ということは──
(魔力は完全に消せてるな)
修行の成果を実感し、ぴょんぴょん移動しつつ俺は顔を綻ばせる。
そしてそれからほどなくして。
父から再びメッセージが届いた。
「ガルル、グルルグルジュルル」
(30メートル先ニ魔獣アリ、討伐セヨ)
(魔獣!?)
俺の顔から笑みが消える。
無理もない。
魔獣は、簡単に言うならば魔物の上位互換である。
最も弱い種類でも街一つ簡単に消し飛ばせるし、レッドドラゴンなどの最上位種になると最早災厄級だ。
以前最上位種が出現した時には国が一つ消し飛び、その前には新たな湖が形成された。
Sランクの冒険者パーティを10個近く集めて、やっと最下位種に太刀打ちできるか怪しいレベルなのだ。
が、たった40メートル先にそんな化け物がいるという。
魔獣は魔物と違い、魔力の乱れではない何かで敵を視認する。
ので、この隠密行動は全く通用しない。
とっくにこちらの存在には気づいているだろう。
その証拠に、
「グォオオォォオオオォォ!!!」
と雄叫びを森に轟かせている。
「マジかよ……」
枝に飛びつきつつ、俺は苦笑と共に思わずぼやきを漏らした。
それからすぐに、枝に立ったまま地上を見下ろす父に追いついた。
「父上! 魔獣は……?」
タンドラは何も言わずに前方を指差した。
それに沿わせるように俺は視線を前に向ける。
どこまで続いていそうな濃霧。
普通だったら何も見えないが、俺の魔眼はひっきりと捉えていた。
10メートルほど先に立つ、高さ40メートルほどの大樹。
その影にいる、それ。
今まで見たことのない規模の魔力の乱れだ。
魔物のそれとは格が違う。
初めて目にする魔獣に、俺は思わず声を詰まらせた。
「グォオオォォオオオォォ、グォォオォオォ!!」
2人が並んでいることに気づいた魔獣は、再び声を張り上げた。
空気がビリビリと震える。
「俺」
「…‥はい、父上」
怪物の気迫に身体が固まっている俺にタンドラは声をかける。
その呼びかけに対し、俺はなんとか声を捻り出した。
「あれを1人で倒して来い」
「…………え?」
サラッととんでもないことを言ったタンドラ。
俺は思わず気の抜けた返事をしてしまった。
え?
魔獣を、1人で?
(父は俺に死ねと仰っているのか?)
混乱する俺を横目に、タンドラは言葉を続ける。
「魔力の乱れ方から推測するに、あれは《二頭牛》──魔獣の中でも最弱の個体だ。今のお前なら余裕で相手できるだろう」
「でも相手は魔獣ですよ! いくらなんでも──」
俺が声を荒げて反論しようとした時。
「グァアアァアァアァァアァア!!」
3度目の雄叫び。
そしてズドン、ズドンと鈍い足音を響かせながら二頭牛がこちらに向かい始めた。
「……このまま何もしなかったら2人仲良く二頭牛の胃袋に収まることになるが、いいのか?」
「…………」
「安心しろ。もしやばくなったら私が助けに行く。それに──」
「お前なら、倒せる」
タンドラは息子の肩をパンと叩く。
俺は観念したようにため息をついた。
「……分かりました、やってやりますよ。死んだらあの世で二千回呪いますからね!」
そう叫びながら俺は枝から飛び降り、次の瞬間にはもう二頭牛に向けて駆け出していた。