愛
「また来てね」
これが最期の言葉だった。
ある人は私にこう言った。
「人生はカンニングだ。自分の人生を良くしたければたくさん本を読みなさい。人の話を聞きなさい。
失敗した人が近くにいれば、自分も同じ失敗をしないように学びなさい。"成功も失敗も経過は似ている"」と。
あの頃の私がすでにこの言葉を聞いていたら…。
カンニングできていたら…。
私はあの日、失敗せずに済んだのだろうか。
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私には大好きな祖父母がいる。とても優しくいつも笑って私の名前を呼んでくれる。
でも今、祖母はいない…
おばあちゃんとの思い出はたくさんある。
私には2つ離れた妹がいて母が出産のために入院している時おじいちゃん、おばあちゃんと一緒にお見舞いに行った。
私が母と別れるのを寂しがらないようにと、帰りにいつも私がねだったお菓子を買ってくれた。
予防接種に両親が付き添いができなかった時、当時私は注射がすごく嫌いだった。
診察室に入りあとは腕を出すだけだったが、どうしても注射をしたくなくて診察室を飛び出すどころか、足には自信があった当時の私は、大人たちも追いつけないくらいの速さで病院から出ていった。
そんな時も怒らず、注射が終われば「あんなに早く走って逃げるとは思わなかった。でも注射頑張ったね」と笑っていた。
小学校の頃はバレー部に入っていた。
最弱のチームで試合に出ても最下位を争うようなチームであったが、どんなに遠い場所でも、どんなに蒸し暑い日でも、どんなに寒くて雪が降る日であっても2人で応援に来てくれていた。
それとおばあちゃんはとても料理が上手かった。
小学校の運動会では毎年、豪華なお弁当をたくさん作って来てくれていた。
おばあちゃんの家に行った時は2人で一緒にお菓子を作ったり、料理を教えてもらった。
いつもどんな時でもおばあちゃんは笑っていて、優しかった。
私が中学生の時、おばあちゃんは病気になった。
当時何の病気か詳しくは知らなかった。
定期的に通院をしているのかと思えば、いつからか週に2日通院し透析治療を開始していた。
私には何も分からなかった。
たまに体調が悪そうなときもあったがしばらくすれば「良くなった」と言い、いつも通りのおばちゃんがいた。
しかし透析治療も長く続き病状も進行していくと、今まで見ていたおばあちゃんとは少し違い、身体は痩せ、会いに行っても寝込んでいたり笑顔を作るのも難しいのか、今まで見たことのないおばあちゃんだった。
そんな変わっていくおばあちゃんの姿に私はなかなか頭が追いつかなかった。
月日は流れ私は高校生になった。
おばあちゃんは相変わらず透析治療を続けていた。
しかし病状は良くなることはなく体調が優れない時の方が多かった。
だからおばあちゃんの料理を食べることも少なくなったし、一緒に何かを作る事もなくなった。
"もう前みたいに過ごすのは難しいのか…“
そう感じる事も多くなった頃、通院していた病院から設備の整った大きな病院に手術のため転院する事が決まった。
“手術という選択肢がある。手術をすれば良くなる”
おじいちゃんはもちろん家族も少し安心していた。 私も少しでも体調が今より良くなるのなら良かったと思っていた。
久しぶりに少し小さな光が見えた時だった。
転院した病院は車で1時間程かかる少し遠い病院だった。休日になると両親がお見舞いに行くのに私も欠かさずついていった。
「忙しいからそんなにいつも来なくていいよ」
毎週お見舞いに行く私におばあちゃんはこう言った。当時私は学生であったため勉強のことや、友達と遊びに行くことに気遣って言ってくれた。
確かにあの頃、時期も時期であったため勉強は忙しかった。
だから私は課題を持って行き、病室や病院のレストランで勉強していた。
今思えばすごく気を使わせたのだと申し訳なく思う。
だけど高校生の私にはいつもと違う雰囲気と言うことが楽しかった。
だからおばあちゃんの思いも知らず続けた。
ここまで聞くと私がおばあちゃん思いの良い話に聞こえるが実は少し、下心もあったかもしれない。
だって昼前に行けばレストランで美味しいご飯が食べれたし、学校帰りであれば病院の入り口近くに人気のカフェが入っていて、帰りに親が買ってくれた。
しかもその時期の期間限定ドリンクにハマりいつも飲んでいた。
そんな週末を何度か繰り返し、ついに手術2週間前の週末、いつものように私は課題を持って両親とお見舞いに行った。
何度も通った病室までの道のりは慣れたもので広い複雑な病院の中も迷わず進んだ。
進んだ先におばあちゃんの病室が見え、そこにはおじいちゃんもいた。いつもと変わらない光景。
「久しぶり〜」
いつものように2人に挨拶した。
しかし目に写ったのはいつもの2人の笑顔ではなく、険しい顔をした2人だった。
“何か違う”
多分、私だけではなく両親もそう思ったはずだ。
今度2人の口からどんな言葉が出てくるのだろう。
怖かった。嫌な予感がするから聞きたくないが、このモヤモヤを解消させたいとういう気持ちもあった。
だけどそんな選択の有無もなく、おじいちゃんは口を開いた。
「先生が手術の説明を話しに来た。今の状態から見て手術をしても良いが、多分良くならないと言われた。最悪な場合も考えた方がいいって…。
前の病院で手術ができると言われたからこっちに入院したのに…」
理解が追いつかなかった。
最悪な場合?
考えてもいなかった言葉を急に言われ、おばあちゃんの顔を見ることが出来なかった。
「ちょっと納得できない。入院してこんなに時間があったのに今それを言うなんて。
さすがにもっと早くわかってた事じゃないのか。」
今まで見たことのないおじいちゃんだった。
私にもこの説明の意味は分かった。
手術をしてもしなくても結果は同じ“死”を表すのだと。
「もう1回先生と話してくる。ちょっとこの説明はあんまりじゃないかと思う」
そう言いおじいちゃんは病室を出た。それを追いかけるように両親も出ていった。
確かにそうだ。少しでも良くなる見込みがあって入院したのに、突然前触れもなくこんな現実を突きつけられたのだから。
2週間後には手術して家に帰れる。みんなそう思っていた。
3人が病室を出てすぐに私も病室を出た。
だけど私は3人を追いかけなかった。おばあちゃん1人を病室に残し歩いた。
人が少ない場所に行きたかった。1人になりたかった。
何度も通った病院だからお昼を過ぎた今のこの時間なら、食堂に人がいない事は分かっていた。
なのにこんな時に限って、ある家族に先を越されていた。
次はどこに行こう。
そう考え前を見るとエレベーターの隣になぜか1つだけ椅子が置いてあった。
その椅子はまるで私を待っているかのように思えた。
なんでこんなところに椅子があるのだろう。座っても良いのだろうか。などという疑問も浮かばず私はその椅子にそっと座った。
1人になりたいと思っていたが、今にも溢れそうなこの涙を堪えるのはもう限界だった。
普段人前では泣かない。
涙を堪える事には慣れていた。だけどこの時だけは、、この時だけはおばあちゃんの前で泣かないことだけが精一杯だった。
もう限界だった。
エレベーターの隣に置かれた椅子に座った私は人目も憚らず泣いた。
次々に涙が溢れて止まらなかった。
今まで当たり前に存在した人がある日を境に突然いなくなるなんて、うまく想像もできないのに、ただそれがとても悲しくて胸が締め付けられると言うことだけが分かった。
どれくらい泣き続けただろう。
エレベーターの開く音と出入りする足音、廊下を話しながら歩く人の声、リハビリ中のスタッフと患者の話し声や、ナースコールに対応する看護師。
とにかくたくさんの人が私の後ろを通り過ぎた。一度だって涙が止まる事はなかった。
「どうしたのあの子」
「えっ泣いてる」
たまに聞こえてくる話し声は確かに私に向けられたものだっだろう。
これだけ広い室内で近くにトイレだってある。
冷静に考えればこんな場所で泣いているのは異様な光景だっただろう。
しかし長い時間ここに座り、泣き続けていても誰ひとりとして私に声をかける人はいなかった。
さっきから何度も同じ部屋でナースコールが鳴っている。鳴るたびに何人もの看護師が対応するが、まるで私が透明人間になったかのように声をかけるどころか、変わらない速さで後ろを通り過ぎていく。
別に同情や慰めが欲しかったわけではない。
ただ普段なら異様なこの光景を前に、まるで何も見えていないかのように通り過ぎていく看護師達の足音を聞き
“あぁそうか、病院はそういう場所なのか。
今の私に起きている現実は病院では何も珍しくもない日常なんだ”
やるせない思いが募っていった。
やっと少しずつ落ち着いてきた頃、聞き慣れた声が私を呼んだ。
「ここにいたの。おいで」
振り向いた先には母がいて、私の顔を見てとても驚いていた。
確かにもう誰が見ても泣いていたのだと分かるくらい泣き腫れていたから仕方がない。
母は何も言わずにいつも通りに接してくれた。
病室に戻るために涙を拭き立ち上がる。
そして私に泣く場所を作ってくれた椅子を背にして歩いた。
「もう1回先生と話して詳しく聞いた。可能性はゼロではなくて〜〜〜」
と手術の流れ、それによりどういう効果が得られ、どういう経緯を辿るのか。
また多少のリスクについても話されたとおじいちゃんは言っていた。
そして最終的には手術をする方向に話は進んだらしい。
なんとも言えない空気が流れていて、次に口を開く者はいなかった。
おじいちゃんはここまでの話をすると私たちに
「今日は帰ってもいいよ」と言った。
それぞれ色んな思いがあったと思うが両親もおじいちゃんの思いを察し、2人に別れを告げ病室を後にした。
病室から駐車場に行くまでの道のり、私たち家族は黙って歩いた。何も話す気にもならなかった。
しかし入り口のカフェを前にした時、この空気を紛らすように前を歩いていた父が振り向き
「今日はいつもの飲まなくていいのか」と笑顔を作り聞いてくれた。
「今日はいらない」
「飲め飲め〜いくらでも買ってやる」
「そうよ〜どれがいいの。いつもの飲みな?はい行こう行こう」と母も言った。
こんなの飲んでる場合じゃないだろうと思ったが、2人なりの気遣いを察し、いつものようにカフェに入り注文した。
帰りの車の中の空気はいつもと違った。
今の心情とは正反対なリズムを刻む音楽も、よく晴れた空さえも、その時の私たちには場違いだった。
そしてこんな時でも甘いドリンクが口の中で広がり素直においしいと感じている自分自身に喪失した。
家に帰ってからも、病院での出来事は離れることはなかった。
それからまた新たに週が明けた。いつもと変わらない毎日。
相変わらず勉強の内容や多い課題に苦しめられていた。
そしてやってきた週末。
ここにきて少し疲れが溜まってきた感じがあった。
“今日は病院行かなくてもいいかな…”
そんな思いが一瞬頭を過った。でもすぐに我に帰り荷物をまとめて車に乗った。
1週間ぶりに会ったおばあちゃんとおじいちゃんの姿。1週間前とは違い気持ちを切り替えていつもの笑顔で話していた。
そしてこの日は病院には内緒でおばあちゃんの好きだった“ある事”をした。
ここに記す事はできないが、2人で部屋のカーテンを閉めドキドキしながら過ごしたあの時間は今でも鮮明に覚えている。
おじいちゃんと両親もカーテンの外にいて誰かが来ないか見てくれていた。
少しの時間ではあったが満足したのか、久しぶりにおばあちゃんの笑った顔を見た。
そして何事もなかったようにみんなで話をしていると、おばあちゃんの部屋に昼食が運ばれてきた。
そのタイミングで私たちもレストランへご飯を食べに行くことになった。
「いってらっしゃい。今日は何食べるの?」
「ここのレストランいっぱいメニューあるけど今日もカツ丼かな」
「へーそんなにあるんだ。ちゃんぽんとかもある?」
「あるよ」
「いいなぁ。退院するときちゃんぽん食べに行こうね」
何気ない会話が嬉しくて胸がいっぱいになった。
「いっぱい美味しいもの食べておいで」
そう言われて私たちは病室を後にしレストランへ向かった。
レストランから戻り、いつのものようにたわいの無い話をし、あっという間に時間が過ぎていった。
そろそろ帰るかと、帰る支度を始めた。
何もと変わらない風景。
いつものようにちょっと照れ臭くなりながら手を握り別れの挨拶をする。
「じゃあバイバイまた来るね」
何も変わらない。
いつもと同じ。
ここでいつもおばあちゃんは
“ううん無理に来なくていいよ”と言う。
しかし手術を3日後に控えていたからなのか、この日だけは違い、ベッドの柵を掴み前屈みになり
「うん、またきてね」
と優しく…笑って言った。
ここまでが私が見た最期のおばあちゃんの姿で、綺麗な思い出だ。
それからまた1週間が始まった。
今週はやけに身体が重い。月曜日を終え火曜日に入る。
火曜日はなかなか面倒な教科が揃い最も憂鬱な曜日だった。
しかしそんな憂鬱な教科も全て終わり放課後になった。
友達と話をしながら帰っているときに携帯の電話が鳴った。
父からだ。
「もしもし」
「もう学校終わったのか?明日おばあちゃんの手術だから今から病院に行くけど一緒に行くか?」
父はお見舞いに行くために早めに仕事を終わらせたみたいだ。
母はまだ仕事が終わっておらずいけない。
私もちょうど学校は終わったが、ここに来てなぜか病院に行くのを面倒に思ってしまった。
そしてこの日は珍しく妹も病院に行くみたいだ。
“今までずっと行ってたし、今日は妹が行くから私は良いよね”
自分に都合よく言い聞かせ
「ちょっと課題もあるし、明日手術だから学校終わりに行くから今日は行かない」
「ああそうか。まあ課題があるなら仕方ないな…。じゃあこのまま行ってくる」
「うん。おばあちゃんによろしく。明日行くって伝えて」
「了解」
父との電話を終え、友達と何気ない話をしながら私は家に帰った。
そして水曜日、今日も1日授業を受け終わり放課後。
外には母が迎えに来てくれている。そこに私よりも早く終わった妹の姿もある。
「まだ手術してる。でも18時過ぎには終わるんじゃないかな?」
「そっか。じゃあちょうど病院に着いたくらいかな」
なんて呑気な話をしていた。
病院に着き家族の待機室に入ると、他の患者の家族もたくさんいた。
待機室には電話があり、その電話が鳴ると手術の終了を教えてくれる。
その度に他の家族たちは、ほっと安堵の息をつき笑顔で部屋から出て行く。
そんな家族達を何組見送っただろう。
電話は鳴るものの私達に宛てた電話はかかってこない。
終了予定時刻から3時間経っても電話はかかってこず、1組私たちのようにずっと待っていた家族もついにはいなくなっていた。
「遅いね」
何も分からず待たされていたのでみんな心配でたまらなかった。
時間も遅くなり日付が変わろうとしていた。おじいちゃんは私と妹のことを心配してくれ、明日のためにも帰って良いと言った。
何より今どういう状況なのか分からなかったが父も、私達を連れて帰るよう母に言い、私たちは家へ帰った。
1時間の道のりで家に着いた頃、母の携帯に父からの電話が鳴った。
「もしもし。…………ああ良かった。うん伝えとく」
母は電話を切り私たちに無事に手術が終わったことを伝えた。
みんな張り詰めていた空気が一気に解けた。
次の日の朝、目が覚めリビングに降りると父がいて、
「昨日は時間がかかったけど無事終わったよ。また日曜日みんなが休みの時にお見舞いに行こう」
と言った。
それから日曜日までおじいちゃんは病院にお見舞いに行きおばあちゃんと面会したりしていた。
その話を聞いて早く会いたいなと思っていた。
そしてついに日曜日、家族みんなで病院に行く準備をしている時、父の携帯の電話が鳴った。
「はい、はい。わかりましたすぐに行きます。」
険しい顔だった。
「おばあちゃんの状態が悪くなったらしい」
それだけを言いみんな用意し病院へ向かった。
病院に着くとおばあちゃんはICUに入っており私と妹は面会出来なかった。
この面会ができなかったのはおじいちゃんの希望だった。
私と妹はいつも綺麗な顔をしたおばあちゃんしか見ていなかったから、もうすでにチューブに繋がったおばあちゃんの姿をおじいちゃんは見せまいとした事だった。
「お願い私も中に入れて」
いつもは私に優しいおじちゃんでも、この時ばかりは絶対に中に入れてくれる許可を出してくれなかった。
部屋に入れない私は、中に入るおじいちゃんの背中と閉まってしまった扉をただ見つめることしか出来なかった。
この日はそれ以上状態が悪くなる事はなかった。
そのため一度帰宅する様に言われた。
しかし状態としては悪い事には変わりなく、いつどうなってもおかしくは無いと医師は私たちに伝えた。
夜が明け月曜日の朝、父と母は病院に行くために仕事を休んだ。
母は私達にも学校を休んで良いと言った。
だけどなぜだろう。
今のおばあちゃんの状態がどんな風に悪いのか。
ICUという場所が普段の病室とどう違うのかもしっかり理解していた。
妹は中学生。多分大まかに状況は理解していたと思う。
何が起きるか分からない「危機」に対してすぐに対応出来るためになのか、妹は学校を休むと言った。
しかし私の悪いところで、こう言う時素直になれない。
手術前日、自分の勝手で今までどんなにお見舞いに行くのをきついと思っても欠かさず行っていたのに、よりによって前日だけは行かなかった。
最期に見た「また来てね」と言ったあのおばあちゃんの顔がずっと忘れられなかったのに…。
「悪いけど私は学校に行く」
その言葉を聞いて妹は
「なんでこんな時に行くの!休めばいいじゃん!」
と言った。
「ごめん。でも何かあった時は時間もかかるし面倒だと思うけど迎えに来てほしい」
そう伝え私は学校に行く準備をした。
私がこの行動をとったせいで、何かあった時にすぐに対応できるように母は病院には行かず家で待機してくれていた。
まったくこんな時に限って本当に自分勝手だなと思った。
今考えてもひどいくらいの自分勝手だ。
本当なら素直に病院へ行きたかった。
誰もが理解していた「死」が確実に近づいているのに…。
「死」を前に人は無力だ。
無力だからこそ残される者は、その人に向き合わなければならない。
私がおばあちゃんの最期としっかり向き合う形とは、あの時誤った自分の選択を最後まで貫く事だと思っていた。
例えその私の誤りをおばあちゃんが許してくれていたとしても…。
授業が始まった。
集中しようとしてもなかなかできない。
この時私は中庭が見える窓際の席で、ちょうど担任がこちらに歩いているのが見えた。
"もしかして“と思った。
しかし違う用事だったみたいだ。
担任の姿が見える度に、話かけられる度に鼓動は早くなった。
そして何事もないまま学校が終わり母の迎えに来てくれた車に乗り病院へ向かった。
「おばあちゃん大丈夫?」
すぐに聞いた。
「お昼から緊急手術が始まってまだ続いてる」
病院へ着いてまたあの待機室に入った。
この時もいつまで経っても呼ばれることはなくとうとう夜中の0時前になった。
看護師がやってきて、まだ手術は続き大変危険な状態であると告げた。そして一旦家に帰るようにも言われた。
それを拒否することはできず待機室を後にした。
そして私達家族は手術室の扉の前にに立った。
そして閉ざされた扉の前でおじいちゃんはこう言った。
「おばあちゃんもう少しで0時になるよ…。お前の誕生日だ……。
一回帰るけど頑張れよ。またすぐに来るから…もう少し頑張れよ」
震えるおじいちゃんの声を初めて聞いた。
例え聞こえなくても私も想いを伝えたかったのに、私は声に出すことができずただ泣きながら扉に向かい心の中でおばあちゃんに伝えた。
それから病院を出て駐車場を歩いていた時、ちょうど0時になった。
ここにきてやっと自分勝手でわがままな私自身を責めた。
みんなの1番後ろを歩いていた私は、意地を張っている場合じゃないと目を覚まし、手術室の方向であろう場所を向き今度はしっかり声に出し
「おばあちゃん…おばあちゃん日付が変わったよ……誕生日おめでとう…」
精一杯の思いを伝えた。
次の日も早く起きこの日は学校を休み病院へ向かった。
遅くまで手術をしていたみたいだ。そして待機室の中へ入る。
するとあの電話が鳴った。
その電話は私達家族に宛てられたもので、ICUに来てくれと言う電話だった。
おじいちゃんと、お父さん、お母さんは中へ入る準備をした。
私も中に入れてほしい。ちゃんと覚悟はできていると伝えるも、やっぱりこれだけは叶わなかった。
妹と2人でどれくらい待っていただろう。
ICUから出てきた3人の姿が私達に近づいてきた。
そして父は私達にこう告げた。
「たった今、10時48分逝きました」
息を引き取る最期がどういう状況だったかは今でも聞けず詳しくは分からない。
だけどたくさんのチューブに繋がれて、薬剤を使うのに耐えきれなくなっているおばあちゃんに、これ以上治療を続けるのは可哀想だと、判断した事だと言う。
晴れ渡った空が私の心をより一層悲しくさせた。
綺麗な景色は思い出をより美しくし、寂しさに変えた。そして同時に悲しさや後悔が押し寄せてきた。
しばらく待って霊安室に呼ばれた。
質朴に整えられた場所にまだ顔の見えないおばあちゃんの形が見えた。
心の中で何度も何度も謝った。
おばあちゃんの最期の言葉や表情が鮮明に思い出される。
目の前にいるおばあちゃんはもう目を開けないし、私の間違いを許してくれるどころか、初めて怒ることもしてくれない。
そっと布を取り久しぶりに見たおばあちゃんの顔は薬剤の副作用で浮腫んでいた。
そして最期の最後まで少し笑っているように見えた。
無力な数日が終わった時だった。
………………………………………………………………
それから5年の月日が流れた。
おばあちゃんが亡くなってから今まで、私の悲しみが薄れる事は一度だってない。
不意に思い出し1人涙を流す。
誰だって失敗する事はある。
この起きた失敗は消す事も修正する事もできない。
だけど、起こるかもしれなかった失敗を回避する事はできる。
冒頭に言ったように私はある人に
「本を読みなさい」
「人の話を聞きなさい」と言われた。
そこから学びなさいと。
必ずしもそこで読んだ事、聞いた事が自分の人生の失敗の回避につながるわけではない。
小さな事であったが失敗を回避できた事もある。
今回、私が記したこの失敗を誰かが読んでくれて、起こるかもしれない失敗を少しでも事前に回避できたらいいなと思う。
そして私がこれを書いているときに1つ気づいたことがある。
それは私が"別れ“をこんなにも苦しく思うのはとても幸せな事ではないかと言うこと。
私に限らず多くの人は別れを辛く悲しく思い、涙を流すだろう。
確かに別れは辛い。
だけどどんなに辛く悲しい思い出がそこにあったとしても、別れた後に思い出されるあの思い出たちと、歩むはずだった未来を“美しい”と感じることができて、同時にその儚さを感じるのだろう。
それに気づいた時、少しだけ心が軽くなった。
辛いだけだと思っていた中に、温かさがあったから。愛があったから。
人は必ず死んでしまう。
だけど愛があるから心から人を好きになれる。
そう考えたらほんの少しだけ、
別れを受け入れられるようになった。
だからここに最後におばあちゃんに伝える。
あの日、会いに行く約束を破ってごめんなさい。
今日は誕生日だよ。おめでとう。
そしてたくさんの愛をありがとう。
"時に愛は間違いを正してくれる。私たちは愛なしでは生きていけないのです“