24. 欲望
その日は雲一つない晴天であった。
(まるで僕の心のようだ……)
浮き立つ気持ちを抑え、ダリウスは執務室で書類をめくる。
昨夜のエルリアーナとの甘いひと時を思い出すと、つい口元が緩んでしまう。
(エルリアーナがあまりに可愛くて、衝動的にキスしてしまったけど……)
重要なのはその後である。
抱きしめた時に拒まれなかったのだ。
しかも、遠慮がちに抱きしめ返してくれた。
これは自分の想いを受け止めて貰えたと取ってもいいのではないだろうか。
顔がニヤけるのを止められない。
(よし。あともう一歩だ。次で何としてでも言質を取ろう……)
(……となると、是非とも第二弾に向けて練習しておかなければ)
そう。キスの第二弾である。
ダリウスは机の上の薄汚れたクマにチラリと目をやる。
クマでキスの練習をする気満々だ。
騎士の服を身につけたぬいぐるみを見て、ふとエルダがやけに静かなことに気がついた。
「エルダ? なんか今日はやけにしず……」
エルダは心ここに在らずといった感じで部屋の片隅に突っ立っていた。
頬を上気させ、焦点の定まらない潤んだ瞳でぼんやりと窓の外を見ている。
その表情が妙に艶かしくて、ドキッとする。
ダリウスは慌てて目を逸らした。
トントンーー
扉をノックしてカークが顔を出した。
「殿下、おはようございます」
「おはようカーク。ん…? 今朝はアランのシフトじゃなかったかな?」
「ははは、そうなんですよ。交代しました。アイツ自分の筋肉が好きす……」
ガシャン!! カラーン!
エルダがそばにあった椅子をひっくり返し、腰の剣を床に落とす。
「き、き、キス!?」
「? アランのやつ自分の筋肉が好きすぎて上裸で宿舎をウロウロしてたら腹を壊しまして。エルダどうした?」
「い、いや。なんでもない」
エルダの顔は真っ赤だ。
「今頃宿舎でエイジャクス隊長に説教されてますよ。アイツいつか行きす……」
ガチャーン! パリン!
エルダがテーブル上の花瓶を倒し割る。
「?……行き過ぎの自己愛で身を滅しますね、きっと」
「す、す、すみません。ホウキとちりとりを…か、借りて来ます」
エルダはあたふたと部屋を出て行った。
その顔はりんごのように赤い。
「どうしたんだろエルダ…………」
ダリウスはエルダの異常な様子を心配する。
今日の彼女は普通じゃない。
カークは腕組みをし、眉間に皺を寄せて考える。
「……エルダのやつ……『キス』って言葉に反応しましたよね、今?」
そして忌々しげに舌打ちをする。
「さてはエイジャクス隊長とキスでもしたな」
「えっ!」
ダリウスは驚きで一瞬息が止まった。
「……あれは、絶対そうですね。クソ……魔王の奴め案外手が早いな」
カークはエイジャクスを呪う言葉を吐き、「アランに報告しなくては」などと呟いている。
(エルダがエイジャクスと口づけをーー!?)
ダリウスは自分の手が震えていることに気づき、慌ててギュッと握って誤魔化す。
胸がキリキリと締め付けられるように痛んだ。
二人が付き合っているらしいと聞かされても、心のどこかで本気にしていなかった。
二人の仲はそれほどうまく行っていないのではないか。
すぐに別れるのではないかとたかをくくっていたのだ。
窓の外をぼんやり眺めながら物思いに耽っていたエルダの表情を思い出し、ダリウスは苛立ちを募らせる。
(エイジャクスを想ってあんな顔を……)
胸がムカムカする。
我慢が出来ない……気が狂いそうだ。
カークが退室して一人になるや否や、ダリウスは机の上にあったものを全て乱暴に床にぶちまけた。
(エイジャクスがエルダに触れた。エイジャクスがエルダを抱きしめ、頬に手を寄せ、髪を撫で、瞳を見つめ合い、唇を重ね………………)
「……っ…………クソ」
自分でもなぜなのかわからない。
だけど腹の底から激しい怒りが込み上げてどうにもならないのだ。
書類や筆記具と一緒に床に落ちたクマにインクがこぼれてシミをつくる。
汚れてしまったクマを見てダリウスは我に返った。
(何をやってるんだ僕は……)
自分だってエルリアーナといいムードだったではないか。
キスして浮かれていたではないか。
エルダがエイジャクスと恋人らしいことをすることになんの問題があると言うのだ。
呆れたように頭を振り、身を屈めて落ちた物を拾い始めた。
◇◇◇◇◇◇◇
ちょうどその頃、王宮の正門で見知らぬ若い男が門衛と揉めていた。
「お願いします! 急用なんです! 国王陛下にお取り次ぎを!」
「またお前か。どこの馬の骨とも分からない一般人を国王陛下に会わせられるわけないだろう」
「僕は……実は……ネバンドリアの王太子でして」
男が声を潜めて門衛に打ち明ける。
「ぷははは! もっとマシな嘘をつくんだな」
「本当なんです! ちょっと訳ありでして」
「王子がフラッと一人で徒歩でやって来るとか……ははは!面白いな」
「お願いします!」
「あんまりしつこいと捕らえて牢にぶち込むぞ!」
「捕らえてくれていいから中に入れて下さい〜!!」
「いい加減にしろ。ほら帰った、帰った」
門衛にシッシッと追い払われてしまった男は、トボトボともと来た道を引き返して行ったーー。
◇◇◇◇◇◇◇
その晩ダリウスは夢を見た。
バルコニーでエルリアーナと二人で抱き合っている夢だ。
眠りが少し浅かったのだろうか。
寝ていながらも意識があった。
(ああ……僕は夢を見ているのか……)
自分を見上げ、花のように微笑むエルリアーナ。
(夢の中でもエルリアーナは可愛いんだな……)とぼんやりした頭で考える。
ダリウスは彼女にそっと口付ける。
二度目だからか、あるいは夢の中だからだろうか、余裕があった。
目を閉じ、エルリアーナの柔らかい唇を堪能する。
幸せで……ふわふわした気持ちだ。
エルリアーナといると、いつも優しい気持ちになる。
微笑みながら、ゆっくり瞳を開けるとーー
目の前にいたのは騎士のエルダだった
エルリアーナとキスしていたはずなのに、いつの間にかエルダに変わっている。
少し驚いたけど、すんなり受け入れることができる。だって夢だから。
(夢だからいいよね?)
そう自分に言い訳し、ドキドキしながらエルダの唇に自分の唇を重ねた。
(エルダ……エルダ……!)
たまらずに心の中でエルダの名前を呼んだ。
胸の鼓動がどんどん激しくなっていく。
蕩けそうな唇の感触と髪から漂う甘い香り。
気持ちが昂ったダリウスは、自分を抑えられなくなった。
逃すまいとするように、彼女の腰と後頭部に手を回す。
夢中になって、何度も何度も唇を重ねた。
ついばむように。焦らすように。誘うように……。
(ねえ、エイジャクスのキスなんかより僕のほうがいいって言って……)
甘いキスを繰り返しながらも、心の中では狡猾にチャンスを待ち続ける。
エルダの口がわずかに開くチャンスを。
夢の中のダリウスは、強引に一歩先に進もうとしていた。
エイジャクスがしたことないような大人のキスをしてやる。
もう僕のことしか考えられなくなるくらいのキスを。
昼間見たエルダの色っぽい表情を思い出す。
エイジャクスを思ってあんな顔をするなんて許さない。
僕のことだけを想っていればいい。
身体の力が抜けたエルダがうっとりとした表情でダリウスを見上げる。
(今だ……!!)
ダリウスは唾をごくりと飲み込んで舌先をーー
「…………!!」
暗闇の中、ダリウスは寝台の上でガバッと身を起こした。
心臓がまだドキドキしている。
生々しい夢だった。
片手で顔を覆い青ざめる。
自分はなんてことを…………。
『夢だからいいよね?』何に対して言い訳してるんだ僕は。
自分の中にこんな浅ましく、薄汚い一面があったのか。
優しく温厚で天使のような王子様。
ずっとそう言われて来た。
綺麗なものしか存在しない世界で、穏やかな感情しか知らずに生きてきたのに。
それなのにどうだろう。
今の自分のなんと欲にまみれていることか。
封印しなければ。
こんな邪な感情は忘れなくてはならない。
エルダにもエルリアーナにも知られてはいけない。
自分の好きな女性はエルリアーナだ。
そしてエルダの好きな男はエイジャクスなのだから。




