69 ~歩の記憶 後編~
―――そこで事件は起きた。
翔がボールを持つと、中学生四人が翔を取り囲んだ。意識的に中学生たちがそうなるように動くか、翔の動きが鈍っているかのどちらかの時ぐらいしか、翔が取り囲まれることはない。今日は、どちらも要因だろう。
翔がボールを捕られることも囲まれることもないと思っていた。兄弟たちがゴール前から戻ってくる。
さっきまでとは違う空気を感じる。危ない空気……。
それでも、兄弟たちは翔が切り抜けてくれると思い、力ずくでやれば間に入れることも出来たが、そうはせず、見守っていた。
だが、現実は違った。突然、視界から翔が消えた。サッカーボールは先ほどまでと同じところにある。四人の中学生もいる。翔だけいない。
どこに行ったの?
「うわあぁぁぁー……」
頭上から声が下。だが、見上げても翔はいない。
次の瞬間、ガシャンという、金網と何かが強くぶつかった音がした。
音がした方を見ると、サッカー場を囲っている金網の上の方に赤い何かがついているのが見えた。
そのまま、下に目線を動かしていくと……。
「翔っ!」
後ろにいた稔が頭から血を流して地面に倒れている人の名前を呼ぶ。稔がここまで焦った声で名前を呼んだことは、今までにないだろう。
僕も何かをしたかったが、金縛りにあったかのようにその場から動けず、声も出なかった。
「翔君っ!?」
どこからか満さんの声がして、数分後に、満さんが翔に駆け寄っていったのは見えた。
……翔? 翔?
救急車が来て、翔は運ばれていった。満さんについてきた男性が、一緒に乗っていった。
僕らは、満さんに連れられて、館に戻った。
……翔……。……僕のせいだ。僕が、誘ったから……。
その日は何をする気も起きず、後悔しかない。ずっとぼーっとしていたら、窓の外が暗くなり、少し明るくなってくる。
……寝られなかった……。
初めて学校を休んだ。
まだ入学式はやっていないけど。
このあたりの記憶はあまり残っていない。
その中でも特に記憶に残っているのは、僕たちは遊びに行かなくなった。
サッカーボールを見ると、金縛りにあったように動けなくなるからだ。望たちも同じように動けなくなったり、突然顔が青ざめて呼吸がうまくできなくなったりするのだ。それまで、ほとんど毎日やっていた運動をやらなくなった。
あの日のことを、すぐには理解できずに一カ月経った。ちゃんと、父さんと母さんから話を聞いて、理解するのに、また一カ月かかった。だが、簡単に受け入れられる内容ではなかった。
だって、翔は……。
その間も翔は一向に目を覚ます気配はなかったらしい。
あの事故から三カ月経った日に、父さんから翔が目覚めたという話を聞いた。
すぐにでも会いに行きたかったが、いろいろな検査があるから、と言われてすぐには会えなかった。
会ってもいいという許可が下りたのは、翔が目覚めてから三週間後のことだった。
両親か満さんと一緒に行かなければならないが、とりあえず、許可は下りたのだ。僕と望は、学校から直接病院に行くことに決め、満さんにそう伝える。満さんは快く承諾してくれた。女中は嫌がっていたが、関係ない。
満さんについてきてもらい、翔のいる病室に向かう。女中は待合室で待っていると言っていた。
翔の病室は個室だった。扉を開けてもらい中に入る。部屋の中には、少し大きい縦じまの青いパジャマを着て、点滴が手につながっている者の、前と変わらない翔の姿が病室のベッドの上に会った。窓の外を眺めている。
「翔……。よかった……」
望がほっとしたように言う。翔がゆっくりとこちらを向いた。僕たちを見つめている眼が前と違っている……気がする。
ドアの空いた音にも反応してないし、望の声にもパッと反応してないし……。本当に、翔? 僕たちの知ってる翔?
「……」
翔は何も言わない。無表情のままだ。
「翔?」
望がベッドに近寄り、翔の顔を覗き込む。僕も望についていく。
近くに来て、なんとなく、翔の雰囲気も違う気がした。
「……誰、ですか?」
突然、目の前が真っ暗になったような気がした。翔の言葉を脳が理解しようとせず、ずっと脳内で繰り返されている。前と同じ声なのも余計だっただろう。意識的に理解しようと努力するが、できない。やっとのことで脳が翔の言葉を理解してくれ……た。
「うそ……だよね? 僕らのこと、忘れたなんて……。うそ、だよね?」
珍しく、望が縋りながら言う。僕も縋りたい気持ちで、嘘であってほしいと願いながら、翔を見るが、嘘を言っているときの目ではない。
雰囲気は変わった気がするが、それぐらいは分かる。本当にわからないようだ。沈黙が何よりの証拠だ。
「……」
僕は言葉が出ない。
「満さん、翔は、どうしたんですか?」
隣に立っていた望が振り返って、後ろに立っていた満さんに尋ねる。
「それは……。蓮様に尋ねてください。……私の口からは伝えられません」
「なんで?」と訊こうとして、口を開こうとしたら、病室の扉が開き、父さんと男性が入ってきた。男性は、翔が病院に運ばれた時に一緒に救急車に乗っていた人な気がした。
「歩、望。来てたのか」
「父さん。翔は、どうしたの? なんで、僕たちのこと覚えてないの?」
望が矢継ぎ早に父さんを問い詰める。
「それを、今夜説明しようと思ってたけど、二人がここにいるなら、皐たちも来てもらおうか。満。皐月たちを連れてきてくれ」
「かしこまりました」
満さんは、怜をして病室を出て行った。
父さんと一緒に入ってきた男性が翔に近づく。二言、三言翔と言葉を交わしてから、父さんとも少し話す。
「ありがとう」
「いえ。失礼します」
男性はそう言って、病室を出て行った。
「父さん……」
「なんだ?」
「翔に触ってもいい?」
一回言葉を発してしまえば、するすると言いたいことが出てきた。
「ああ。強く刺激しない程度にな」
「ベッドは? 座ってもいい?」
「いいぞ」
僕はベッドに座り、翔の手を握る。翔は、よくわからない、と言いたげな顔だが、手は振り払われなかった。
翔の手は変わっていない。声も変わってなかった。でも、なんか、違和感がある……。
ただ、それでも、変わっていないところを少し見つけただけで、少しだけ安心する。
「翔」
父さんが名前を呼ぶと、翔はピクッと肩を震わせてから父さんを見上げる。
「この二人は、歩と望。翔の兄だ」
「あに……?」
「お兄ちゃん」
望が補足する。
「っ……」
突然、握っていた手を振り払われ、翔は、僕が握っていた手をもう片方の手で握る。翔の呼吸が少しだけ荒くなった。
僕は、驚いて、父さんを見上げる。父さんも難しいそうな顔をしていた。
「……ぼ、くは、歩」
なんとなく今の雰囲気が嫌で、翔に名前を言ってみる。カオと名前が分かれば、何か引っかかるんじゃないかと思って。
「僕は望」
望も続く。
「……アユ兄。……ノゾ兄」
翔がボソッと言った。
僕と、望のこと……だよね?
「翔。それって……」
僕がそう言うと、翔はびくっとして、俯いてしまう。
やっぱり……。翔、なんか違う。
すると、病室の扉が開き、満さんが皐たちを連れて戻ってきた。
「ありがとう。満」
満さんは、少しあたmを下げ、部屋の端の方に移動する。
「……ミノ?」
僕にしか聞こえない声で、翔が言う。先ほどよりも驚いたような、安堵したような声だった。
「ミノって、稔のこと?」
翔は頷く。
「知ってるの?」
僕が訊くと、翔は、視線を泳がしてから少しだけ頷いた。
「何か、覚えていたのか?」
父さんが訊いてきた。
「稔、知ってるって」
翔が応えそうになかったため、僕が応える。
「稔だけか?」
翔は頷いた。状況が呑み込めていない皐たちは、完全に話についてこれていない。
「先に、全員に説明するか」
父さんはそう言いながら、僕たち全員が見える位置に移動する。僕たち全員が父さんを目で追う。
「翔は、簡単に言うと、君たちを覚えていない」
今までのやり取りで、なんとなくわかってたけど、やっぱり悲しいな。
「……父さんたちも?」
「ああ」
「どこまで覚えてるの?」
「言葉はそれなりに覚えているようだが、人物に関しても、自分に関しても、相川に関しても忘れているようだ」
これから、どうするの? カケ。
「ただ、稔は覚えているようだから、本当に記憶を失っているのかは分からなくなった」
「……これからどうなるの?」
「どうも、何も。いつもと変わらないよ」
「僕らじゃなくて、翔のこと」
「翔については、考えていることはあるけど、とりあえず、リハビリの期間に入っていくから、翔次第なところはあるな。どのプランでいくかは」
「……そっか」
「奏多は、遊びに来ていいよ言っていたから、リハビリに付き合ってやるのも良いかもな」
「来ていいの?」
「ああ」
「毎日来る」
毎日来ても足りない。
「翔の負担にならない程度にな」
「わかってる」
「それじゃあ帰るぞ。これ以上いると、翔の負担になるからな」
「うん」
僕は立ち上がる。満さんを先頭に病室を出る。
「じゃあね。翔」
最後に病室を出た僕は、出る前に振り返ってそう言った。
翔。変わってたけど、変わってなかったなぁ。一緒に家に帰りたいなぁ。
そんなことを考えていると、自然と涙が出てきた。珍しく隣に座っていた父さんが頭をなでてくる。
翔と病室であってから一カ月が過ぎて、翔は退院した。お医者さんである奏多さんも驚きの回復速度だった。
最初の方、僕たちは、毎日会いに行っていたら、翔がパンクしいろんな人に拒絶反応を示したため、一周間会えなかった。それからは、週三日程度で翔に会いに行った。
会いに行くたびに、少しずつ元気になっていく翔を見て、僕らも安心する。
僕たちも、サッカーボールを見て動けなくなることもほぼなくなった。ただ、誰かと一緒にやろうとすると、動けなくなる。兄弟相手出ないと動けないのだ。
一番楽しかった体育は、ほとんど動けないため、あまり楽しくなくなった。チーム競技ができないから、望と二人で1on1をやるしかないのだ。個人競技もできるが、一緒にやるのは難しい。
体育が楽しくなくなるとは、思わなかった。
だが、一番驚いたことは、こんな程度のことではない。翔が外で遊ばなくなったのだ。
誘ってみても、行かないというのだ。何をするのかと訊いたら、広辞苑を読むという。
父さんに相談したら、合意運にでも外に出して、と言われたため、強引に翔を公園に連れて行く。僕らがボールで遊んでいれば、食いついて来るかと思って、翔の前で遊んでみたものの、翔はぼーっと眺めているだけで、入っては来なかった。
その後も、僕らが遊びに行くときは、毎回連れて行くが、翔は眺めているか、本を読んでいるかだった。
あの、一番楽しそうにボールを追いかけていた翔が、だよ。
それ以外は前と特に変わらず過ごしている。試験の結果も前と変わらず満点だったらしい。
「―――そんなこんなで、おれたちのなかで、この事件は終わったんだよな。父さんたちは、その後も少し忙しそうにしてたけど」
……。
「驚くのも無理はないし、当然だと思う。詳しいこととか、中学生のその後とかは、全部このノートに書いてあるから、自分で読むか読まないか決めて」
そう言って歩は、No.105と書かれたノートを差し出してくる。その下には、No.110までのノートがあった。
捨てられてなかったんだ。よかった。
「あり、がと」
俺はそう言って受け取る。
「俺の知らないところでそんなことが起きてるなんて……」
「俺らにとっては、一種のトラウマだな。今も、カケがけがしたら少しヒヤッとするし」
だから、野球でけがした時、みんな動きが鈍くなったのか。
「ごめん。そんなつもりはなかった」
「謝ってほしいわけじゃないけど、一番初めに謝るんだったら、ミノにしてあげて。多分ミノが一番カケがけがしてるのに付き合ってきてると思うから」
「うん」
「この事件からなんだ。アユとかカケって呼ぶようになったの。それまでは、俺、望兄って呼ばれてたし」
「……考えられん」
「まぁ、俺としては、カケが生きててよかったよ」
司に頭をなでられる。
「まだ消化不良だろ。今日はツカのこと見ておくから、消化して来い」
「うん。ありがと」
俺は、歩の部屋を出て、自分の部屋に入る。ベッドに寝転がり、No.105のノートを開く。
まだ、最初の方は、事件前らしく、楽しく運動をしてきたと言っていた、と書いてあった。
あの話を聞いてて、一番驚いたのは、俺が記憶喪失になったことよりも、記憶喪失になる前は運動が好きだったということだ。今の俺では考えられないことだ。だが、NO.30まで読んだ感じでは、逆に今の俺の読書好きのほうがおかしいと感じてしまう。
記憶喪失以外に何かありそうなんだよな。
パラパラとノートをめくり、事件が起きたところまで行く。
ここか。
歩の話とほとんど一致した。中学生の考えが付け加えられていたため、いろいろ納得しながら読むことができた。
他の小学生は、一応、当主とつながってる子たちだし、冗談だと思っていた。か。まぁ、普通、そう思うよな。
そこまで消化不良でもなかったため、理解するのもあまり時間はかからなかった。
自分のことというよりかは、誰かの物語を外から見てる気分。
今の俺にそこまでつながってない気がして。
まぁ、アユたちは違うみたいだけど。
稔には本当にたくさん迷惑をかけているようだ。今も、一番頼れるのは稔だが、それはずっと変わらないらしい。父さんたちの日記にもそう書いてあった。
「あとで、ミノに話してみよ。その前に、アユたちと話し合わせておかないといけないな」
俺は、ノートを閉じ、クローゼットの下に入れてある段ボールに仕舞う。部屋を出て、歩の部屋に入った。
「お、早かったな」
「まぁ、そこまで消化不良でもなかったし」
「じゃあ、ツカのこと、訊こうか」
「な、ななな、何をそんなに、真剣になってるのかな? 歩君」
すごく動揺したように司さんが言う。
完全に演技だろ、これ。
「何をしてたんだ? 両親の葬式にも出ないで」
「……はぁ。入院、してたんだよ。体調崩して」
「体調を崩して入院するとか、何をやったんだ?」
「えーっと、ここ最近……二年ぐらい、生活をおろそかにして小説書いてたら、体に限界が来て、倒れて、三カ月ぐらい入院してました。なので、両親の葬式には行けませんでした。まだ、墓参りにも行けていません」
なんで、丁寧語になってるんだ? まぁ、いいけど。
「早く行って来いよ」
「そこまで編集者さんを連れて行くのはなぁ……と思いまして」
「何で、編集者さんを連れて行かないといけないんだ?」
「また、倒れられては困るから、って、編集者がずっとくっついてた」
「なるほど。じゃあ、今年の春に、行こう。帰りは誰かに着かせるから」
「歩っ。優しいね」
「父さんたちにそれはないかなと思っただけ」
「それでもうれしい」
「はいはい。それで、編集者を連れるのは嫌だから、カケに接触したんだろ?」
事件は起きました。今の翔は、この時から始まっています。
両親は、ほとんど会うことがないため、ノートに日記としてずっと残していました。そんなこともあったなぁ、と後で思い返せるようにです。翔の事故が起きてから、よりしっかり書くようになってます。また、こんなことがあったとき、何かきっかけになるように。
次回は、 司 前編 です、




