✤8
こんなに長く眠ったのはいつ振りだろうかとリゼットはぼんやり考えた。
多分、子供の頃、両親が健在で会った頃が最後だ。
家族が母だけになってからは、母の助けにならなければと家の手伝いをたくさんした。その母も亡くなってからは送られた先の孤児院でいろんな雑務があって、病気でもなければそんなに長くは寝られなかった。慣れてきてからも自分の分だけでなく、小さい子の手助けもして余計に仕事が増えた。
メイドになってからはもっとひどい。
早朝から夜間まで仕事漬けだった。いつも眠たかった。
そして、ロッセル家に来た時が最低最悪だ。不安で眠れなかった。
そのロッセル家に兵士たちが押し寄せ、アダンを取り押さえた。だからこそ、リゼットの心配事は消え、今、ゆっくりと眠ることができたのだ。
目が覚めたら、またいろいろな面倒なことがあるはずだ。
それがわかっているから、今はせめてゆっくりと眠っていたかった。
絵に描いたような美男子に抱き留められて気を失ったところまでは覚えている。
あの状況で眠ったのならいい夢を見られるだろうかと思ったけれど、これといって夢は見なかった。目覚めてからそれに気づいた。
ゆっくりとまぶたを開くと、見えたのは天井だった。その天井がどこの部屋のものなのかは知らない。リゼットが暮らしていた使用人用の相部屋ではないし、ロッセル家の地下でもない。
けれど、天井は美しい幾何学模様で、柔らかなベッドは上等なものだ。
気を失う前の状況を考えても、遠いところに連れていくとは考えにくい。ここはまだロッセル家の屋敷だろう。
身じろぎすると、そばにいた誰かが椅子から立ち上がった。
「気がつきました?」
聞いたことのない声だった。ゆっくりと首を向けると、そこにいたのは金髪の若い女性だった。かなりの美人なのだが、媚びたところがなく、それでも高飛車な感じは受けない。乗馬の途中で抜け出してきたようなパンツスタイルで、髪も邪魔にならないように結い上げている。
使用人ではない。ただし、わかるのはそれだけであった。
状況が全く呑み込めず、リゼットはベッドの上で呆然としていた。そんなリゼットに、女性は気づかわしげな微笑みを見せた。
「気分は――いいわけがありませんわよね。でも、少しだけお話を窺えるかしら?」
「あ、あの……」
声がかすれる。
すると、女性はサイドテーブルにあった水差しから水を汲み、手ずからそれをリゼットに与えてくれた。生ぬるい水が喉を滑り下りると、ほんの少し落ち着いた。
リゼットの表情からそれが窺い知れたのか、女性は言った。
「私はロジーナ・クララック。あなたのお名前は?」
「リゼット・ルグランと申します」
まるで催眠術にでもかかったかのように、自然に言葉が出た。ロジーナの持つ品格が相手を従わせる。
それでも、ロジーナは慈愛に満ちた目をしていた。
「そう、リゼットは私と同じくらいの年頃ですわよね。気を楽にしてお話しましょう?」
病人でもないのに、いつまでもベッドの中にいていいものだろうか。とっさにベッドから抜け出そうとして、そこで思い出してしまった。足首に枷が嵌められていて、思うように動かなかったのだ。
リゼットはベッドから抜け出すのを諦め、そこに座り込んだままでここへ来た経緯を話した。ロジーナは、話の腰を折らなかったけれど、柳眉を顰めた。もしかして、信じてもらえないのだろうかと、リゼットは不安になってきた。
思えば、ただのメイドに過ぎなかったリゼットが貴族に見初められたというのも現実味がない。ロジーナほどの美貌があればまた話は別かもしれないけれど、リゼットはそこまで己惚れることはできなかった。
アダンの考えはまるでわからない。わかりたくもないけれど。
話し終えると、ふぅ、と息をついた。肩にのしかかっていた重荷がほんの少し軽くなったような気がしたのは、ロジーナが真剣に聞いてくれたからだ。
会ったばかりの、何も知らない相手ではあるけれど、彼女のことは信じてもいいような気になった。あんなに裏切られてばかりいたリゼットに人を見る目が備わっているわけもないのに、だ。
ロジーナの青い瞳が潤んでいて、まっすぐにリゼットを見つめている。この美しい青い瞳を他に知っているような気がしたのは何故だろうか。
ロジーナはリゼットの白い手袋をしたままの手を両手で握り締め、一度唇を引き締めると、軽くうなずいてから言った。
「リゼット、あなたはこれから幸せになりましょう! 大丈夫、すべては過去になりましたの。嫌な目に遭った分だけこれからいいことがたくさん訪れるのですわ」
まっすぐな女性だな、と思った。
リゼットにはロジーナのまっすぐさが眩いばかりだった。
終わったこと。過去の話。本当にそうなのに。
忘れられない。
アダンはこれから悲惨な目に遭う。命だって失うかもしれない。いい気味だと言ってやりたいほどだ。
けれど、メロディたちにはなんのお咎めもない。リゼットが訴え出たところで口裏を合わされてしまえばそれまでだ。証拠もない。
――許せない。
あの裏切りをなかったことにはできない。
いつか、なんらかの方法で報復したい。
落ち着いてみると、復讐心が改めて沸々と沸き起こってきた。誰かを恨んでいては、リゼット自身もいつまでも幸せにはなれないとしても、許せない。
絶対に、どれだけかかってもやり返す。
やり場のない怒りを、リゼットは深呼吸をして奥底に押し込めた。けれど、一度灯った火は完全に消えることはない。
「……リゼット、つらいことを語って疲れたでしょう? お茶でも頂きましょうか。その前に着替えた方がいいかもしれないわね」
ロジーナは、リゼットの手を軽く引いた。
いつまでもこんな花嫁衣裳を着ていたいはずがない。着替えたい。けれど、リゼットのメイド服は捨てられたのだ。着る服がない。
「着替えは与えられたものばかりで、私の持ち物はないのです」
あるのはリボン一本だけだ。服はすべてアダンから与えられたもの。それにまた袖を通すのは複雑な気分だった。
「それなら私の服はどうかしら? 多分サイズは合うと思うわ」
どこまでも優しい。リゼットは涙が溢れそうになった。
その時、ロジーナの服装を見てハッとした。リゼットはドレスの裾を捲り、足首をあらわにする。鉄製の枷が、リゼットの足首にあった。
ロジーナはそれを見て唖然とした。そうして、貴人にしては声をかけづらいほどの怒りを顔に出す。
「これはロッセル家のあの馬鹿息子の仕業かしら?」
「ええ。その馬鹿息子の……。ですから、今はスカートしか履けないのです」
「鍵は? まさか、あの馬鹿息子が持っているの?」
「はい。あの馬鹿息子が内ポケットにしまいました」
本当はこんな言い方をするつもりはなかったのだけれど、ロジーナがあんまりにもあっさりと馬鹿馬鹿言うものだから、つい乗っかってしまった。でも、馬鹿と言えてちょっと嬉しい。
しばらく、ロジーナは目を閉じ、怒りに震えているように見えた。かと思うと、額に手を当て、深々と嘆息する。
「困ったわ。あの馬鹿息子は兄様が連行してしまったの。伝令を走らせたら追いつけるかしら……。なんにせよ、ここでゆっくり待っている場合ではないわね。リゼット、あなたも王都へ向かいましょう」
「え? えぇ?」
リゼットは、王都になど行ったことがない。知り合いもいない。足枷をしたままそんなに遠くへ行けるとは思えなかった。
困惑するリゼットに、ロジーナは安心感のある笑みを浮かべてくれた。
「大丈夫。私がついているから。それから、私の婚約者も事後処理にまだここにいるから、なんとかしてくれるはずよ」
そこまで世話になってもいいものかと思うけれど、この枷を無理やり外すのは難しいことなのだろう。恩はまたいずれ返す。今は甘えさせれもらうしかない。
「申し訳ありませんが、お願い致します……」
深々と頭を下げても、ロジーナは首を振るだけだった。
「そう堅くならなくてもよくってよ。さあ、急がないと。兄様のことだから、脇目もふらずに先を急いでいるはずですもの。結構先に進んでいるのではないかしら」
兄、とさっきから言っていた。その言葉で思い出した。
ロジーナの青い瞳は、あのジスランという青年とよく似ていたのだ。