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アダンの腕にかぶりついてやろうかと思ったものの、あまりにも締めつけが強くて、それどころではなかった。来るな来るなと叫んでいるアダンは我を忘れており、そんなにも締めつけたらリゼットは息ができなくなるということにも気づけないようだ。
いや、もしかするとそれすらどうでもよかったのかもしれない。
大事なのは自分。他人なんて壊れたら捨てればいいだけの道具だ。
けれど、そんな考え方をしているからこそ、今の状況に遭っているのではないのか。いい加減に諦めて断頭台にでも立てばいいのに。少しも可哀そうには思わないから。
兵士たちも、リゼットに構わずにアダンを捕まえればいい。怯んでいるのはなんでだろう。
友達にさえ売られてしまうような無価値なリゼットでも、死なせたら責任問題が発生するのかもしれない。
アダンを捕まえてくれるなら、死んでもこの人たちのところには化けて出たりしない。死んだら『恨んでいません』と一筆書くこともできないけれど、このままアダンとの初夜や新婚生活に突入するくらいなら、この流れはむしろ歓迎したい。
なんてことを考えていたリゼットは、酸欠で頭が朦朧としてきた。足がほとんど浮いていて、爪先くらいしかつかない。手にも力が入らなかった。あ、これではアダンよりもリゼットの方が先に昇天してしまう。
騒がしい現状が妙に静かに感じられた。もう駄目だ。
その時、アダンが手を放した。何かを喚いている。何が起こったのかももうよくわからない。
リゼットは硬い石畳の上に倒れ込む――はずだった。それを抱きとめてくれた腕があった。
「危なかったな……」
ほっとしたような声だ。優しい、性根の綺麗な人間にしか出せない声だ。
「嫁にするつもりだったんだから好意があったんじゃないのか? その女より我が身の方が可愛いとか、どうしようもないクズだな」
まったくだ。その声に賛同したかった。
抱き留めてくれた人にも礼を言いたかったけれど、限界だった。気が遠くなって、そのままその人の腕の中で気を失った。
――この人はジスランという名だったはずだ。キラキラと光をまとっているような美青年で、そんな人の腕の中に花嫁姿で倒れ込む。これは不遇なリゼットに神様が用意してくれた、ちょっとしたご褒美だったのかもしれない。
ほんの少し得をした、程度のご褒美だけれど。
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「連れていけ」
「はっ」
ジスランは花嫁を支えたまま、半狂乱で喚き散らすアダンを連行するように指示した。
バディストがとっさに投げた石が上手い具合にアダンのこめかみに当たったのだ。そんな程度のことで怯むのだから、大それた悪事などは向いていないのだ。
手枷を嵌められたアダンは獣のように暴れた。それでも、屈強な兵が三人がかりで押さえているのだから、細身のアダンに抵抗することなどできない。
もう少し往生際がいいかと思えば、最後までひどいものだ。
自分が花嫁にするつもりだった女性を盾に取るなど、人として許されない。
意識のない花嫁に視線を落とす。まだ少女とも言えるような、銀髪で華奢な女性だった。きっと、ロッセル家の悪行を何も知らず、舌先三寸で騙されたのだろう。さっきの騒ぎで百年の恋も一気に冷めたはずだ。そういう意味ではよかったのかもしれない。
とにかく、まずは休ませてやるべきだろう。ジスランは花嫁を横抱きに抱えた。
「そうしてると、お前の嫁みたいだぞ」
バディストに笑われた。ジスランは軽く顔をしかめてみせる。
「ふざけている場合じゃない。休ませてやらないと」
「まあ、そうなんだけど、この花嫁がどこまで知ってるかによるよな。ロッセル家の悪事に加担していたとは考えにくいけど、知っていて黙認した可能性もある。グルだったらやっぱり連行しなくちゃいけないし、気がついてからまずは話を聞かないとな」
「そうだな。でも、多分、こんなことになって傷心だろうから、気遣いを忘れずにな」
すると、バディストは人懐っこく笑った。
「なあ、そのまま運んでやれよ。俺が代わってやろうかと思ったけど、俺が抱き上げる花嫁はロジーナじゃないと」
「ああ、そうか」
投げやりに答えた。他の誰かに任せようかと思ったけれど、女性を運ぶのに色んな男の手が加わるのは当人が嫌だろう。これもとっさに抱き留めた後始末のようなものだ。
この花嫁の部屋はどこだろうか。
ロッセル家当主も夫人もすでに手筈通り護送車に詰め込んでいるはずだ。屋敷にいるのは使用人だけで、それも兵士たちが押さえている。
ジスランは花嫁を抱えたままアーケードを行き、エントランスに入った。扉は開け放たれたままで、使用人たちが集められている。
気を失っている花嫁を見て、皆がぎょっとしたが、生きていることはすぐにわかったのだろう。顔が穏やかになる。
ロッセル家の使用人たちは一様に重圧から解き放たれたと思っているように見えた。今後の仕事を探さねばならないとしてもだ。少しも大事にされず、恐怖に支配されていたのだとわかる。
そのロッセル家が崩壊したのだ。使用人たちは雇い主の不利になることでも平然と喋る。
「彼女の部屋はどこだ? 休ませてやりたい」
ジスランが訪ねると、メイドの一人が躊躇いがちに言った。
「地下です。でも、あの部屋は薄暗くて気が滅入るばかりですから、客間をお使いになっては如何でしょう? ご案内致します」
「ああ、頼む」
メイドに連れられ、客間に向かう。ホールから湾曲した階段を上がり、右に折れてすぐのところだった。
見栄があるのか、客間は上質な調度品で飾られていた。淡いグレーベージュのシルクのベッドシーツの上に花嫁を下す。メイドはすぐに花嫁の靴を脱がせ始めた。そこで肩を震わせ、うつむきながら言った。
「アダン様は気に入った女性ができると、どんな手を使ってでもお連れになり、相手の心などまるでお構いなしにいたぶります。前の奥様もそうでした。ひどい仕打ちで、毎日痣だらけになった奥様のお体を洗って差し上げるたび、涙が止まりませんでした」
ゾッとするような話だ。この花嫁も、本人が承諾したわけでもないのだろうか。
メイドは花嫁の裾を戻すと、シーツをかけ直す。そうして、ジスランに背を向けたまま、素早く手の甲で顔を擦った。
「そうしているうちに、前の奥様は身ごもりました。でも、アダン様は子供が殊のほかお嫌いで、奥様に対する折檻は日増しにひどくなって、ある日――膨らみ始めた奥様のお腹を踏みつけたのです。奥様は、亡くなられました。大奥様もそのことを知るなり、奥様は男と逃げたなどと言いふらして、後は浮浪者に金貨をちらつかせて遺体を処分してしまったという噂です」
ろくな人間ではないと思っていたけれど、思った以上にひどい。罪状がまた増えた。その線も洗い直してみなければならない。
前妻の無念を晴らしてやれたら、とジスランは思った。
いつまでも目を覚まさない新しい花嫁は、現実に嫌気が差してこのまま眠り続けてしまうのではないだろうかという気になった。
花嫁に視線を落とすジスランに、メイドはつぶやく。
「この方は連れてこられて日も浅いのです。髪をつかまれたり、首を締められたり、暴言を吐かれたりはされておりましたが、逆に申しますとそれだけで済んだのは不幸中の幸いでした」
「そうなのか……」
それでも十分に心に傷を負いそうなものだが、まだ手はつけられておらず、綺麗な体だとメイドは言いたいようだ。女性にとっては重要なことだろう。
こんな話を聞いてしまうと、この花嫁には今後、幸せになってほしいと思う。笑顔で過ごせるようになるまで、時間が必要かもしれないけれど。
「ありがとう。すまないが、代わりが来るまでこの女についていてくれないか? 目覚めたら知らせてほしい」
「はい、畏まりました」
虐待されているのを知りつつも、何もできずにいたことに罪悪感を覚えているのだろう。メイドは力強くうなずいた。
ジスランは客間を出た。
ロジーナを連れてきてよかったかもしれない。彼女から事情を訊くのは妹に任せよう、とジスランは考えた。
花嫁は無関係であると判断してもいいだろう。
そうなると、まずしなければならないのは、ロッセル家の親子の引き渡しだ。