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逃げたい気持ちはあっても、窓もない部屋に閉じ込められていたのでは逃げようがなかった。それに、逃げたら誰かが折檻される。ここでリゼットが犠牲を厭わずに逃げたら、リゼットを騙して差し出した連中と同じになり果ててしまう気がして、それが何よりも耐えがたかった。
純白のドレスに身を包んだリゼットからは溜息が零れた。
上等なシルクにレースをふんだんに使ったドレスだ。庶民と結婚したら、こんなドレスに袖を通すことはなかっただろう。
けれど、それでも、好きな人と結婚したかった。好きな人なんていなかったけれど、少しくらい気になる人はいた。
買い出しに行って優しくしてくれた店の青年は爽やかだった。あんな人がよかった。
まだまだ先だと思っていた結婚が、こんなにも重苦しくおぞましいものになるなんて、リゼットには想像もつかなかったのだ。
見張りのつもりなのか、ドレスを着つけた後もメイド二人は去らなかった。リゼットの後ろに控えている。
その時、ドアがノックされた。けれど、それはアダンではない。アダンはノックなどしないからだ。
顔を見せたのは、アダンの母親であるロッセル夫人だった。紺色のドレスを着た婦人は、背筋を伸ばして部屋に入ってくるなり、虫けらでも見るような目をリゼットに向けた。
「結婚式を終えたら、あなたはアダンの妻です。けれど、勘違いをしないように。あなたには高貴な血など一滴も流れていないのですから、私たちとは違うのよ。同じであるとは思わないようにしなさい。アダンに仕え、あの子の気が済むようにしていればいいの」
あなたたちと同じ血が流れていないことを誇りたい、とリゼットは思った。言い返したところでこの結婚を取りやめてくれることはないのだとわかっている。
婦人は息子にとんでもなく甘いのだ。望みはすべて叶えてやりたいのだろう。
それがどんなことであれ――。
「あなたには身寄りがないそうだから、それがよかったのよ。もしいたら後で色々とうるさいもの。それがないから許したのよ」
父や母が生きていてくれたら、リゼットはこんな目に遭わなかったのか。二人とも好きでリゼットを置いて逝ってしまったわけではないのに、悲しくなった。
リゼットは、消え入りそうな声ではい、とだけ答えた。夫人はそれを鼻で冷淡に笑うと出ていった。
しばらくして入ってきたのはアダンだ。花婿の装いで、胸に花を挿している。
浮かれた顔を見せながらも、手に持っていたのは鎖のついた枷であった。
「大丈夫だよ、ドレスで見えないし、夜には外してあげるから」
そう言って、メイドたちにその枷を手渡す。
外へ出しても逃げられないようにということだろう。どこまでも用意周到だ。
メイドたちは二人がかりでリゼットの足に枷を嵌めた。歩けなくはない長さはあるけれど、走るのは無理だ。
本当に、この男はリゼットを人として扱わない。これからもずっとそうだろう。
アダンは仰々しい手つきで内ポケットに入れてある鍵を見せびらかした。あれがこの枷の鍵のようだ。
「さあ、行こうか」
そう言って手を差し伸べる。近くに刃物があったら確実に刺していた。
切実に刃物がほしいと思ったけれど、手には白花のブーケしかない。無力なリゼットは、従うしかなかった。
精一杯の抵抗は、涙が零れないようにすることだけだ。
アダンの手を取り、腕につかまる。二人、並んで歩いた。
向かう先は多分庭だ。神父を呼んであるのだろう。階段を上り、廊下を行くと、ほんのりと光が差していた。日の光を拝んだのは久しぶりで、たったそれだけのことに目が眩む。
「美しい青空だ。今日はいい日になる」
リゼットにとっては人生のどん底である。ふざけるなと言いたい。
ギリ、と唇を噛んだ。血の味が広がる。
柔らかな日差しにも目が疲れる。目の前が白くなって、リゼットの目が慣れるまでに時間がかかった。アダンに引っ張られながら石畳の道を歩く。
するとその時、大きな叫び声が聞こえた。それは結婚を祝う歓声などではなく、悲鳴だった。
「な、なんだっ?」
その焦り具合から、これはアダンのあずかり知らない事態らしい。その慌てぶりをリゼットは内心で嘲笑った。
なんだっていい。何か事件が起こっているのなら、アダンたちにとって悪い方へ転がってくれればいい。
人生で何度目か、真剣に神に祈った。どうかこの男に天罰を下してください、と。
遠くに人影が見えた。かと思うと、すぐさまリゼットたちは包囲された。この軍団はなんだろうか。
盗賊などではない。正規兵だ。リゼットには縁がない兵士たちではあるけれど、時折町の視察に来ているのを見たことがある。
ワインのような深い色合いの制服に金ボタンが光る。抜身の剣も光を反射して、リゼットは目がチカチカした。けれど、呆けている場合ではない。兵士たちの剣先がアダンに向いたのだ。
「アダン・ロッセル! お前の罪状を読み上げていたら日が暮れてしまう。証拠はすでに十分だ。身柄を拘束する」
ひと際目立つ青年が、剣を構えながら言い放つ。
その姿に、まるで観劇でもしているかのような心境で見惚れてしまった。長身に引き締まった体躯、それにしては優しげな面立ちの青年である。青い瞳には気品と勇ましさが混在していて、こんな人が実在するのだなと、状況も忘れて驚いた。
アダンとは年は近くとも雲泥の差である。比べてみるとアダンは貧相だった。
「お、お前は、ジスラン・クララック……」
うわ言のようにアダンがつぶやいた。ジスランというのがあの美青年の名前らしい。
「気安く呼ぶな。このゲス」
そんなことを言ったのは、隣にいた黒髪の青年である。どこか飄々としていて緊張感がない。
「今日が結婚式とはなぁ。まあ、誓う前でよかったんじゃないか? 花嫁さんが悲惨なことになるし」
まさにそうだ。悲惨なことになっていた。
もしかして、結婚は未遂で終われるのだろうか。
リゼットの内側から、じわじわとあたたかな感情が沸き起こる。神はリゼットを見捨てなかったのだと。
しかし、アダンは往生際の悪い男である。万事休すというこの状況で、リゼットの首に腕を巻きつけ、自分の盾にしたのである。
「来るな! 来たらこいつを殺すぞ!!」
あと一歩。あとひと息で自由が手に入るだろうか。
これが最後の試練と思いたい――。