✤46
「わ、私――」
リゼットは机に腕を投げ出したまま、呆然と魔女を見上げた。
「そうね、二時間ほど眠っていたかしら」
急に寒くなったような気がして、リゼットは自分の体を抱き締めて身震いした。そんなリゼットに、魔女は陶器の入れ物の蓋を開けながら言う。
「これが解呪の薬よ。約束通り、あなたにあげる」
「あ、ありがとうございます!」
リゼットは頭を下げると、涙を拭った。けれど、また涙が溢れてくる。
これは安堵の涙だ。やっと、ジスランが助かると思ったらほっとして力が抜けてしまった。
涙にも色々とある。ジスランにはひと通りの涙を経験させられそうだ。
魔女は軽くうなずく。
「呪いがかかっている傷口にこの膏薬を塗り込めばいいの。それで呪いは解けるけれど、そうね、多分体力が落ちているからこっちの回復薬もつけておこうかしら」
と、小瓶も棚から出してくれる。案外親切だった。
それに、いつの間にかリゼットが擦り剥いた手に包帯が巻かれていた。他の誰かなはずもなく、魔女が眠っているリゼットの手当てをしてくれたのだろう。
やはり、母が言ったように魔女は純粋な『悪』とは違う。
「私の傷の手当までありがとうございます。あの、こんなにお世話になって、本当にお礼は要らないのですか?」
おずおずとリゼットが問いかけると、魔女はまたうなずいて返した。
「だって、こんなところにいてお金なんて使い道がないもの。ここを訪れる人はほとんどいないし」
自給自足の生活をしていたらそんなものなのだろうか。
「お言葉に甘えさせて頂いてもよろしいのなら、ありがたく頂戴しますね。本当に、なんとお礼を言っていいやら……」
リゼットは、ふたつの薬を大事に抱き締めるようにして持つ。
すると、魔女はふと表情を和らげた。
「あなたは約束通り悪夢に打ち勝って意志を示したわ。そういう人間は好きよ」
夢中で、ジスランを助けることしか頭になかった。そんなふうに言われたことが意外ではあるけれど、今は自分を卑下するのはやめよう。今は、ではない。これから、ずっと。
リゼットは、ジスランを助ける手段を得た。何もできない自分ではない。
少しずつ、こうして自信をつけて生きていく。胸を張って、ジスランの隣で。
アリアンヌがどう思うのかなどということは、リゼットが考えてあげることではない。
「……アリアンヌ様の手助けをしたのはあなたですよね? その呪いを解いてもいいのでしょうか?」
「彼女に義理があったわけではないの。心とは裏腹なことばかりを口にする彼女に手を貸したのは、ほんの気まぐれ。でも、呪いを解くなとまでは頼まれていないもの。もういいでしょう」
どんな想いを抱えていたとしても、アリアンヌは死を選び、リゼットは生きている。リゼットの想いが彼女を越えるのは不思議なことではない。
「ありがとうございます。今さらですけど、私はリゼット・ルグランと言います。あなたのお名前は?」
「カーヤ」
不思議な響きの名だった。けれど、彼女には合っている。
「カーヤさんですね。またお会いすることはあるでしょうか?」
そうしたら、魔女――カーヤはリゼットの目をじっと見て、ポツリと言った。
「ないわね。この先、あなたと私が交わるところはないわ。でも、それはあなたが平穏に暮らしていくということ」
カーヤは予言めいたことを口にする。彼女にはどんな未来が見えているのだろうか。
「……それは、私がここに来てもお会いして頂けないということでしょうか?」
恩人と言える相手だ。これっきりでさようならというのは心苦しい。
けれど、カーヤはそう受け取らなかったようだ。
「ここへあなたが一人で辿り着けることはないわ。だから、会うことはないでしょうね」
ここはエストレ地方南部の森の奥――ではないのか。森の奥はどこへ続いているのだろう。
それを訊ねても、カーヤはきっと答えてくれない。
リゼットのことも気まぐれで助けてくれたに過ぎないのだろうか。
リゼットを家から送り出す時、カーヤはまっすぐに正面を指さした。
「まっすぐに行くの。横道に逸れないようにね」
「はい」
「それと、さっき飲んだ薬の効果がしばらくは続くかもしれないわ。嫌な夢を見ると思うけど、薬のせいだから」
サラリと嫌なことを言われた。けれど、悪夢ならよく見るし、慣れている。これくらいやり過ごせる。
「わかりました。本当にありがとうございます」
薬を抱えてしつこいくらい頭を下げるリゼットに、カーヤは微笑して手を振った。
「さよなら、幸せにね。銀髪の素敵なリゼット」
銀髪の――。
リゼットは自分の髪を撫で、クスリと笑ってカーヤに手を振り返した。
魔女が銀色を好むのかどうかは知らないけれど、この髪の色は祖母譲りだ。今のリゼットがあるのは、今はそばにいなくても色々な人のおかげなのかもしれない。
カーヤが指示した道を、リゼットはまっすぐに歩いた。
早く帰りたい。
帰って、ジスランを目覚めさせて、たくさん話をしたい。
ジスランがくれたたくさんの愛情を、リゼットも同じだけ、もしくはそれ以上に与えたい。
大好きだと、会いたかったと。
大事な薬を手に、リゼットは慣れない森の道を行く。
木々の枝葉がアーチのように空を隠している。根っこに躓かないように、靴底で道を確かめながらリゼットはそこを抜けた。ほんのりと明るくなった空が見えた。




